奴隷の少女は公爵に拾われる 135
小屋の中は狭く、人が数人寝るための空間と料理を作るためのかまど、壁に作られた棚程度のものしかなかった。だが、そのかまどの上には大きな鍋が複数置いてあり、それらの前でヒィマナが忙しく動き回っていた。鍋からは湯気と共に良い匂いが広がっている。
「シマワさんはあっちの方から鍋つかみ取ってきてください!」
ヒィマナが小さい体からとは信じられないほどの迫力で指示を飛ばしながら、大量の料理を作っていた。
「はいはい。はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「あ、お茶をお出ししなきゃ」
ヒィマナが忙しそうにしている横でシマワが小さなヤカンを取り出し、何かを探すようにきょろきょろとしている。
「シマワさん、コップならもう出してます!」
「あら、ありがとう。ヒィマナは気が利くわね」
シマワがニコニコしながら自分の胸のあたりにあるヒィマナの頭をなでる。
「シマワさん!早くお茶をお出しして、こっちに戻ってください!もうすぐ食事の時間ですよ」
ヒィマナは少し顔を赤らめながら、それでもキッとした表情で僅かに見える窓の方を指さす。
「あら、もうそんな時間?」
シマワがヤカンを片手に首を傾ける。ヒィマナはものすごい速さで鍋の前に戻ると、足場に器用に登り大きな混ぜ棒で鍋の中身を混ぜはじめる。漂ってくる匂いがさらに強くなり、ワーリのお腹がなる。
「うまそ―」
と言ってワーリが鍋の中に手を突っ込もうとするのを、ヒィマナがほとんどとび蹴りの勢いで撃退する。
「ちょっとくらいいいだろ!?」
「つまみ食いする余裕があるんなら手伝いな!」
小屋の中が喧騒に包まれていくのを、ツツィーリエはじっと見つめていた。
「ずいぶん騒がしいですね」
ツツィーリエは小さく頷き、おもむろに大きく深呼吸をする。
「お嬢?」
ツツィーリエは数回ゆっくりと美味しそうな匂いを吸い込むと、上着を脱いでゆっくりと鍋の前に歩いていく。
「なに?つまみ食いならダメよ!」
ヒィマナは麺棒でワーリに威嚇していたが、ツツィーリエの方を見てそっちの方に向かってくる。ツツィーリエは一つの鍋の前で止まると、手を動かして何かを伝えようとしている。
「なに?何か言いたいことがあんならしゃべらないとわかんないよ」
怪訝そうに片眉を上げながらツツィーリエの顔を見上げるヒィマナを見て、ツツィーリエがポケットから紙を取り出し何か文字を書く。
「なんなの、いったい」
「あ、言うの忘れてた。その子喋れないんだ。筆談できるか?」
「はぁ?何それ」
ヒィマナの前に文字が書かれた紙が差し出される。
「なにこれ?文字?私文字なんか読めないわよ」
紙を一瞥すると、すねたように麺棒を肩に担ぐ。そういわれたツツィーリエはその紙を見直し、手を動かそうと一瞬手を上げるが、それもすぐやめる。その代り、小屋の中を見渡して一つの戸棚の方に歩いていき、迷いなく戸棚の一番下を開ける。
「なにやってんの」
ヒィマナは小さな体を伸ばして、屈んだ状態のツツィーリエの手元を覗く。ツツィーリエは何か小さなツボのようなものを抱えて、それをヒィマナに見せる。そのツボからはかなり癖のある塩辛い匂いが漂っていた。
「何?それは味付け用の濃魚だよ」
ツツィーリエはツボを指さし、次に鍋の一つを指した。ヒィマナは何か言おうと口を開く。だが、突然目を大きく開き、指さされた鍋の前にすっ飛んで行った。そして、お玉で以てその鍋の中の煮立った汁を掬うと、数回息を吹いて口に含む。
「ゲッ。味薄い」
「え、なんだよそれ」
ヒィマナはワーリの言葉を無視して、足場から飛び降りる。その目の前にツツィーリエが濃魚のツボを持って立っていた。
「ありがと」
ツツィーリエからひったくるようにツボを受け取ると、ツボの中の匙を使って鍋の中に茶色い糊状の調味料を入れる。それが入った途端に鍋から香る匂いに深みが出て、更に食欲をそそるようになった。
「あぁ、腹減ったー。めっちゃうまそーじゃん」
「つまみ食いしたら次の飯はあんたで出汁とるからね」
濃魚の入ったツボを抱えながら脅すと、ヒィマナがツツィーリエの方を向く。ツツィーリエは違う鍋の前に立ち、髪を抑えながら鍋の中を覗く。
「今度はなに?」
ツツィーリエは再度何か伝えようと手を動かしかけるが、すぐにそれを止め、先程濃魚を取ってきた棚の方に向かう。ヒィマナは鍋の様子をちらちらと見ながらついていった。棚の上の方にはいくつかの小さなツボが入っている。それらを抱えると、また鍋の方に戻った。
「この鍋もなんかおかしい?」
ヒィマナは足場を引きずって鍋を覗き込む。ツツィーリエは首を横に振ると、乱雑に見えるような動作で大きな鍋の中に調味料と香辛料をくわえていく。これも、入れるだけで少しずつ匂いが変わっていく。それらを入れた後、ツツィーリエは再度棚に戻って何かを探すようにきょろきょろと見渡す。
「何探してるのよ?」
ツツィーリエは懐から取り出した紙に、何やら絵のようなものを描いて見せる。
「………なにこれ?靴べら?」
ツツィーリエは大きく首を横に振る。
「あら、これ香黄根じゃないかしら?」
まだヤカンを持っているシマワが二人の更に上から覗き込んでいた。
「あぁ、なるほど。あなた、絵下手ね」
ヒィマナが靴べらにしか見えない絵が描かれた紙をつまんで言った。ツツィーリエは自分が描いた絵をもう一度細めた目で確認する。
「確か、この辺りにあったわよね」
シマワが歩き出そうとした方向とは逆の方向にヒィマナがすたすたと歩いていく。
「そっちじゃないです。こっちよ」
ヒィマナは棚ではなく水場の近くにおいてある水瓶の方に歩いていく。その水瓶の脇に小さな瓶があり、それを取り出す。
「はい。これ?」
瓶の中には香黄根が水の中に浸った状態で置いてあった。
「これをどうするの?切るの?」
ツツィーリエが頷いたのを確認すると、ヒィマナはまな板と包丁を取り出し、香黄根を包丁で輪切りにしていく。
「もっと細いほうが良い?」
ツツィーリエが人差し指と親指で、小さいものをイメージさせるような仕種をした。ヒィマナは手慣れた様に香黄根を千切りにしていく。
「これ入れるの?」
ツツィーリエが何回か頷く。ヒィマナはまな板を抱えて足場を登り、鍋に細くなった香黄根をいれた。それからもツツィーリエは鍋の様子を見たり、お玉を借りて味見をするなどを丁寧にこなしていく。
「ワーリ、今来てるお客さんって貴族なのよね?」
「だと思うぜ。金持ちの商人にしちゃ目がギラギラしてなかったし。国富の奴らはここにこねぇだろ」
「ふーん」
ヒィマナはツツィーリエの方を見る。
「じゃあ、あの子はその貴族の使用人って感じみたいね。普段から料理作ってるのかしら」
「かもな。なぁ、そんなことより俺にも味見させてくれよ」
「自分の指でもしゃぶってなさい」
ヒィマナは先程よりも落ち着いた動きで料理の準備を整えて行った。
「よし、できた。ワーリ、料理できたから鍋持って行ってくれそうな暇人誰か捕まえてきてよ」
「えぇ、めんどくせぇよ」
「持って行かなきゃ飯食えないわよ。無駄に太い腕してる奴らばっかりなんだから、誰でもいいから捕まえてきて」
ヒィマナがワーリに向けて手を払っていると、後ろからモヌワが鍋つかみをつまみ取る。
「ぅわっ!」
思わず飛び上がるヒィマナを尻目にモヌワが大きな鍋を二つ、羽根でも持っているかのように軽々と持ち上げた。
「これ、どこに持ってきゃいいんだ?」
ヒィマナの二倍くらいありそうな身長で上からかけられる声にヒィマナが驚いて動きを止めている。
「こっちですよ、お客さん。悪いわねぇ」
シマワがモヌワを先導するように小屋の扉を開ける。
「別に。どうせお嬢がいたら料理に触らせてもらえん」
「あら、そうなの?私と同じねぇ。私もヒィマナがいるときはお料理に触らせてもらえないの」
シマワがのほほんと言ってる脇を、小さなヒィマナが駆け抜けて鍛冶場に続く扉を開け中に入る。
「ほら、昼飯できたよ!作業止めてさっさと喰っちゃって!」
ヒィマナが槌の音に負けない声量でそう言うと、鍛冶師達は手を止め、作業中の無愛想な表情とは打って変わった嬉しそうな顔でヒィマナの方に寄ってくる。
「おぉ、いつもありがてぇな」
「なぁヒィマナ、今日の昼飯はなんだ」
「良い匂いするなぁ。腹へって仕方ねえや」
「シマワさんは火傷とかしてねぇだろうな?シマワさんが火傷するとおやっさんが一日機嫌悪くなっちまうや」
ヒィマナはがやがやと喋る男たちの中に埋もれそうになりながらそれを押しのける。
「えぇい、うるさい!すぐそこまで来てるんだから黙って待ってなさいよ」
そこに扉をくぐるようにモヌワの巨体が鍋を持って現れた。
「おい、これどこに置けばいいんだ?」
鍛冶場に現れた見覚えの無い巨人に鍛冶師が警戒の色を強めるが、手に持った鍋を見てその警戒の色も和らぐ。
「それはここの台に置いてちょうだい」
そう言いながら、茶碗を取り出して準備を整えて行く。その作業を見たツツィーリエが手伝い始めた。
「悪いわね。じゃあ、とりあえず鍋の中のやつお椀の中に入れて貰える?」
ツツィーリエは頷いてからお玉で鍋の中の煮物を掬う。
「やっぱ慣れてるわね。いつもやってるんでしょ?」
ヒィマナはツツィーリエから渡された中身の入ったお椀を続々と伸びて来る太い腕に渡しながら、ツツィーリエに声をかける。ツツィーリエは黙って頷いて、お椀を渡した。
「大変よね、喋れないのも。一々紙に書いたりしないとだめなんでしょ?」
ツツィーリエは肩を竦める。
「あ、そうだ。あんた達も食べたらどう?どうせ量はたくさん作ってるから」
ヒィマナはツツィーリエとモヌワの方を見ながら言った。
「お、いいのか?」
「あなたみたいに大きな体だと、腹ごなしにしかならないでしょうけど」
「ですって。お嬢、いただきましょうか」
ツツィーリエは目を少し大きく開いて頷く。
「ヒィマナ、私にもちょうだい。あの人に渡してくるわ」
シマワが鍛冶師の群れを掻き分けながらヒィマナに声をかける。
「はい、ちょっと待ってくださいね」
ヒィマナは台の中にある大きな茶わんを取った。
「おい、飯ができたのか」
奥の方からのそっとした動きで、胡麻塩頭の男が歩いてきた。
「あら、あなた。できましたよ。ヒィマナがちゃんと作ってくれました」
シマワがその男を見ると嬉しそうに喋りかける。
「………火傷とかしてないだろうな」
「してません。心配し過ぎですよ」
シマワがヒィマナから受け取った茶碗を差し出す。
「はい、どうぞ」
「………ん」
無理やり厳めしい顔を作りながらアユタナがそれを受け取った。その後ろから銀髪の公爵がひょっこり顔を出す。
「あぁ、お昼御飯の時間だったのか」
「あら、公爵さま。いらしてたんですか」
「どうも、シマワさん。お加減はいかがですか?」
「はい、良くしていただいているおかげですっかり元気です。マーサさんはお元気?」
「元気過ぎて困ってるよ。ラトもまだまだ元気だ」
「それは良かった。やっぱり少し遠くなると会えなくなるから」
シマワが頬に手を当てながら首をかしげる。
「マーサに言っておくよ。シマワさんは元気にやってるって」
「嬉しいわ。ありがとう。そう言えば公爵さま、新しく人を雇ったんですか?」
「ん?まぁ二人雇ったけど。どうしたの?」
「いえね、さっきこっちに来てくれた子たちがこのご飯作るの手伝ってくれたから、良い子を雇われたのだなって」
ふっと公爵が鍋の方を見ると、ツツィーリエがせっせとお椀に煮物を注いでいるのが見えた。若い鍛冶師がツツィーリエに声をかけているが、身振り手振りで返事をしたり横のヒィマナが手をはらって追い返したりしている。
「何やってんの、ツィル」
公爵がツツィーリエに声をかけると、ツツィーリエが振り向いて公爵に気付く。ツツィーリエは手に持ったお椀をヒィマナに渡しながら、ヒィマナに何か伝え始めた。
「ん?なに?あそこの人にこれ渡すの?随分量少ないけど、これでいいの?」
ツツィーリエが頷く。
「はいはい。雇い主思いのいい子だね」
ヒィマナはトコトコと公爵の前に来ると、ふわりと食欲のそそる柔らかい辛みが香る煮物を差し出した。
「はい、どうぞ」
「あぁ、ありがとう」
「あなたの所の使用人はとってもいい子ね。よく気が付くし働き者だし」
「そうかい。ありがとう」
公爵は嬉しいのかなんなのか分からない表情でお礼を言っていた。




