奴隷の少女は公爵に拾われる 108
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周囲の注目が一気にツツィーリエに集まった。ツツィーリエはその事を気にせず少しだけ前かがみになり、目を見開きながら合わせた手を開く。ツツィーリエの胸の前、腕と体で囲われた部分に握り拳大の小さな光の玉が不思議な震えと共に浮かんでいた。ツツィーリエの手のひらから生まれる燐光が続々とその光の玉に集結し、見る間にその光球は幼児が丸まったくらいの体積にまで膨れ上がる。
「魔法…!」
第4辺境伯は部下たちに指示を出そうと手を振り上げかけた。
「一番最初に武器に手をかけた奴を殺す!」
モヌワが強大な腕を構えて、鍛えられた兵士達の心にも重い死への恐怖を持った警告を叫ぶ。彼女の眼に浮かぶ狂戦士の様な昂りが鍛えられた兵士の体を凍りつかせた。
その間にもツツィーリエが抱える光は大きくなり、その輝きの度合いもどんどんと増して行く。そしてその光が直視できないほどの厳しさを持ち始めた時、玉を跳ね上げる位の力でツツィーリエが上に光球を放り投げた。光球はその指示に従って上昇すると、夜闇を切り裂く存在感で天に座すかのように輝きを放ち始める。
『初めましての挨拶は割愛しましょう。セルークル辺境伯』
ツツィーリエの掌から溢れ出る燐光が冬の空気に文字を刻み始めた。綴られる文字の光と、天に光る小さな太陽がツツィーリエの白い肌と赤い瞳を照らし、厳粛な空気を纏った表情をより印象深いものにしている。
『私たちを中央要塞まで連れて行ってください』
気圧されたように何もしゃべらない辺境伯に歩みを進めた。
『さもないと』
ツツィーリエは真上で太陽のように光る魂を指差す。
『あれを山中の雪が震えるくらいの大音量で爆発させます』
セルークルはそれを聞くと目を細めてツツィーリエを睨みつけた。
「…雪崩を起こすつもりか」
『あれが爆発すればそうなってもおかしくないですね』
宣告するように冷たい文字が燐光で紡がれる。
『本当は穏便に済ませたいんですが、あなたがごねるのでしたら仕方ありません』
ツツィーリエはさらに一歩若い辺境伯に近づく。
「お前も雪崩に巻き込まれるぞ」
『私の部下を2人、雪崩から守ることは私にとって容易いですよ』
左掌の燐光がさらに濃度を増す。疑いの目で見るセルークルに見せつけるように左手を広げた。
「…これだから麓の人間は嫌なんだ。何一つわかっていない」
『そうですね。で、私たちをどうするんですか?』
ツツィーリエが変わらない表情で、真上に光る太陽を指差す。
セルークルが顔中の筋肉を使って顔をしかめた。
「たかが代理の癖に不愉快な」
『正式には名代ですね。私はこの件に関して父から全権を委任されています』
「書類だけでそんなにホイホイ権利を委任されてたまるか」
『書類だけで委任しているわけではないですが、ここで説明しても意味がありません。詳しい説明は筆頭辺境伯にいたします』
食い殺さんばかりに睨み付けてくるセルークルの顔をそこらの雪と変わらないものでも見るかのように冷たい赤い瞳で見返し、光で文字を紡いだ。
そしてセルークルが口を開いて何かしゃべり出そうとする。その言葉を覆い尽くすような深い声が緊張の真っただ中にある集団の耳に入ってきた。
「なんだい、あの眩しいのは」
その声は野営地の裏手、切り立った崖のようになっている岩の上から降りてきている。その声に対するセルークルの反応は集団の中でも一等に早かった。
「母上!?」
「セール、麓の人間がいる所で母上っていうのはやめろって言わなかったかい?勘違いされるだろうが」
その姿なき声は、かなりだみ声で口調もかなりさばけている。が、その声を聴いた人の意識をつかんで離さない確かな威厳があった。
「す、すいません」
「今そっちに降りるから、大人しく待ってるんだ。いいかい、私が大人しくって言ったんだから大人しくしてるんだよ、セール」
崖の上の気配がふっと消える。セルークルの表情は先程までの激しい感情が燃え滾っていたものから一変して、少しばつが悪そうに唇をかむ若者の表情になっていた。周辺の彼の兵士も大なり小なり同様の反応を示す。
「さっきの声、誰ですかね」
モヌワが緊張の解けた空気の中ツツィーリエの方に駆け寄りながら尋ねた。ツツィーリエは小さく肩をすくめる。
「たぶん、筆頭辺境伯よ」
モヌワの後ろからタレンスがついて来た。
「さっきの声がか?ばばぁの声だったぞ」
「おい、そこの!母上に対してばばぁとは何事だ!」
セルークルが純粋な怒りの表情でモヌワに食って掛かる。
「おいおい、さっきふもとの人間の前で母上って呼ぶなって言われたところだろ?おかあちゃんに怒られるぜ」
セルークルはその口調に鼻白めるが、ぐっとこらえて何もしゃべろうとしなかった。
「だいぶ尊敬されているみたいだな」
「そりゃそうよ。筆頭辺境伯はこの地域の防衛を任せられてから60年以上、好戦的な北の隣国からの侵攻を全く許してない傑物よ。前までここにあった国が私たちの国を攻め込んだ時に、この地域の兵士が何かと理由を付けて絶対に戦闘に関わろうとしなかったのは彼女が絶対に行ってはいけないって制止してたからって噂だし」
「60年?とんだババァじゃねぇか」
「年齢はわからないけど、この国の爵位を持っている人の中で一番年を取っているって噂よ。噂ばっかりで恐縮だけど」
モヌワが感嘆の声を上げる。その声に反応してセルークルがこっちを向くが、それと同時に雪を踏みしめて行軍する音が近づいてくるのがわかった。セルークルが居住まいを正し、それにならって彼の兵士もローブの裾を整える。
いよいよ行軍の音が近づき、野営地から雪山へ至る本格的な坂道に行軍の明かりが見えた。それに先行して、山道から一人の兵士が走って野営地に近づいてくる。
「マシラ筆頭辺境伯の御着きだ!整列!」
「よしな。仰々しいね」
その宣言に反応して山道から先程のさばけた声が聞こえて来る。その声のすぐ後に兵隊の列が見えた。セルークル辺境伯の兵士とは比べ物にならないほど厳粛な雰囲気で隊列を組み、表情にはまったくと言っていいほど隙がない。周囲を警戒するその動き、身のこなしから彼らがこの雪山における精鋭部隊であることは火を見るより明らかだった。その隊列の中央、一番手厚く保護されている所から兵士の列が突然分かれ、その隊列の下で誰かが動いている。
「それにここに公爵の代理が来てんだろ?バカなことするんじゃないよ」
兵士の波をかき分けて現れたのは、醜い老婆だった。
背中は丸く曲がり頂点には大きなこぶができている。背中のこぶより低い位置に来ている顔には数えきれないほどの痣と皺がありその下にある顔が全く想像できないほどだった。口には黄色い乱杭歯が乱立し、長い鼻は唇にかかるほどに折れ曲がっている。物語に出てくる魔女から黒いローブを取り除いたら彼女の姿になるだろう。
だが、その姿と同じかそれ以上に人の視線を引き付けるのはその眼だ。皺と痣の中に隠れそうになっている瞳は、海や空、世界中の青を重ねて合わせたかのような深みと鮮やかさを持っている。その吸い込まれそうな瞳の光は山そのもののように落ち着いて、揺るがない知性と経験に裏打ちされた迫力で以て視界の中のものを吟味していた。
「お初にお目にかかります、マシラ筆頭辺境伯閣下。私は―――」
「あぁ。公爵のガキから話は聞いてる。タレンスってんだろ。よろしく」
タレンスは拍子抜けしたように目を丸くする。
「つまらん儀礼は嫌いなんだ。まぁ歓迎するよ。そこのでかいのが、護衛官のモヌワか。でかいね」
「どうも。あんたから見りゃ誰でもでかいだろ」
「誰が私と比べての話をしてんだ。あんたは兵士の男の平均よりもでかいんだから、私じゃなくてもあんたのことをでかいっていうんだよ」
ペッと唾を吐き捨てるように言い捨てると、モヌワが何かを言う前に頭上に輝き続けている光の珠を見て、それからモヌワの脇に立つツツィーリエをその蒼い視界に納めた。
「これは、あんたのだね」
「ははう――マシラ筆頭辺境伯閣下。この者はこの光の珠を爆発させて山中に雪崩を起こすと私を脅してきました」
セルークルがマシラのもとに近寄り耳打ちするようにつぶやいた。
「爆発?」
顔をしかめて光の珠を見直す。
「あんたも馬鹿だね。この眩しいのはただ光ってるだけだよ」
「え?」
「爆発して、ましてや雪崩を引き起こすくらいの力はない。大体、あんな小さな娘っこにそんなでかいことができるわけないだろ」
呆れたように第4辺境伯に目を向けた。
「騙されてんだよ。そんなことができてんだったらもっと簡単にあんたに言うことを聞かせられるさ。大方あんたがここにいるやつらを足止めしようとでもしたんだろ。勝手にそういうことをするのはやめろって、何回私に言わせるんだ」
マシラの厳しい視線がセルークルに注がれる。
「しかもそれで化かされてんだったら世話ないよ」
セルークルはその視線を正視できず体を縮こめてしまった。
「このまぶしい丸いの消してくれないかい、邪魔だから」
マシラにそう言われ、ツツィーリエは片手を振った。光の珠は音もなく小さくなり、数秒で周囲に散る。辺りには野営地に焚かれている大きな火の勢力が盛り返し、赤い光が周囲を包み込み始めた。
「あんたがツツィーリエかい。よろしく。マシラだ」
その問いに、ツツィーリエは懐から取り出した紙に文字を書いて返答した。
『初めまして、マシラ筆頭辺境伯閣下。私は父の名代として派遣されました、ツツィーリエと申します。よろしくお願いします』
「それにしても、この地もだいぶ軽く見られたもんだね」
マシラは折れ曲がった体からは想像もつかないくらいの器用さで雪の上を歩きながらツツィーリエに近づいてきた。
「私は公爵本人がここに来るように要請したんだけどね。来たのはこんなに小さいお嬢ちゃんときたもんだ」
『私はこの件に関して、父が持つ権限をすべて委任されてここにきています』
「あいつからの手紙にもそうあったよ。でもね、言っとくがこの地域の防衛に関する公爵の権限っていうのは、簡単に委任できる類のもんじゃないんだ。公爵の持つ権限っていうのは、公爵本人のものじゃなくて公爵の爵位に付随するもんだ。権力に弱い麓の人間ならいざ知らず、書類一枚で、はい、そうですかと納得できるほど私はできた人間じゃない」
マシラが怒りの混じった喋り声を節くれだった棒のような指でツツィーリエの胸を突く。と、その突いた指の感触に片眉を上げた。
「ん……?」
『父もそういっていました。いくら文字や声で、この地方のことを重視しているといっても形を示さないと筆頭辺境伯は納得してくれないと』
「じゃあどうするよ。言っとくけど私は納得しなかったらあんたを山から追い出して私の判断で事を進めるよ」
タレンスがはらはらしたような表情で何かを言おうとするが、ツツィーリエが手で制止する。
『筆頭辺境伯にお見せしたいものがあります』
「…………」
マシラは歪な顔をツツィーリエにしばらく向けると、セルークルの方に突然顔を向ける。
「セール。こっち来な」
セルークルはおとなしくその指示に従って寄ってくる。
「この子が証人だ。あんたんとこの部下にも見てもらいな」
ツツィーリエは頷くと、タレンスとモヌワに手招きして呼び寄せた。
「なんですか、お嬢」
『ちょっと見ててね。見たら私の事しっかり守ってよ』
「いつでもお嬢の身を守りますよ」
ツツィーリエはその返答を得ると、マシラの方に体を向ける。
「早く見せな」
ツツィーリエはそう言われるとおもむろに、分厚い服で覆われた自身の胸元に手を突っ込んだ。周囲がきょとんとする中で、マシラだけが目を細めて息を詰める。
ツツィーリエが自身の胸元から取り出したのは、鋼でできたペンダントだった。それを見たタレンスはあまりの驚愕に小さく一声悲鳴を上げる。
「……」
マシラは目を細めたまま表情を変えない。
「ツツィーリエちゃん!?なんでそれ持ってるの!?」
タレンスがほとんど恐怖に慄くように顔を引きつらせて尋ねた。
『お父さんから預かったの』
ツツィーリエが取り出したのは、武器にも使われる黒鋼でできた重そうなペンダントだ。そこには前足を組み悠々と前を見据える大虎の姿が精細に彫り込まれている。要所要所に打ち込まれた金が、まるで虎が生きているかのように光を揺れ動かせた。国守の公爵家の家紋である静かな大虎の紋だ。
「母う―――マシラ閣下。これはなんですか?」
「……公爵の紋章だ」
「はぁ……それが?」
「これは、端的に言うと身分証でね。これを持っている人間がこの国の国守の公爵であるということを示すんだ」
「ほぉ………ん?」
「普通は公爵が絶対に肌身離さず持ってる。絶対に人に渡したりなんかしない」
「でもこの娘が持ってますよ」
「そうだね」
セルークルの頭に事実が追いつくのに少し時間がかかった。
「………え?」
「あの若造も思い切ったことをする」
「えぇぇぇぇ~~~~~~~!!??」
目が飛び出すのではないかというくらい目を見開いてセルークルがツツィーリエを見つめた。
『公爵の誠意、お分かりいただけましたか』
ツツィーリエは公爵の紋章を見せながら、その紋章に貼ってあった紙の文字をマシラ達に見せた。




