奴隷の少女は公爵に拾われる 128
「は、母上………これは」
アールネクは体を小さく震わせながら、思わず一歩下がる。
「アール。正直にいいな」
マシラの表情には、怒りも悲しみも寂しさも何もない。超然とした表情で震えるアールネクを見据えていた。
「こいつらをけしかけて私たちの兵士を殺させたの、お前だろ」
アールネクの口が開きかけて、しかしそこから言葉は紡がれなかった。ただ空しく口の開閉が繰り返されるだけだ。
「アール」
「い、いいえ。私はそんな………決して……」
「アール」
「し、信じてください。私はこの襲撃者をとらえようと」
「アール」
「信じてください!」
「アール」
マシラの表情にも、言葉にも、強い感情は感じられない。むしろ優しさや慈愛すら感じられた。その言葉に思わずアールの口が閉じる。
「アール。お前の口から真実が聞きたい」
マシラの節くれだった足が一歩前に進む。
「お前が嘘をつくなら、私たちはこいつらの口から真実を絞り出さないとならん」
マシラの杖が、武人に押さえつけられ拘束されている二人を杖でさす。
「アール。真実を聞くなら、あんたの口から聞きたい」
マシラの目の蒼が凄みを感じられるほどの深さを以てアールネクをとらえた。
「こいつらを操って兵士を殺させたのは、お前かい」
その場にやっとたどり着いたツツィーリエたちが見たのは、ため息をついているマシラと、顔から血の気が引きながらも凪のように静かな表情をしたアールネクだった。
「なぜ、お気づきになったのでしょうか。やはり、先程の襲撃の時でしょうか」
アールネクの不気味なほど静かな声が冷たい澄んだ空気の中を広がる。
「まぁ、そうだね。でも、このお嬢ちゃんたちがあんたが怪しいって話し合ってたのを見てなかったら、確信を得られるかわからなかった」
「……ん?」
モヌワがマシラの言葉を聞くと、怪訝そうな言葉を発する。
「おい。それは私とお嬢が話してる時の事か?」
「あぁ、そうだよ。うす暗い廊下の中でこそこそ喋ってるのが見えたんでね」
「あの時、私たちは手話で喋ってたはずだぞ。なんでお前に話の内容がわかるんだ」
「いつ私が手話ができないって言ったね?」
マシラがモヌワとツツィーリエを見上げる。
「この年まで生きてるんだ。手話の一つや二つ、多少暗号化されてたところで問題なくわかるよ」
「え、じゃあ………」
「会議中こそこそ手を動かしてる内容もちゃんと見えてたよ。まぁ、大したことは喋ってなかったがね」
モヌワとタレンスの顔がしかめられる。
「とんだ狸ババァだ」
「その場にいる者の意見っていうのは参考になる」
マシラの目がアールネクの方を向く。
「さぁ、あんたの質問には答えた。次は私の番だ。アールネク。理由はなんだね?」
マシラの質問に、表情をピクリとも動かさずにアールネクが答えた。
「決して、この砦を崩そうと考えていたわけではありません。これは真実です。むしろ、これはこの砦の防衛をより強固なものにするための手段でした」
「ほぉ。言ってごらん」
アールネクとマシラの視線がしっかりと交錯する。
「母上がおられる限り、この砦の防衛は絶対でしょう。それは、母上の指揮能力が高いからというより、むしろ敵側の攻撃がおそらく母上が死ぬまで本格化しないからです」
マシラの目が細まる。
「北の国の軍隊が動き出して、本格的に正面からこの砦を押してくるのは母上の死後、我々の油断をついてくるはずです」
「油断?」
「そうです。この十数年の平和の間に、戦闘の記憶は薄れつつあります。セルークルのように戦争の事を知らない辺境伯までいます。その平和のせいで、この砦の兵士、若手だけでなく一部の年嵩の兵士たちにも蔓延しています。“この砦は絶対に安全だ”、と」
アールネクが続ける。
「ですが、この砦が難攻不落であるのは、母上という存在が我々だけでなく敵方にも多大な影響を与えているからです。母上の死後、敵側の制約はなくなり、この砦はこの十数年なかった戦渦に巻き込まれる。私はそう予想しています」
「だから、兵士を殺して兵士たちの緊張感を高めた。そう言いたいのかね」
「はい。実際、兵士たちはこの件で絶対に安全な砦など存在しないと、過度に私へ期待するというような愚かな心境をなくしています。今回の件で受けた損害は、母上が亡くなるまでの間に補填できる程度のものです。兵士たちはこれを教訓により強固な防衛に必要な精神を取り戻すはずです」
「今回死んだ兵士は、そのための必要な犠牲だった、という事かね」
「はい」
アールネクの声は恐ろしく無感動なものだった。
「母上の公爵をこの山に呼ぶ、という行為は私にとって非常に不都合なものでした。彼らの存在は、私にとって不確定の要素が増えることを意味します。同時に母上が辺境伯をこの砦に招集した時点で、私たちが疑われているのには気付きました。なので、早めに終わらせるために砦の中にこいつらを招いて始末しようとしたんですが、焦りが出ました」
「そうかい」
マシラの声にも感情の抑揚が感じられなかった。
「最後に聞こうか。こいつらは、どこから来たやつらだい?」
「こいつらは、北の国から私を殺すために派遣された暗殺者です」
アールネクが、地面に這いつくばっている男たちを見下ろす。
「こいつらを返り討ちにして殺すのはたやすいことでした。ですが、こいつらが私を襲ってきたときに、この作戦を思いつきました。私がやったことがばれなければ、こいつらは砦の防衛力を高める格好の材料になる。そう考えました」
マシラはそれを聞くと、目を伏せ小さく息をついた。
「アールネク。あんた、最後に何か言いたいことはあるかい」
「いいえ。私はこれ以上言うべきことは持っておりません」
アールネクはむしろ背筋を伸ばすように堂々と立ち、言い切った。
「そうかい」
マシラはそうつぶやくと、襲撃者を抑えている自身の最強の矛に目を向けた。
「やれ」
それを聞いた武人はアールネクに向けていた剣を静かにまっすぐ振り上げ
自身で拘束していた襲撃者二人の首を刺し貫いた。
「…………は?」
思わずモヌワが声を上げる。
「何やってんだ、てめぇ」
「アールネク第一辺境伯はこの屋上まで襲撃者を追い詰めたが、襲撃者は自決。真相は闇の中に葬られたが、襲撃者が北の国からやってきた者たちであるという証拠を死体から獲得。この砦に北の国へ攻撃しようとする意見が広がるが、アールネクと私がその意見を抑え、むしろ敵の軍が攻めてくるのに対する防衛措置を取るべきという話に持っていき、この砦の士気を高める」
マシラはアールネクの驚愕を無視して、皺だらけの顔をツツィーリエに向ける。
「アールネクはこの砦に必要な人材なんでね。おおっぴらに処罰するわけにはいかないんだよ」
「おいおい、それは納得できねぇな。何舐めた事抜かしてんだ」
モヌワの錆びた血の色をした髪が怒りのために逆立つ。
「わざわざお嬢が危険を冒してまでここにきて、そのお蔭でこいつが諸悪の根源だって言葉もしっかりとこの耳に聞いた。なのに、それを裏付ける暗殺者殺して、処罰はなし、だと?納得できねぇな!!」
「納得できなかったらどうするね?」
マシラの目がモヌワの怒気に劣らぬ凄みを帯びていく。
「力づくで私たちに言う事を聞かせるかね?あんたは確かに腕っぷしは強そうだけど、この場の戦力差を考えてみたらどうだい?」
その言葉と同時に、暗殺者の首を貫いた武人がマシラを守るように立ち上がる。アールネクも静かに腰を落とす。苛立ちからか、モヌワの口から太い牙のような犬歯がむき出され喉の奥から唸り声のような音が漏れた。
「どうする?主を守りながら、それなりの立場があって殺すと不都合があるこいつらを相手にして、更に私に言う事を聞かせるために何をするね?拷問でもするかね?」
この場で一番小柄なはずのマシラから、山そのものから感じられるような圧倒的な迫力が振り注いできた。
「出来ないね。あんたにはお嬢ちゃんを危険にさらすような行動は」
「私も納得できないわ」
タレンスが眉をひそめた苦々しい表情でモヌワの横に立つ。
「この件は国守の公爵閣下に正式に報告させていただきます。そうなればあなたの処置は覆されるわ」
「あんたにはできないね、タレンス」
「あら、なぜかしら」
「なぜなら、あんたが公爵の奴にそれを言わないでいれば、私はあんたの功績を正式に認めて公爵に強く推薦してやるからさ」
タレンスの眉がぴくっと動く。
「もし仮にあんたが公爵にこの件を報告したとする。公爵はそれを私に確認するね。私はそれを否定する。確認作業をするのに何年かかるだろうね。あんたはその間どこにいるかね?国守二の侯爵から勘当された次男坊さんよ」
タレンスの顔に逡巡の感情が走った。
「な、なんで知ってるのよ」
「あんたは公爵にそれを言うメリットがないのさ。なら、あんたは口をつぐんで、素直に利益を享受したほうが良いって訳だ。わかったかい」
「私たちが言うぞ」
「おぉ、タレンス。お前の仲間はずいぶんと薄情なんだね。お前には帰るところがないのに、そのお前を無視してまで私たちの行動を公爵の奴に報告しようとしてるぞ。それを言われれば、お前は死ぬほど嫌いな生家に帰らないといけないね」
マシラの声だけでなく、顔の皺、痣。すべてが、モヌワとタレンスを縛っていく。タレンスだけでなく、モヌワの顔にも迷いが濃厚になっていった。
「お嬢ちゃん。交渉するときは、常に相手より強い立場にいることだ。今みたいにね。しっかりと覚えておきな」
「お嬢、どうしましょう」
モヌワの声から先程の力強さが抜けている。タレンスも何か言いたそうにしているが、口を開く最後の部分には至らないようだ。
「このお嬢ちゃんには、私から何を言う必要もない。お嬢ちゃんの行動にはもう選択肢がないし、お嬢ちゃんにはその後の状況も予測済みだろ?」
マシラの表情にほんの少し柔らかさが戻った。ツツィーリエは人形のように口をつぐみ、ただマシラを見つめる。
「あんたは、この件を公爵の奴に報告するだろう」
タレンスの顔に一瞬怯えが過り、それを隠す量に慌てて顔を振る。
「それを受けた公爵の反応、お嬢ちゃんには予想がついてるね」
ツツィーリエはしばらく動かずただじっとしていたが、ゆっくりと手を挙げ、それを静かに動かした。
『お父さんは、あなたの判断を支持するわ。絶対』
モヌワの顔に驚きが浮かぶ。
「んなバカな!いくらなんでも、殺人者をそのままにしておくわけがない!」
『いいえ。お父さんにとって大事なのは、この国と次代の国守の公爵である私の、安全と利益。お父さんが無理にこの件に首を突っ込んで、アールネク閣下以外の人が筆頭辺境伯になったら、それはこの砦が突破されるリスクが高まるという事につながる。アールネク閣下が非常に重要な人材なのは、事実だもの』
ツツィーリエは顔の筋肉を全く動かさずに手を動かし続ける。
『それに、今ここで筆頭辺境伯の行動を認めておけば、辺境伯に恩を売れる。今後の事を考えれば、目先の正義にとらわれるより要望を飲んだ方が何倍も利益があるわ』
「そういう事だ。だから、タレンスが自身を殺しても何の意味もない。私の要望が聞き入れられる」
マシラの全体から発散される迫力はゆっくりと収まっていく。
「わかったかい?この場で交渉することが、いかに無意味な事か。あんたらにもう選択肢はない」
マシラはツツィーリエたちをゆっくりと視界に納めていく。
「まぁ、あんたらのおかげで事態の真相は分かった。悪いようにはしないよ」
モヌワが何かをこらえるように体を震わせているのをタレンスが何とも言えない表情で見つめていた。
「さて、アールネク」
「はい」
先程より少し血の気が戻った顔でアールネクが応える。
「あんたがやったことは、はっきり言って正しいのかもしれない。だが、何の罰もなしというわけにもいかない」
アールネクの顔に緊張が走る。
「あんたには3つ。絶対に守る約束をしてもらう」
アールネクの顔は動かない。
「一つ。この件については、絶対に人に漏らさないこと。お前が死ぬまでお前の胸の内に納めておくんだ」
アールネクが頷いた。
「二つ。あんたは私の後を継いで筆頭辺境伯になる。この砦を突破されてはならない。気張って守りな」
「はい」
「三つ目だ」
マシラの指が三本立つ。
「今後一切、私の事を母上と呼ぶことも、思うことも禁じる。これから一生だ」
アールネクの顔が固まった。
「全体のためにあんたを正式な処罰から守ってやるが、私は砦の裏切り者を息子とは思えないんでね。あんたから母と呼ばれると虫唾が走る」
その言葉と表情から感じられる侮蔑の感情に、アールネクの顔から先程の比ではないほど血の気が一気に抜け落ちた。
「そ…………それ…………ははう」
「アールネク!」
マシラの声が鞭のようにアールネクを叩く。
「聞けないんなら、あんたは、あんたが大事に思っているものを全部捨て去ることになるよ」
アールネクの手がマシラの方に伸びかけ、それが途中で止まった。アールネクの前髪の隙間から見える目には、ゆっくりと涙が溜まっていく。
「アールネク。処罰を受け入れるね?」
アールネクの顔がゆっくりと横に振られようとする。
「返事をするんだ」
彼の体は瘧のように震え、たまらず膝をついた。マシラはそれ以上何も言わない。無言でアールネクの返事を待つ。
やがて、顔を伏せたアールネクが小さく一度だけ頷いた。
「じゃあ、アールネク。あんたは自分の部屋に戻りな」
マシラが顎をしゃくって乱暴に指示を出した。アールネクはのろのろと立ち上がると、亡霊のようにゆらゆらと揺れながらマシラ達の横を抜け、階段を下りて行った。
「お嬢ちゃんたちも部屋に戻りな。追って連絡をやるけど、明日か明後日にはこの砦を出てってもらうことになるだろう」
マシラは事務的な口調で言った。モヌワはマシラの方に詰め寄ろうとするが、ツツィーリエがモヌワの服をつかみ、小さく首を横に振る。そして、ツツィーリエはマシラに軽く一礼すると、踵を返して自分たちが来た道を引き返すように屋上を後にした。
マシラはそれを見守るように死体の近くで杖をついて立っていたが、全員がいなくなったのを確認すると剣を構えたままの男に声をかける。
「この死体をうまいこと動かしな。自決してるのにうつ伏せはまずい」
男は黙ってその指示に従う。マシラはその光景を少し暗くなった瞳で見つめていた。
「筆頭辺境伯閣下」
武人はゆっくりと完璧に指示をこなしながら、低い落ち着いた声で主に声をかけた。
「なんだい?」
「………お辛くはございませんか」
武人はマシラの方を見ず、ただ死体が自決したように見せる工作を続けながら尋ねる。
「なんのことだい」
「とぼけずとも。私の口はこの山の基礎よりも固いです」
マシラは武人の背中を見つめ、ゆっくりと長い息を吐いた。
「私にも罰がいるからね」
マシラは意味もなく、その年相応の老人のように杖を突く。
「でもこんな愚かな婆を慕ってくれる良い息子を、一人なくしちまったね」
男が見無いように背を向けているその顔には、強い悲しみの感情が抑えきれずに溢れ出していた。




