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第56踊 先生は天使か悪魔か

夏休みだろうと部活はある。


無い方がいいと思う時もあるけれど、無かったらきっと規則正しい生活は出来ないだろう。


いつもどうり早朝から電車に乗り、自転車をこいで学校へ行く。


まだ早朝だから涼しい方なのかもしれないが、学校へ着く頃には汗だくになっていた。


夏はこれだからめんどくさい。


僕はカバンの中から制汗剤と汗ふきシートを取りだして、匂いケアをした。


これから部活でまた汗をかくだろうが、指導される時はかなり近い距離になるため匂いにも気を使うのだ。


弓道場へ向かうと咲乃がいた。


「おはよう、相変わらず早いな」


「おはよう秋渡。あなたはいつも暑そうね」


「そりゃ駅から自転車で来てるからな」


片道5キロを自転車で行くのもだるいのだ。


雨の日はさすがにバスを使用するけど。


他愛もない話をしていると、矢野先輩や他の部員たちも集まってきた。


天使先生がきて朝礼をしてから部活動が始まった。


天使先生は僕を見るなり、ニコニコしながら近づいてきた。


まるで天使が人間界に降り立ったみたいだ。


「今日は由美ちゃんに変わって私が指導するね!」


「ちょっと!私の片桐くん取らないでくださいよ先生!」


いつから僕は矢野先輩のものになったんだ。


天使と人間が、天使先生と矢野先輩がなぜか言い争っていた。


「片桐くんは私にかかればすぐに由美ちゃんと肩を並べるレベルになるわ。だから任せなさい!」


「天使先生の指導は確かに的確ですけど、厳しすぎてダメになっちゃう子も多いんです!彼はまだ甘やかして育てないと!」


僕、甘やかされてたのか!?


矢野先輩もわりと部活中は厳しいと思うのだがそれ以上なの?


たしか天使先生は最近咲乃を指導してたと思うけど……負けてたまるかって燃えてたけどそういうことか。


負けず嫌いな彼女だから合っていたってことだね。


「ならなおさら今厳しくしないとダメ!由美ちゃん甘やかし始めると止まらないから!代わりに高塚さんを甘やかしてあげて。あの子、あなたに似て強情だから」


「……わかりました」


話がついたようで、天使先生はニコニコしていた。


対照的に矢野先輩は少ししょぼくれていた。


「秋渡、メンタルやられたら慰めてあげるわ」


「そんときは、頼むわ…」


気を取り直して、僕は射場に入ろうとした。


「片桐くん、まずは巻藁で!」


天使先生に呼び止められ、僕は巻藁へと向かった。


巻藁は弓道において自身の射法八節を、射形を確認する場である。


緊張してたら「リラックスリラックス」と肩を揉まれた。


やはり天使はここに実在していた。


弓を構え、射法八節を一通り行った。


うんうんと天使先生は頷いてから、指導が始まった。


天使先生の指導は本当に的確だった。


しかし、それ以上に厳しかった。


「片桐くん、肩が上がってる!」


「もっと腰を落として!弓は自分の一部になったつもりで!」


「ダメダメ、引き分けの時点で崩れてる!もっとゆっくり!」


次々と指摘される。


何度もやり直しを命じられ、そのたびに僕は肩に力が入った。


巻藁での基礎練習が終わったあと、いよいよ的前に立つことになった。


精神を落ち着かせ、ゆっくりと呼吸を整える。


天使先生が横でじっと見ているせいで、妙なプレッシャーを感じる。


弓を引き、狙いを定め――放つ。


バシュッ!


矢は的に届かず、手前の砂利の上に落ちた。


こんなに外したのは久しぶりだった。


「片桐くん、焦りすぎ」


天使先生は僕の肩をぽんぽんと叩いた。


優しく微笑みながらも、その眼差しは鋭い。


「あなたはせっかく集中力があるのに、プレッシャーに弱いわね」


ぐっ……。図星だ。


僕は無意識のうちに、矢野先輩や周りの部員たちの視線を気にしていた。


「さっきから緊張しすぎて呼吸が浅くなってるの、気づいてる?」


「え……」


言われてみれば、たしかにそうだった。


上手くやることに意識を取られすぎて、ちゃんと息をしていなかった気がする。


「弓道はね、弓と矢だけじゃなくて、呼吸も武器なのよ」


天使先生はそう言いながら、すっと僕の背中に手を添えた。


「深く、ゆっくり息を吸って……」


背中越しに伝わる温もりと、彼女の優しい声。


それだけで、少し心が落ち着いた気がした。


「ふぅ……」


大きく息を吐く。


「いいわね。その感覚を忘れずに」


天使先生が手を離すと、再び僕は弓を構えた。


バシュッ!


今度は的に当たった。


中心ではないけれど、ちゃんと届いた。


「そうそう!少しずつ感覚を掴んでいきましょう」


僕は息をつく。


厳しいけれど、やっぱりこの人の指導はすごい。


納得させられるものがある。


でも、その後の指導はさらに厳しさを増した。


「もっと引ききって!」


「肩がぶれる!まっすぐ!」


「一回やめて!最初から!」


次々に飛んでくるダメ出し。


そして何度もやり直し。


疲れからかメンタル的なものか、しまいには矢が全然当たらなくなり、僕の心は折れかけていた。


「……もうダメかも」


ぼそっと呟くと、天使先生は驚いたように目を丸くした。


「え?片桐くんが弱音?」


「……さすがにメンタル削られました」


僕は苦笑いしながら弓を下ろした。


もう何本も外し続け、手のひらは汗でじっとりと濡れていた。


天使先生は「うーん……」と腕を組み、しばらく考えた後、ぽんっと手を叩いた。


「じゃあ、一旦休憩!外でリフレッシュしましょう!」


そう言って、僕の腕を引っ張った。


「え、ちょっ……?」


まるで犬の散歩のように引かれ、僕は弓道場の外へと連れ出された。


天使先生にジュースでも買っておいでと言われたので自販機へと向かった。


さっきまでの練習を思い返しながら自販機の前で立ち尽くしていると、いつの間にか咲乃が横にいた。


「……お疲れ」


咲乃はそう言って、僕に缶ジュースを差し出した。


「え、くれるの?」


「うん。あんた、めちゃくちゃ疲れてたから」


ありがたく受け取る。


プルタブを開け、一口飲むと、冷たい炭酸が喉を駆け抜けた。


「ふぅ……生き返る」


思わず漏れた言葉に、咲乃はくすっと笑った。


「天使先生の指導、やっぱり厳しい?」


「……マジでやばい。正直、心が折れかけた」


「でしょうね」


咲乃は呆れたように肩をすくめた。


「でも、ちゃんと頑張ってるのは偉いと思うよ」


「……意外と素直に褒めるんだな」


「意外とって何よ」


少しムッとした表情を浮かべる咲乃。


「でも、まあ……あんたがボロボロになってるのを見ると、ちょっと気になるというか……」


咲乃は缶をくるくると回しながら、小さく息をついた。


「別に、慰めてるわけじゃないけどさ。あんたがダメになったら、私もつまんないし」


「……そっか」


そう言われると、なんだか少し元気が出た。


気がつけば、肩の力が抜けている。


「ありがとうな」


「……別に」


咲乃はそっぽを向いた。


僕は缶を飲み干し、深く息を吸い込んだ。


「よし……もうちょい頑張ってみるか」


「その意気」


咲乃は軽く僕の背中を叩いた。


「ま、ダメそうだったらまた休憩に付き合ってあげる」


「……頼りにしてる」


そんな風に言うと、咲乃は少しだけ照れたように視線を逸らした。


休憩後、咲乃は矢野先輩に指導を受けていた。


「咲乃ちゃん、もっと肩の力を抜いて」


「はい」


矢野先輩の指導は厳しいながらも、天使先生とは違って穏やかだった。


基本的な動作を一つひとつ丁寧に確認しながら、的確に指摘をしていく。


どちらかというと褒めて伸ばすタイプだ。


「そう、いい感じ。でも今のは少し矢がブレたわね」


「え、どこがですか?」


咲乃は真剣な表情で矢野先輩を見上げた。


その小さな背丈と、集中した時の鋭い目つきが妙に印象的だ。


「引き分けの時に少し右肩が上がってたの。もう一回、意識してみて」


「……わかりました」


咲乃は再び弓を構える。


その横顔は普段の横柄でクールな彼女とは違い、ただひたむきに弓と向き合う弓道部員の顔だった。


「ふっ……!」


バシュッ!


放たれた矢は、見事に的の中心に突き刺さる。


「やった!」


咲乃は嬉しそうに小さくガッツポーズをした。


「うん、今のは完璧!その調子よ」


矢野先輩も満足げに微笑む。


そのやり取りを見ながら、僕は密かに思った。


咲乃、矢野先輩とは普通に素直じゃん……


僕の前ではいちいちツンツンしてるのに、この違いはなんなんだろうか。


……いや、考えるだけ無駄かもしれない。


「片桐くん、サボってないでちゃんとやる!」


天使先生の声が飛んできて、僕は慌てて弓を構え直した。


そうだ、今は咲乃のことよりも、自分の射をなんとかするのが先だった。


休憩を挟んでリフレッシュできたからだろうか。


厳しい指導は変わらなかったけれど、不思議とさっきほどのプレッシャーは感じなかった。


天使先生の教えと、咲乃の言葉。


どちらも僕にとって、今の僕に必要なものだったのかもしれない。


「片桐くん、いいわね!さっきよりずっと良くなってる!」


天使先生が嬉しそうに微笑んだ。


僕はふっと息を吐き、再び弓を構える。


「さて……もうひと踏ん張り、するか」


心の中でそう呟きながら、僕は再び弦を引いた。

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