奴隷の少女は公爵に拾われる 127
ツツィーリエたちが三人で進む廊下は全くと言って良いほど人気がなく、三人の速い足音だけが天井の高い石の廊下に響いていた。どこまで行っても同じような光景が続く石の廊下は、ともすれば自分がどこにいるのか、どこに向かっているのか不安にさせる。
「おいタレンス、こっちであってるんだろうな」
周囲を狼のような目で警戒する巨躯の女が、先行する男に声をかけた。
「とりあえず合ってるわよ」
問われた男は雄々しい体格の持ち主だったが、その口調は女性のものだった。
「とりあえずってなんだよ」
「言ったでしょ。私が覚えてるのは公爵様の所にあった砦の見取り図で、昨日歩いてみた感じとその見取り図とで少し違いがあるみたいなの。見取り図ではあった壁が実際はなかったり、その逆っていうのもあったりね。でも、この道に関しては見取り図通りだからとりあえず安心よ」
『砦の屋上はあとどれくらいで着くかしら?』
二人に挟まれるようにして歩いているのは、後ろを歩く巨躯の女の半分ほどの背丈しかない少女だった。黒い髪を分厚い上着に押し込み寒そうに体を縮めているが、赤い目はまっすぐ伸びる廊下を見通しているように前方を見据えている。
「そうね。この廊下の突き当たりを右に曲がった先に登り階段があって、その先の扉が砦の屋上だから…そんなにかからないわ」
少女は無言で頷くと、出していた手を上着の奥に押し込める。
「お嬢、寒いですか?」
後ろを歩く女が少女を気遣うように声をかける。少女はその問いにも無言で頷くだけだった。
「そういえば、屋上に第一辺境伯がいたらどうしますか?」
『彼がいるところに襲撃者がいるはずだから、彼の足止めをして、先に襲撃者を確保するだけよ。彼は立場上私たちを殺すわけにはいかないはずだから、確保してしまえば手出しできないわ』
「足止めをするのは、私ですか?」
『私とタレンスじゃないとダメね。モヌワには襲撃者を確保してもらわないと。話しかけるなりなんなりしてみるわよ』
「第一辺境伯が襲撃者を殺してしまった場合は…」
『お手上げね。筆頭辺境伯の指示を仰いで、たぶん手ぶらで帰還よ』
「そうよね。あぁ、正直私たちが来た時には、私たちではどうにもならない状況だったのよね。最悪」
『もしそうなったら私がお父さんにとりなしてあげるから』
「ありがと。でも、もしそうなったら私このまま山を越えて他国にでも逃げようかしらって思ってるの。わざわざくそ親父のところに私の居所を知らせるのも癪だし」
「この雪山越えるのか?正気か?」
「何とかなるでしょ。北の国にはいきたくないけど、山を北西に抜けた国なら私でも自由に生きていけそうだし。筆頭辺境伯に頼めば越境許可証の一枚や二枚、だしてくれそうじゃない?」
『本気で言ってるの、タレンス?』
「割と本気よ。私は今の立場のままクソ親父と対面する気はないの。次に会う時はしかるべき立場で。もしくは二度と会わない、って決めてから家を出たんだから」
「ずいぶんと勢いの良い考え方だな」
「それくらい我慢ならなかったのよ、私にとってあの家は。まぁ、先のことを考えすぎてもどうしようもないわ。そろそろ突き当りのはずよ」
タレンスの言うとおり、視界の先で廊下が左右に分かれているのが見えた。
「見取り図通りなんだろうな」
「あそこの突き当りで左右に廊下が分かれてるところまでは一緒よ。右に行ってすぐに階段があって、登ったら屋上よ」
タレンスが言った通り、道を右に曲がると左手に石造りの細い階段が伸びていた。上の方から山の風が扉を叩く微かな音がする。
「私が先に行きます。お嬢は私の後ろから離れないでくださいね」
『お願い。襲撃者がいたらとりあえず真っ先に確保して。タレンス。屋上に行く道はこの一つ?』
「えぇ。そのはずよ」
『じゃあ、襲撃者がいなかったらモヌワは扉の近くに』
「はい。わかりました」
モヌワは大きな体を静かに動かして階段を上っていく。その背中を追ってツツィーリエとタレンスが続いた。石の階段は上からの風の音を反響させて三人の耳に届ける。三人の目の前に分厚い扉が現れるのにそうたした時間はかからなかった。
「開けますよ」
モヌワは後ろのツツィーリエに声をかけると、扉を勢いよく開けすぐに周囲を見渡す。
砦の屋上は思ったよりも広い。澄んだ空気と青い空が広がっており、遠くに見える山脈の尾根にはうすい靄のような雲がかかっている。周囲は腰ほどの高さがある塀に囲われ、モヌワ達の対角線上には物見用なのか小さな塔と分厚い木の扉が見えた。
そんな冷たい山風が吹く大きな舞台のような屋上の中央に、一人の男がマントをしっかりと押さえつけて立っていた。
「アールネク閣下……」
モヌワの後ろから来たタレンスが呟くように声を出した。
「こんにちは。良い天気ですね」
目にかかる前髪を揺らしながら、アールネク第一辺境伯がモヌワ達の方を向く。
「ずいぶんと呑気だな、おい。あんた襲撃者追わなくていいのか?」
モヌワが冷たい風で強張る体をほぐす様に肩を揺らす。
「あなた方こそ、護衛の方々はどうされたのですか?撒きましたか?」
アールネクの顔には微笑みが浮かんでいる。
「関係ないだろ」
「白蛇隊から襲撃者の話、聞いてるでしょ?マーダックの所に行かなくていいんですか」
強い風に巻き上げられた細かい雪の中でアールネクが全く変わらない表情を浮かべる。
「迷ってしまったんですよ」
タレンスが腕を広げながらアールネクの方にゆっくりと近づく。
「そうなんですか。ここに来たのは偶然ということですか」
「えぇ」
「偶然兵士達を撒いて、偶然襲撃者の情報とは違う場所に来て、偶然私に敵意を持っているんですか?」
「護衛の人たちとはぐれたんです。それでモヌワの気が立っているだけですよ。迷って歩いたらここに来たんです」
「フフフ。面白い事を言いますね」
アールネクの笑みが深まる。
「私の事、疑ってるんでしょ?ツツィーリエ公爵令嬢殿」
アールネクが突然ツツィーリエに話を向けた。ツツィーリエは特に表情を変えることなく、紙に文字を記してアールネクの方に示す。
「ここからでは、あなたの文字が見えませんね」
アールネクは目にかかる髪の毛の間からツツィーリエの方を見た。ツツィーリエはそう言われると、アールネクの方に足を踏み出す。
その歩みを、横から伸びた太い腕が押し留めた。
「お嬢、ダメです」
「別に私はご令嬢を傷つけるつもりはないですよ」
「じゃあなんで剣抜いてんだ」
「………」
マントをしっかりと巻いたアールネクの微笑みがまた少し深くなる。
「そのマントの下、剣抜いてんだろ」
「何のことやら」
「動きでもろわかりなんだよ」
モヌワは鬼のように牙を剥き、全身から湯気のように怒気が立ち昇る。
「お嬢に指一本でも触れられると思うな。少しでもこっちに近づいてみろ。その顔握りつぶしてやる」
タレンスがモヌワをたしなめようとした時、アールネクはマントを開き、その中を見せた。アールネクはモヌワが言ったとおり剣を抜き、臨戦態勢で敵の襲撃に備えていた。
「…あなたたちは襲撃者を殺す口実には最適でしたが、思ったよりも理解力がありますね。私が躊躇いなく襲撃者を殺した事に気づいたんでしょうね。思ったよりも冷静な判断をするものです」
アールネクはマントの位置をただして、動きやすいように整える。
「まぁ、その判断のおかげであなた方を人気の無いここに誘導出来たわけですが」
「おい、下手な動きをしてんじゃねえよ」
「ここまでの道を案内したのは、タレンスさんかな。国守の公爵のところにはこの砦の見取り図がありますからね。覚えていたのか、持っているのか知りませんが」
アールネクの表情に、タレンスやツツィーリエにもわかる程の冷たい殺気が満ちた。モヌワは腕を広げて姿勢を低く構える。それを無視するかのような視線がツツィーリエに注がれた。
「あの見取り図、実際の間取りとは少し違っているって気づきましたか?例えば…」
アールネクは剣を左手に持ち変えると、流れるようにマントの隠しから太い短剣を取り出した。
「この屋上に至る道が二つあるとか」
対角線上にあった塔の扉が開く音がツツィーリエの耳に聞こえたのと、アールネクがその扉の方に飛び出すように走り出したのはほぼ同時だった。
『モヌワ!』
ツツィーリエの手が燐光に閃くが、それを見越していたのかアールネクの右手がツツィーリエ達へ短剣の投擲する姿勢に移る。
モヌワがツツィーリエを抱えて脇に飛ぶのを、短剣から手を離さなかったアールネクが笑みで細まった目で見て、再度開けられた扉の方に駆け出して行った。
扉の奥からは現れたのは、白いマントを目深に被った二つの人影だった。先程、アールネクを襲撃していた男たちと同じ雰囲気をしているのが、モヌワに抱えられたツツィーリエの目にもはっきりと分かった。
そのマントの人影は剣を持ち殺気に満ちた表情のアールネクを見ると、一歩後じさり、絶望の唸り声を上げながら剣を引き抜く。
そしてその剣先を己の喉に向けた。
「えっ!?」
思わずタレンスが声を上げる。その声が襲撃者たちの耳に届く前に、彼らは金属を自身の喉に押し込む。その剣先が皮膚を貫いて肉に到達しようかという瞬間。
「っ!?」
アールネクが小さく息をのんだ。
襲撃者の後ろから更にもう一つぬっと現れた人影が自害しようとする襲撃者の腕を易々と止め、襲撃者たちが振り返る隙さえ与えず腕を捩じって地面に叩き伏せた。そしてうつ伏せに地面に押し付けられた二人の首に体重の乗った膝が乗り、襲撃者の肺から空気が搾り取られているような苦悶の声が上がった。
その現れた人物は一呼吸で襲撃者二人の動きを完全に封じながら、幅の広い剣をアールネクの方に向ける。
「た、隊長」
「よう、アールネク。さっきぶりだな」
アールネクの震える声に応じたのは、先程マシラ筆頭辺境伯の脇に控えていた武人だった。その存在感だけで足元の襲撃者を含めた三人の動きを完全に掌握している。
屋上全体に石の床を杖で付く固い音が近付いて来る音が響いた。
「ちょっと話を聞こうじゃないか」
その武人の後ろから現れた。
「は、母上………」
腰の折れ曲がった老婆が、上空に広がる空を幾重にも重ねたような青い瞳で立ち尽くすアールネクを見つめていた。
「なぁ、アール」




