茶々視点外伝 茶々視点・⑧⑥話・加増
徳川家康が黒坂屋敷へ現れた翌日、私と真琴様は安土城天主に呼ばれた。
冬日の光が障子に薄く拡がり、畳の目がきりりと冷える。
私は点前を整え、義父・織田信長様の御前に薄茶を差し上げる。
碗底で緑がゆらぎ、松風が釜の喉で鳴った。
「徳川家康が屋敷に出向いたそうだな?」
いきなりの問い。続けざまに、
「徳川家康は苦手か?」
真琴様はわずかに首をかしげ、いつもの正直さで返された。
「徳川家康という人となりは計りかねますので、まだ好き嫌いは申せません。ですが、私が知る徳川家康の“幕府のやり方”は嫌いです」
「と、いうと?」
「“鎖国”と呼びます。交易相手を限り、二百六十年ほど国を守る政策です。奴隷売買や金銀の流出を抑える意味では“守る”とも言えますが、国を閉ざす策ゆえ、やがて力は細る。文化は国内で花開きますが……」
信長様は茶を飲み干し、碗の底をじっと見据え、それから細く外の明かり取りを開けられた。冬空の白が衣にさっと映る。
「常陸が知る“その時”は来ぬのではないか。この信長が君臨する以上、国を閉ざすなどせん。愚か……なぜ家康はそれを選ぶ?」
「吉利支丹の広まりを恐れたから、と言われています。一向一揆の再来を畏れたのだと」
「一向一揆か……石山本願寺には苦しめられたわい」
義父上は低く呟き、指先で扇の骨を一度だけ鳴らされた。
「未来は宗教、どうなっておる?」
「日本に限れば、民すべてに“信教の自由”が保証され、“政教分離”が法で定められています。寺社が政治を左右することはありません」
「政教分離、とな」
「比叡山の焼き討ちや、一向一揆の討伐は、結果として“政治と宗教を離す”下地になったのだと思います。もし当時のまま寺社が権勢を保っていたら……と考えると」
義父上は再び外を一瞥し、
「そうか、あれがそののちに響くのか」と、ほとんど聞き取れぬほど小さく言われた。
私は息を殺して耳を澄ませる。――真琴様、今のお言葉、きっと届きましたか?
ややあって、
「蘭丸、あれを持て」
襖際の森蘭丸が身を翻す。階下から坊丸が風呂敷を抱えて上がり、真琴様の前に置いた。
「茶々、開けてやれ」
「はい」
私が風呂敷を解くと、艶やかな起毛が光を吸った。南蛮人の外套――深い色の。
「あっ、ベルベット生地のマントだ。あたたかそう」
「常陸、そちは大層な寒がりと聞いた。褒美じゃ」
「ん? 最近、何かしましたっけ?」
「正月の宴席で、常陸の料理を食した者どもが『先進の織田には勝てぬ』と口々に申しておる。与力・外様の耳にも入った。よい“示威”よ」
「真琴様は、また料理で無駄な戦を一つ減らしたのですね」
「……そんな珍しいもの、作った覚えはないんだけど。せいぜい“天ぷら”くらいで」
「それがよいのだ。派手すぎず、しかと財と技が見える。常陸にはわかるまい」
義父上はわずかに愉快そうに口角を上げた。と、その視線が机上の包みに移る。
「これは?」
「あとで見よ。儂は忙しい」
そう言い置いて、風のように立ち去られた。
残された包みを手に取ると、蘭丸が私に目配せする。
「二十万石へ御加増の事が記されております」
「え゛」
真琴様、ひっくり返った蛙のような声。私は慌てて書付を開き、行を追う。
――確かに、「給金、二十万石相当へ加増」とある。
「真琴様、これは……百万石の領地を持つ大名に匹敵する“取り分”にございます」
真琴様は領地経営を固く辞している。ゆえに義父上からは年ごと現金での支給――年貢の出来不出来に左右されず、換金の手間もなく、純粋な“給金”として受け取る形だ。
武家の家計簿がちらりと脳裏に浮かび、私は思わず指折り数えそうになる。(うちの台所、どれだけ温かくできるでしょう)
「はぁ~……ん~……よくわからないけど、頂いておきますか。蘭丸、信長様には『ありがとうございます』って私が言っていたとお伝えを」
「はっ、しかと」
そう答えながらも、真琴様の顔には浮かれがない。
喜ばぬのではない。ただ――重みを知る人の顔だ。金子は“責”でもある。私の胸にも、きゅ、と細い紐が結ばれる感触がした。
「……真琴様、暖かいマントが増えましたし、これで“寒がりの大名”と呼ばれても恥じぬ装いですね」
「いやいや、その渾名は要らないよ」
「では“天ぷらの軍師”で」
「もっとひどい!」
思わず二人で笑ってしまい、張り詰めていた天主の空気が少しだけ和らいだ。
けれど私の掌は、包みの紙越しにも確かに感じている――二十万石の重み。
いただいた重さを、無駄なく正しく火に変えて、黒坂家と、この国の寒さを和らげねばならぬ。
私はそっと背筋を伸ばし、義父上の去った方角へ一礼した。




