茶々視点外伝 茶々視点・⑨⑥話・雄琴温泉
宿の土間に入ると、湯気をふくんだ温かな空気が頬を撫でた。
湯桶と手拭いを抱えた女中たちが膝をそろえて待機していたが、私は小さく手を上げる。
「真琴様のお足は、桃子に」
念のための用心である。
桃子が素早く湯を汲み、真琴様の脛から足先まで、指の間も丁寧に流す。湯は温泉のかすかな香り。
外の北風を忘れるほど、指先から体内に火がともるようだ。
通されたのは書院造りの部屋。
襖一枚で仕切れば三の間に分かれ、真琴様と私たち三姉妹、そして桜子・梅子・桃子の部屋へと続いている。
いざという時は一息で合流できる、――宗矩の気遣いらしい。
「台所には、うちの者を監張に入れました。毒の心配は薄れましょう。とはいえ毒見はいたしますゆえ、御大将、少し冷めるのはご容赦を」
森力丸が低く告げるや、桜子が一歩進み出る。
「でしたら、私どもが火鉢で温め直します。御主人様には温かいものを」
「……頼もしい。火鉢を多めに」
力丸が合図し、やがて杉蓋ののった膳が運ばれる。
侍女を装っているくノ一が黙々と毒見を済ませ、桜子が手早く火鉢で温を足して、真琴様の前へ。
「真琴様、腹にやわらかいものを。落ち着かれます」
「うん、そうさせてもらう」
粥の白に、梅干しのほぐし身が紅を差す。
具のない味噌汁は、出汁だけで心がほぐれる味。
つい先ほどまで桶を抱えていた人の顔色に、ゆっくりと血の色が戻ってゆくのがわかる。
「あっ、マコ、顔色戻った」
「青白い死人のふり、やめたのね」
「お初、言い方」
私は小さく咳払いし、真琴様の膳が下がるのを待ってから、煎茶を点てる。
碗の湯面に、湯気が静かに揺れたその時、真琴様がぽつり。
「――若い姫と宿……って、やばくない?」
「何を仰いますの。私は正室。何の問題もございません」
「あ、そっか……確かにそっか。でも、急の逗留だし。お市様、心配しないかな?」
「母上様は小谷で長い間暮らしました。琵琶湖の機嫌が風次第なのを骨身でご存じです。それに――真琴様と一緒なら、ご安心なさいます」
「うーん、念のため……力丸、安土へ早馬を。“風に阻まれて雄琴に逗留”と伝えて」
「はっ、心おける者を走らせます」
使いが走り、部屋に静けさが戻る。お初が肘で私の脇をつついた。
「変なところ、律儀なのね」
「一応、義兄だからね。旅先の保護者としては、ちゃんとするさ」
真琴様が妙に真面目な顔で言うものだから、お初はふっと口角を緩め、反論を飲み込んだ。
ほどなく、桜子が宿の女中と並んで、私たちの膳を運び込む。
「台所は私が見ていましたし、毒見も済ませております。温かいうちにどうぞ」
「安心だね。お腹、ぺこぺこ」
「お江。遅れて効く毒もあるのです。少し待ちなさい」
お初の声が、少し大きかった。廊下の先から、控えめな呼び声。
「失礼いたして、よろしゅうございましょうか。雄琴屋・長兵衛にございます」
膝をついた湯元の頭が、改めて深々と頭を垂れる。
「温かなうちに召し上がっていただけるよう手配いたしました。……毒がご心配で? この雄琴屋、元は浅井家に出入りしていた商人にて。婿に入り、今は湯元を任されております。浅井家には幾度も助けていただきました。その御姫君方へ、恩を仇で返す真似は、天地あろうとも致しませぬ」
「浅井……と」
胸の奥がきゅっと鳴った。言葉が、半拍遅れる。すると真琴様が、ほぐすように笑った。
「台所には宗矩も目を光らせているし、変な気配も感じない。――長兵衛、顔を上げて。湯も膳も、ありがたく」
陰陽の力で“気”を視る――真琴様の一言は、何より確かだ。私は小さく息を吐き、扇をたたむ。
「お初、お江。いただきましょう。桜子たちも温かいうちに」
「はい、御方様」
膳の蓋を外すと、湯気がほわり。湖の寒さを忘れさせる湯と粥。梅の酸が、喉を通って胸へ落ちていく。――黒坂家は“梅で立つ家”、と誰かさんは冗談めかすけれど、今夜ばかりは、たしかに梅に助けられた。
外はまだ風が唸っている。だが、この一間は、湯と人の手で、ちゃんと温かい。私は箸を取り、まず一口、ゆっくりと噛みしめた。




