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茶々視点外伝 茶々視点・⑨⑧話・雄琴温泉③

湯殿へ向かう廊下は磨き込まれて月光を呑み、私の足袋がきしりとも言わぬ。


角ごとに宗矩様の配下が影のように控え、灯明の火が揺れるたび刀の鍔だけが狐火みたいにまたたいた。


戸を開けると、白い湯気がふわりと押し寄せ、檜の香りが胸の奥まで広がる。


外には雪をいただいた枯山水、黒松が湯面に逆さの影を落としていた。


「姉上様、湯あみって、思ったより軽いね!」


お江はもう待ちきれないという顔で、桜子に紐を結んでもらいながら足踏みしている。


「はしたない。転ぶわよ」


お初は半眼で釘を刺しつつ、湯あみの襟元をきちんと合わせた。


桜子・梅子・桃子の三人は、まるで舞台裏の小袖売りのように、手早く私たちの身支度を整えていく。


湯気を割って進むと、湯船の縁に背を向けて座っている真琴様の肩先が見えた。


褌を締め、髪を後ろで束ね、こちらに気づくとわざと視線を斜め上に逸らす。


その不器用な礼儀が、可笑しくて、少しだけ嬉しい。


「先に失礼してる。滑るから気をつけて」


「御主人様、背中をお流しいたします」


桃子が桶を捧げ持つと、お江が割り込む。


「ちょっと、背中流しはお江の役目~!」


「順番を守りなさい」


私が扇子代わりの手でお江の額を軽くはたくと、ぱちんと小さな音がして、お江は舌を出した。


宗矩の咳払いが湯気の向こうから一つ。あれは“静粛に”の合図だ。


湯縁に腰を下ろし、指先からそっと湯に沈める。


冷え切っていた足の裏から、ぬくもりが骨のきしみまでほどいていくのがわかる。


肩まで沈むと、冬の夜気と湯の温度差が頬を撫で、思わず息が長くなった。


「真琴様、湯あみの法度、今回は褒めてあげます」


「おお、採決一票賛成……って家中評定じゃないけど。――“混浴時は礼を守るべし”って条文、増やそうかな」


「これ以上妙な法度を増やしたら、台所の張り紙が経文みたいになりますよ」


私が笑うと、真琴様も肩をすくめた。


肩甲骨の動きで、船酔いの名残の強ばりがまだ残っているのが見て取れる。


「――ほら、力抜いて。あなた、肩に風を溜め込みやすいの」


私は湯あみの袖を少しまくり、掌でそっと肩を包む。


梅子が差し出した湯桶を受け取り、熱すぎない湯を流すと、真琴様の呼吸が一拍ぶん長くなった。


「……そこ、天国」


「俗っぽい天国ね」


「地獄よりはいいでしょ」


お初は湯縁に肘を預け、庭の雪見灯籠を眺めている。


「比叡の山から吹き降ろす風、今夜はまだ収まらないわね」


「明け方には変わる。湖の匂いがそう言ってるって宿の人言っていたよ。俺もそう感じた」


真琴様が言う。陰陽師の勘というより、あの人の鼻――妙に当たるから困る。


「姉上様、見て見て! ほら、湯気で月が二つ!」


お江が指さす湯面には、灯りが揺れて二つ三つに割れて見えた。


「それは湯けむり。月は一つよ。ほら、数え間違い」


「え~、じゃあ、今夜は“幸福三倍”ってことで」


「そんな勝手な換算は黒坂家法度にないわ」


「じゃ、増やしとこうか――“第十八条・湯けむりは理性を惑わす、数え違いは笑って流すべし”」


真琴様が悪乗りし、お初がふっと吹き出す。


「その条文なら、今夜だけは賛同してあげる」


湯殿の戸外、砂利を踏むかすかな音。


宗矩の配下が合図を返し、すぐに遠ざかった。


見張りの交代に違いない。湯の表面に、松の影がまたひとつ落ち、波紋が広がった。


「――さっきの雄琴屋の長兵衛、言葉に嘘はなかったわ」


私は低く告げる。さっきの膳の気配、茶の香の奥の奥、粗相のない台所の熱。どれも誠実だ。


「うん。ここを織田の世の温かい宿りにしていこう。琵琶湖の道も、人の心も、冷えたままじゃいけない」


真琴様が湯面に手を泳がせながら言う。


その手の甲には書き慣れた墨の薄いあと――年始に書いた“受雷神槍”や“ぱねる工法”の覚え書きの名残。


湯がそれをほどくように、墨色を少しだけ薄くしていく。


「姉上様、背中、私が――」


「順番。今日は私が最後にいただくわ。……お江、力を入れすぎないのよ。そこは骨」


「はぁい」


お江の小さな掌が、布で真琴様の背を撫でる。


肩から腰へ、ゆっくり、律儀に。真琴様はくすぐったそうに笑い、しかし途中から静かになって目を細めた。


船の軋みも、北風の唸りも、湯殿の中ではただの遠い音になる。


「……茶々」


「なに?」


「ありがとう。さっきの“風が変わる”って話、ほんとは自信がないときもあるんだ。だけど――君が“そう”って言うなら、大丈夫な気がする」


「なら、私が毎晩言ってあげます。“大丈夫”って」


「それ、効能強いね。常服したい」


不意に胸が温かくなる。湯の熱とは別の、もっと柔らかい熱。私は咳払い一つで誤魔化し、湯縁の手拭いを絞った。


「長湯は禁物。船酔い明けの体は、湯でも酔うの」


「医食同源の台所頭が言うなら従います」


「誰が台所頭ですか。黒坂家のかかさまです」


「それはなおさら強い」


上がり際、梅子が差し出す木綿の乾いた手拭いは日向の匂いがした。


桜子が湯あみをさっと外し、桃子が湯殿の戸口に風除けの衝立を立てる。


冷たい夜気が頬を撫でたが、体は芯からあたたかい。


部屋に戻ると、火鉢の上で鉄瓶がことこと鳴き、甘酒の白が月の残り火みたいに湯呑に灯った。


真琴様は湯上がりの頬色で、畳にころりと横になり、私の膝に頭を預ける。


習い性になった動作だ。


指で前髪を上げてやると、長旅の犬みたいに安心した顔になる。


「明ければ風が変わる。湖の道が開けば、安土へ戻れるわ」


「戻ったら、受雷神槍の図、もう少し描き直そう。宗矩、紙を――いや、今はいいや。眠い」


「ええ、今は眠りなさい。――“第十九条・夜更けの策は朝に改めるべし”」


「採決、賛成……」


返事は半分夢の中。寝息が一定のリズムになったところで、私は火箸で炭を寄せ、布団に湯たんぽを滑り込ませた


。障子越しの庭では、松の影がさらに濃く、雪明かりだけが薄く残る。外は北風。


内は人の息と布団のぬくもり。


湯あみの紐を解いた指先に、まだ檜の香りが残っていた。


明日は湖が微笑むだろう。もし機嫌を損ねたら、そのときはまた、皆で笑ってやり過ごせばいい。


――“湯けむり条”があるのだから。私はそう胸の中で付け加え、眠りへ落ちていった。

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