奴隷の少女は公爵に拾われる 110
「…ぅ…」
心地よい揺れの中にある精神に、外から声が掛けられた。侵入する声を気のせいだと断じながらも、心の奥が浮き上がらなければいけない理由を叫ぶ。
「…じ…ょぅ」
意識を囲む外側、少女の肉体が掛けられた声に反応して震える。意識が覚醒に向けて急激に上昇した。
「お嬢。着きましたよ」
ツツィーリエの眼がしっかり開く。
少女は大きな人間に背負われその背中で睡眠を取っていた。背負っている人間は熊かと見紛うような巨躯で、その体を構成しているのは鋼のように鍛え上げられた筋肉だ。
「ツツィーリエちゃんは起きた?」
「あぁ、起きた」
その巨躯の持ち主は胸部のふくらみと顔の形から女性であることが窺える。刈り込まれた髪の毛は錆びた血の色の様な赤褐色で、獣の様な金の瞳で背負っている自分の主を見つめていた。
「よく寝てたわね」
「お疲れだったんだろ」
その近くで少女の寝顔を覗きこんでいるのは、女戦士ほどではないにしても屈強な体つきの男性だ。芝生の様に短い髪の毛には、幾何学模様が浮かび上がるように地肌が見える程刈り込んでいる。だが、厳ついその外観とは裏腹に雰囲気と口調は女性のものだ。
「目、覚めた?」
男が背負われた少女に優しく問いかける。少女は問いかけに小さく頷くと、無音で伸びをした。そのはずみに背中に架かる黒い髪が肩に零れ落ちる。
「中央要塞についたわよ」
男がひとつの方向に向けて手を伸ばす。少女はその手が示す方向に赤い瞳を向けた。
朝日が山にへばりつくように聳える巨大な建築物を照らしていた。
岩と金属で作られているらしいその建物は、少女たちのいる位置からでは端が見えない。雪がちらついているのもあるが、それでもその巨大さは住居というより正に砦だ。山脈の中にあってもしっかりとした存在感を示す要塞は、建物としてしっかり組めるように磨かれた巨大な岩で壁を覆い、所々に金属で作られた柱を用いているようだ。その岩を見ると長年の風雪と、要塞に向けられた攻撃の跡がそこかしこに確認できた。それでもそれらの苦難をものともせず、山脈を背に厳然と存在する要塞を少女は無言で見つめる。
「おや、起きたのかい」
彼らの方に、一人の老婆が近づいてきた。腰は曲り、背中で大きな瘤を作っている。皺と痣が顔を覆い尽くし、大きな鉤鼻は唇にかからんばかりだ。だがその人から排斥されてきた魔女のような外観をした老婆の目には深い海の様な底の見えない知性と迫力が感じられた。
「はい。マシラ筆頭辺境伯閣下、御心配おかけして申し訳ありません」
「別に心配はしてないよ。死なれたら困るけどね」
少女は老婆の姿を認めると、自分を背負ってくれている大女の肩を叩く。
「どうしました?」
振り返ってこちらを見る女に見えるように手を動かした。
「あぁ、はい。わかりました」
その顔に理解の色を浮かべると、上着を脱いで少女が降りやすいように巨大な身をかがめた。少女は山のような女の背中からゆっくりと降り、地面に立つ。
『ありがとう、モヌワ』
「いえいえ、いくらでも背負いますよ」
モヌワは少女が降りた時は少し残念そうな顔をしたが、手で伝えられた主人の意思を見て破顔する。
『マシラ辺境伯閣下。見苦しい所をお見せして申し訳ありません』
「つまらんことを気にしてる暇があったらとっととやるべきことやんな、ツツィーリエ公爵令嬢」
老婆は紙に書かれた文字を見て鼻で笑う。それから、周囲を囲む兵士の一人を手招きした。
「とりあえずここにいる兵士に休息を取らせな」
その言葉を受けた兵士は敬礼してから、仲間の所に走って細かい指示を出して行く。
「あんたらはもうちょっと頑張ってもらうよ。あの太陽が砦全体を照らすくらいまで上ったら会議を始める。着いてきな」
マシラは歪んだ体で器用に雪の上を動きながら、巨大な砦の方に歩いて行く。それについてツツィーリエ一行はなれない雪道をついて行った。
砦の側面にある扉は殊の外小さく、モヌワは少し体を屈めなければ入れない。門衛がマシラ達に敬礼するのを横目に一行は砦の中に足を踏み入れた。
砦の中は外観から察せられる様に広い。装飾は全く存在せず、ひたすら石の壁と床、たまに扉が見える程度の廊下が、延々と続いていた。
「ツツィーリエちゃん、歩きながら今の状況説明するわね」
少女の横を歩く屈強な男が女性の口調で喋りかけてきた。
『お願い、タレンス』
「まずここの状況だけど、あんまり良くないわ」
タレンスの顔が曇る。
「兵士がかなり殺されてるの」
少女は顔色を全く変えることなく頷いた。
「まず第三辺境伯のところの兵士が殺されたのが最初みたい。通常の防衛任務についている時、4人一班で回るんだけど、その一組が全員斬り殺されてたらしいわ。誰がやったかはまだ不明」
『それがいつのこと?』
「私が公爵さまの所にお邪魔する数日前かしら」
『北の国との関連性は?』
「まだ不明。でも北国境から中立地帯にかけて敵兵の動きが活発になってるらしいわ。それで第四辺境伯とかが中立地帯に殴り込もうとしてるの。それを筆頭辺境伯と第二、第三辺境伯が止めてるって」
ツツィーリエは小さく数回頷いた。
『じゃあ今この地域で問題になってるのは、辺境伯の兵士が殺された事が発端ってわけね。それと北の国境で動きが活発になってる事と何か関係があるかどうかも不明』
「そうね」
「それだけで、わざわざ公爵の方に連絡がいったのか?」
話を聞いて、見ていたモヌワが話に入ってくる。
「それだけっていうけど、結構な事よ?防衛任務についてた兵士が死んでるんだもの」
「やったのが敵かどうかも分からんじゃないか。兵士同士の諍いなんか珍しくもない」
「それが立て続けに数件起きてたら、そうも言ってられないでしょ」
モヌワの眉が上がる。
「何件くらいだ?」
「まだ10件にはいってないみたい。でも、このペースで行くとそのうち被害者の人数は50人を超えるわ」
モヌワが太い腕を組んで考える。
「そのどれも誰がやったかわかってないのか?」
「えぇ。でも北の国の動きがそれに応じて活発になってるって。殴り込みに行くのを止めるのも限界みたい」
ツツィーリエはそれを黙って聞いていた。
「結構血生臭い話だけど、大丈夫?」
『今更じゃない?別に好きな話ではないけど」
ツツィーリエは肩を竦めながら手を動かす。
「話は終わったかい?そろそろ部屋に着くよ」
前を行く老婆から声がかけられた。
「えぇ、大丈夫です。会議と言いますが、具体的には何が議題になるのですか?」
「とりあえずやんちゃ坊主を止めるのが一番の目的だよ。議題は、そうだね。これからどういう対処をするか。これ以上面倒なことになって結束が乱れるとあちらが攻めて来た時に足並みが乱れる。それはまずい」
マシラはため息をついて自身の服の皺をいじる。
「面倒な事になったもんだよ」
『辺境伯閣下はこの問題をどうお考えですか?』
「私の仕事は最悪の事態に備える事さ。だから、うちの兵士が殺されたのは敵方の動きによるもので、動揺を誘ってこちらから相手に手を出させようとしてる、って事があった時でも対処できるように動くわね」
皺だらけの顔を更にゆがめる。
「ほら、ここだよ」
マシラが顎で示したのは、他の扉と変わりがないように見える普通の扉だった。白いマントを羽織った兵士が二人、扉の脇に立ち厳めしい顔で周囲を警戒している。彼らはマシラの姿を認めると、姿勢を一層整え敬礼した。
「適当に挨拶したら始めるから。会議中に寝るんじゃないよ」
マシラはそう言いながら兵士に合図をする。その合図に答えて、兵士が扉を開けた。
中は、暖炉の火が赤々と燃える大きな部屋だった。窓はなく壁には巨大な地図が掛けられている。部屋の中央には巨大な机があり、その上には地図と子供が遊びに使うような小さい円盤がまるで兵隊の展開図のように並べられていた。暖炉は二つ、砦の中にまで進行する山の寒さを追いだすには十分な力強さだ、その暖炉の近くに椅子を並べて暖を取っている人影がいくつか見られた。その人影は、部屋の中に入ってくるマシラとその一行を見て椅子から静かに立ち上がる。
「母上、お久しぶりです」
落ち着いた物腰で最初に声をかけたのは全体的に静かな雰囲気を漂わせている男だ。黒い髪の毛は耳が隠れる程の長さまで延ばし、細い目に前髪がかかっている。全体的に細身に見えるが、陰気には見えない。おそらく彼の立ち姿が堂々としている事、そして優雅だが力強い雰囲気がそう見せているのだろう。薄手のマントを跳ね上げながらマシラに見事な敬礼を見せた。
「アール、麓の人間の前だ。母上はよしな」
「これは失礼」
「髪を切れっていつも言ってるだろ。目にかかってるよ」
「すいません」
アールネクは苦笑しながら上げた手を下す。
「ツツィーリエ公爵令嬢、この細っこいのは第一辺境伯アールネクだ。アール、このちっちゃい娘はツツィーリエ公爵令嬢だ。国守の公爵から正式に権利を委譲されてきた使者ってことでここにいる」
「ツツィーリエ公爵令嬢、ようこそこの寒い雪山へ」
アールネクが胸に手を当てながらお辞儀をする。
『こんにちは、アールネク第一辺境伯閣下。私は声が出せないので紙面でのあいさつで申し訳ありません』
「耳は聞こえるのですか?」
ツツィーリエが頷く。
「耳が聞こえなかったら挨拶も聞こえないだろうね。詰まらん事を聞くんじゃないよ」
「ハハハハ、流石のアールネク殿も母上の前ではたじたじですな」
「ヤィルデル、何度言わせるつもりだい?麓の人間の前で母上って呼ぶんじゃないよ」
「こればかりは習慣ですからな。自分の母親に母上という機会よりも多いのですから仕方ない」
「親孝行してないのを開き直ってりゃ世話無いよ」
そういわれて頭を掻くのはがっちりと骨太の体格をした男だ。口の周りにひげを生やし、目尻には笑い皺が目立つ。この場にいる中ではマシラに続いた年長者だろう。腰には刀身の厚い剣を帯び、頭を掻く腕や指は非常に太い。だが、目の光には思慮深い光を湛えている。
「酒飲んでる暇があったら親孝行するもんだよ」
「いやはや、なかなか忙しくてですね。酒を飲むのもままなりません」
「おや?ヤィルデル閣下は一日に数本の麦酒を開けるらしいけどね」
「こ、こら、マーダック!それは言うな!」
少し丸っこい猫背気味の男が横から茶々を入れてきた。髪の毛は丸刈りで毛は一本も生えていない。部屋にいた3人のうち2人は明らかに剣術など体を動かすことを生業にしているのに対してこの男はまったくそういったところが見られない。太めの体は筋肉ではなく脂肪によるものだろう。怠惰な生活による体格ではなく、ただ体を鍛えていないだけという印象だ。顔の血色は良く、福々しい顔をしている。
「マーダック、あんたまた太ったんじゃないかい?」
「この寒さですよ。脂肪を蓄えないと凍えちゃいます」
「外にでたがらない奴が何言ってんだか。そのうち斜面を転がり落ちちまうよ」
丸い男が顔を上げて笑い声を上げる。
「ツツィーリエ公爵令嬢、こっちの老け顔の奴がヤィルデル第二辺境伯、こっちの太いのがマーダック第三辺境伯だ。ヤィルデル、マーダック、このお嬢ちゃんがツツィーリエ公爵令嬢だ。その後ろの二人は公爵令嬢のお付きだってさ」
「わざわざ遠い所からお越しくださって感謝しています、ツツィーリエ公爵令嬢」
「ほんとに。まぁ、こっちに来て暖まったらいかがですか」
二人の辺境伯は歓待の様子を見せて暖炉の前のスペースを開ける。
「んな時間はないよ。セールが来たらすぐにでも会議を始めるんだから」
「そう言えばセールはまだ砦についてないんですか?」
アールネク第一辺境伯が前髪を垂らしながら身をかがめ、マシラの顔に自身の顔を少し近づけながら尋ねた。
「あの子は私たちと一緒に来たんだ。そのうち来る」
そう言いながらマシラは大きな机の奥の方まで歩いていき、一際大きな椅子に深くもたれるように座り込んだ。
「さすがに歩き通しだと疲れるね」
「だから、わざわざ白鹿隊を出さなくても私が行くって言ったんですよ」
「あんたこそ一日歩き通しだったろうが、アール」
「私は何日だって歩けますよ。鍛えてますから」
「部下は大事にするもんだよ」
マシラは椅子の脇に立ててある長い棒を取ると、地図の上に置かれた小さな円盤状の駒を手際良く配置し始める。
「さっさと座りな」
マシラが手遊びの様に駒を配置するのを見ながら、各々椅子に向かった。アールネクはマシラの右側、年配のヤィルデルは左側、アールネクの横にマーダックが少し窮屈そうにしながら椅子に座る。
「公爵令嬢は私の真向かいの席だ」
マシラが示した方向にある椅子に大人しく座る。その脇をモヌワとタレンスが固めた。
『喋るのは私に任せてね、ツツィーリエちゃん』
タレンスがツツィーリエに手を動かした。ツツィーリエはそれを確認すると、ゆっくりと一回瞬きをする。




