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奴隷の少女は公爵に拾われる 106

偉く時間がかかってしまった…

「今頃、お嬢様はどこにいるでしょうね」

「さぁね」

 大きな執務机の上にくたびれた羽根ペンと中身の減ったインク、そしてサインを入れられることで始めて強力な効力を発揮する文書の山が準備万端で待ち構えていた。机の下には既に役目を終えた書類たちが所狭しと散らばって、辛うじて扉からの道が繋がっている形だ。

 今その部屋で執務についているのは、白髪混じりの銀髪をランプの光の中で光らせている年配の男性だ。脂気のない痩せた顔には皺が乗り、灰色の瞳には彩りが感じられなかった。雪の乗った大柳のように周囲の影響を全て流し切っているような、そんな風情で淡々と書類の確認とサインの作業をこなしていた。

 その近くで働くのは、さらに年配の執事だ。白い髪と口髭を丁寧に撫でつけ、隙無く燕尾服を着こなし、無駄の無い動きで主人の補佐をしていた。

「今日明日には山につくでしょ。まぁ、どこにいるにしても今頃は雪の中進んでると思うよ」

「そうですね。ですが、大丈夫でしょうか」

「ラトもマーサの心配性が移ったの?大丈夫だよ。北のほうにいる治安維持官にもしっかり賊を取り締まるように連絡いれたし、筆頭辺境伯にも連絡したじゃない。これ以上の心配は無駄だよ」

「公爵さま、ペンにインクが付いていません」

「おっと。疲れが出たかな」

「年ですか?」

「まいったね。ツィルが大人なるまではしっかりしないとダメなんだけど」

 さらさらとサインを入れ、控える執事に渡す。

「どっちにしても折角ツィルが作ってくれた時間なんだ。ついでにやることをやってしまうさ」

「ですが、少しやり過ぎでは?」

 執事は部屋に散らばる書類の量を言外に示しながら言った。

「ツィルが来る前はこんなもんだったじゃない」

「量もそうですが――」

「それに軍を動かすんだからこれくらいは当然でしょ」

「北の重要拠点に1,2の侯爵の連隊を多数連れて行くというのは、かなりやり過ぎだと思うのですが」

 執事の顔が少し曇る。

「そう?当然の処置だよ。もしツィル達の説得が失敗したらどうせ戦争だ。他の国と交渉する必要も出るし、先手は打っておかないと時間が足りなくなる」

 公爵は喋りながらまた1枚書類を確認してサインを入れる。

「私としては戦争になってもならなくてもどちらでも対処できる。国富の公爵に事情を説明してるし、彼も動く。今の国力的に大きな不確定の要素がなければ負ける事はないし、外交担当の国富の公爵が彼である以上そう言った不確定の要素は自然と潰れるさ。あちらから攻めてくる分には外聞も悪くない」

 公爵の灰色の眼には全く熱がこもらない。

「私にとって一番最悪なのはツィルの失敗では無くて、ツィルの身に何かが起こる事だ。できる限りの事はしたけど辺境伯達がどういうふうに動くかは、なんとも言えないところがある」

 公爵は手に持った書類を脇にやって椅子の上で軽く伸びをした。

「ちょっと休憩しよう。終わったら、違う案件の処理だ」

「何か他にありましたか?」

「忘れたのかい?そろそろツィルの初成人の準備をしないと」

「あぁ、そうでした」

ラトは手を打ち合わせた。

「楽しみですね。若者の成長する様は私たちの大きな糧です」

「そうだね」

公爵は書類を裏返して立ち上がった。

「台所に行こう。さすがに少しお腹が減ったよ」



「お嬢、こんなに寒いのによく食べれますね」

 その時、ツツィーリエたちは遅めの昼食をとっているところだった。馬車と近くにある大きな樹をひもでつないで上に布をかけただけの簡易の休憩所の下で火を焚き、そこでお湯を沸かしている。今御者を含めた4人は、味を濃くして保存食の役割を持たせた干し肉をお湯で戻して握り拳大の硬いパンの中に入れて食べている。しばらく前に通った小さな町で買った物だが、ツツィーリエはすでにそれを3つは食べている。

『明日には到着するでしょ?残ったらもったいないわ』

「多少残ってもこの季節なら腐らないですよ」

 簡易の休憩所を作ってそんなに時間はたっていないが、既に馬車の車輪がつけた痕跡は雪に埋もれて見えない。木が遮っていない部分の雪はモヌワのふくらはぎに達しているのではないかと思うくらい積もって、まだまだ降り続くようだった。空には分厚い雲がしっかりと居座り、間断なく大きな雪片が降ってくる。周囲は大きな木が疎らに立ち、その樹が辛うじて旅人に道を示していた。それ以外の景色は白に覆われ、これ以上降り続けば進むこともままならなくなるだろう。

「馬を変えといてよかったわい。あの馬でなかったら一歩も進めんところだ」

 毛糸の服を幾重にも重ねてきている御者が寒さの中でもすくっと立つ馬の方を見る。馬の背丈はそれほど大きくないが、代わりに体格が横に分厚く、さらに毛が長い。前が見えているのか不安になるくらい長い毛が目に垂れかかっていた。

「でも、そろそろあんまり馬車ではすすめなくなってくるわよね。これ以上降ったらどのみち動けないわ」

 お湯の入ったコップを寒そうに抱えたタレンスはカチカチと震えながら口を開く。

「あぁ、そうなんだわ。しばらくしたら3人には歩いてもらわんとならんよ」

「私たちはいいんだけど―――ツツィーリエちゃん、大丈夫?」

 口にパンを咥えながら手をひらひらと動かした。

『荷物の中の書類全部なくなったから、たぶん大丈夫』

「いざとなったらお嬢は私が背負って歩く。それより道は大丈夫なのか?」

「馬車で行けるギリギリのところまで行ったら、辺境伯の使いの者が待ってくれてるって、昨日若いもんが言っとったよ。迷子になることはないんじゃねぇかな」

「雪の積もり方は?」

「雲に聞いてくんな」

 御者は服についたパンくずを払って体を軽く伸ばした。

「よっし。そろそろ行くで。後少しあと少ししたら山のふもとに着くわ」

 ツツィーリエは口をもぐもぐさせながら立ちあがって、これからの進行方向を見つめる。

 まだ、雪のカーテンに覆われて山は見えない。

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