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奴隷の少女は公爵に拾われる 145

 月と街灯が照らす石畳の道を、ゆっくりと馬車が進んでいた。道の脇に立ち並ぶ家からは人の起きている気配はなく、馬車の車輪が回る音だけが妙に大きく響く。

「ツィル、今日は楽しかったかい?」

 馬車の中で国守の公爵が隣に座るツツィーリエに声をかける。少女はその男の方を向くと、黙って頷いた。

「そうかい。また国富の公爵とエレアーナ嬢にお礼を言いに行かないといけないね」

 少女がまた小さく頷いた。

「今日はたくさんあるいて疲れただろ?」

 ツツィーリエは人形の様に表情を変えず、小さく首を横に振った。

「そうかい?なら良いんだけど」

 公爵はツツィーリエの黒い髪を優しく撫でる。

「春が来て夏前になったらツィルの初成人をしよう」

『なんで?』

「ツィルの誕生日は分からないからね。どうせなら気持ちの良い季節が誕生日のほうが良いだろ」

 ツツィーリエはほんの少しだけ瞼を下げながら頷いた。

「眠いかい?」

 ツツィーリエが首を横に振る。

「そうかい」

 公爵は笑みを浮かべる。

「国富の公爵のところで食べたご飯は美味しかったかい?」

『とても美味しかったわ。たくさん食べたし』

「ツィルがあるだけ食べていたからね」

『行儀悪かったかしら』

「いや、別にそんなことはないよ。ツィルがたくさん食べると知ってたからあれだけ料理が出てきた訳だし。せっかく作ってくれたものを残すのはもったいない」

『お父さんはあんまり食べてなかったわ』

「いつもあんまり食べないだろ?それに国富の公爵と喋っている時に紅茶とお茶菓子を食べたからね」

『美味しかった?』

「ん?お茶菓子のこと?美味しかったよ」

 ツツィーリエは小さく何度か頷きながら、ゆっくりと体を傾けて行く。

「ツィル、眠い?」

 ツツィーリエが慌てたように体を起こし首を横に振る。

「寝ててもいいよ?」

『折角お父さんと一緒にいるのに勿体無いわ』

「そうかい」

 公爵はまたツツィーリエの髪を撫でる。

「ファフナール君とは仲良くやっていたかい?」

『えぇ。久々に同じくらいの年の子と会話したわ。でも、私とは色々やっていることが違うのね。ビックリしちゃった』

「そうだね。彼はそのうち外交もしないといけないからね。色んなことを体験して喋れるようになる必要があるんだろ」

『私も何かやった方が良いかしら』

「まだ良いよ。初成人が終わってから、私の仕事の補佐をしてもらおう。その間に色々経験してもらう」

 ツツィーリエが頷いた。

「ツィルの初成人か。楽しみだね」

『そう?』

「あぁ」

 ツツィーリエは言葉の続きを待っていたが、眠気に負けて瞼を半分以上閉じた。それを見た公爵は何も言わず、ただツツィーリエの方を優しく見ている。

「おやすみ」

 公爵の言葉を聞くと、ツツィーリエが何かに抵抗するように首を小さく横に振る。だが、睡魔に負けて崩れるように公爵の肩にもたれて、小さい寝息を立て始めた。

「お嬢は寝たか?」

 大きい馬車の中でその巨体を窮屈そうに縮めていたモヌワは、無防備に寝ているツツィーリエの方を見ながら尋ねた。

「あぁ、寝たみたいだ。無理もない。今日はほぼ一日中歩いていたから」

「あのガキと一緒に図書室に行ったときは、お嬢がしばらく本から離れなかったが」

「本を読むだけでも疲れるさ。ましてや他人の家だもの」

 公爵はツツィーリエの寝息を聞きながら、ゆっくりとツツィーリエの髪をなでる。

「お嬢は私みたいに体力があるわけじゃないって、こんな寝顔を見ると改めて思うな」

「そうだよ。あんまりこの子に頼りすぎるときっと無理をしてしまう。私といるときくらいは子供でいても良い」

 公爵の表情は普段の仕事の時に浮かべる愛想笑いではない、優しい笑みだった。

「公爵さんよ」

「なんだい?」

「あんた、何するつもりなんだ?」

 モヌワが金色の瞳に真剣な光を浮かべて、銀髪の公爵を見る。

「何って?」

「とぼけんなよ。国富の公爵と一緒に初成人の儀をする理由、なんか隠してんだろ?」

 公爵はそれには答えず、ツツィーリエの頬を優しくなでる。

「黙ってないでなんか言えよ」

「ツィルに何か悪い影響があるようなことはしないよ。色々思惑があるのはこういう仕事をしていれば当然のことだ」

「はぐらかそうったってそうはいかねぇぞ」

 モヌワが狼のように歯を剥きながら公爵に詰め寄る。

「静かに。ツィルが起きる」

「おい、正直に―――」

「何度も言わせないでおくれ」

 公爵の色素の薄い灰色の目が、狼のように凶暴なモヌワの目を射すくめる。表情には一切の凶暴さはないが、奥には確かな鋭さを持つ牙があることをうかがわせる強烈な迫力があった。自分よりもふたまわりも小さい細身の男の眼光に、百戦錬磨の元傭兵は思わず体をのけぞらせる。

「ツィルが起きる」

 公爵は我が子を守る虎のように、一切の牙を見せることなくその迫力のみで相手をひれ伏せた。

「悪いようにはしないよ。すべてツィルのためだ」

 灰色の瞳がわが子に向き直ると先程の威圧感は煙のように失せた。優しい親の顔に戻る。

「そのために、ちょっとした予防策を講じるだけだ」

 モヌワはそれ以上何も尋ねることができなかった。

「ちょっとした、ね」

 モヌワにとっては、先程の迫力よりも、公爵のその愛情に満ちた表情の方を見た瞬間に背筋に鳥肌が立った。

(こいつ、何するつもりなんだ?)

 モヌワの恐怖をよそに、馬車は深夜の街をゆっくり静かに駆けて行く。

この章はこの話で終わり

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