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間踊6 彼女はきっと私の超えるべき壁

迎えた県大会当日。

私、平野佳奈は、ドクンドクンと胸の奥で暴れるように鳴る鼓動と共に目を覚ました。


昨夜はちゃんと布団に入って、日付が変わる前には眠ったはずなのに、体の奥はずっと小さく騒いでいたのだと思う。

興奮して眠れなかった——というほどではない。


むしろ眠れたほうだ。でも、目を開けた瞬間、自分が興奮しているのを自覚してしまった。


試合のある日はいつもこうだった。

アラームより先に心臓が私を起こす。

高鳴る鼓動が、今日こそやれと言わんばかりに身体中を叩き起こす。まるで“走れ”と命令されているみたいだ。


「……よし」


布団から跳ね起き、顔を洗い、髪を整え、制服ではなくジャージに袖を通す。

いつもより動作がほんの少し早い。緊張しているというより、身体が勝手に大会モードに入っている感じ。


階段を降りると、朝から漂ってくる食欲を刺激する匂いが私を襲ってくる。

食卓に並んだ皿を見て、思わず目を丸くした。


「なにこれ、豪華……!」


ご飯、お味噌汁、目玉焼き、納豆、ウインナー、唐揚げ、塩鮭。


——そして、異様な存在感を放つトンカツ。


「朝から重っ……!」


父と母の気合が明らかに皿に乗っている。2人ともプレッシャーをかけまいと何も言わないが験担ぎだとわかるし、ありがたさが胸に広がる。


私は別に大食いでもない普通の女の子だ。他の女の子が食べないだけだ。

普段は朝ごはんを残す日だってある…いやないか。


箸を持った瞬間、不思議とすっと食欲が湧いてきた。まるで体が欲してるみたいだ。


「……んまっ」


意外なほど軽快に胃袋へ収まっていき、気づけば皿は空に。

ご飯をおかわりした自分には少し驚いたけど、今日はそれくらいでちょうどいい気さえした。


準備を整え、エナメルバッグを肩にかける。

玄関のドアを開けると、朝の風がひやりと頬をかすめていった。


「行ってきます!」


声が自然と大きくなった。


電車に揺られること一時間。

途中、景色を眺めながら、今日の流れをぼんやりと頭の中で反復する。


今日は、みんなが応援に来てくれる。

陸上部、友達、そして……秋渡も。


奇跡的にそれぞれの予定が全部ズレて、応援できる時間帯がかぶらなかった。

こんな奇跡ある? 

ほんと、神様ありがとうございます。


負けられない。いや、それ以上に、カッコ悪いところだけは見せられない。


私は頬を軽くパシンと叩き、気合を入れ直した。


そして駅を出て、会場に向かって歩き始めた——その瞬間。

角を曲がったところで、思いきり誰かとぶつかった。


「わっ、ご、ごめんなさいっ!」


反射的に頭を下げた私よりも早く、地面に落ちたエナメルバッグやタオルを、すっと拾い上げる白い手が見えた。


顔を上げる。


そこには、私の知らない女の子が立っていた。


肌は透き通るように白く、光を受けてほつれるように揺れるショートボブ。

どこか冷たささえある落ち着いた雰囲気をまといながら、瞳は澄んだ水みたいにまっすぐだ。


まるで、森の奥から迷い込んできた妖精。


「いえ、こちらこそ。大丈夫?」


低く柔らかい声。丁寧で、それでいてどこか距離がある。


「だ、大丈夫だよ!ありがとう!」


私が慌てて受け取ると、彼女はふっと口元だけで微笑んだ。

正直、同い年なのかどうかも分からないくらい落ち着いて見える。


「今日、出場するの?」


「うん。あなたも?」


「うん。お互い……頑張りましょうね」


軽く手を振る仕草さえも、どこか静かで綺麗だった。


人混みへ消えていくショートボブの後ろ姿を見送りながら、胸の奥がふわっとなる。

学校にも、部活にも、あんな雰囲気の子はいない。


……なんか、すごい人に会っちゃった?


なんて思っていたら


「佳奈ー!こっちこっち!」


「おはよー!もう迷子になったのかと思った!」


陸上部の仲間たちが、遠くから手をぶんぶん振って駆け寄ってきた。


一気に現実に引き戻される。


みんなと軽く挨拶をかわし、開会式を終えた私はウォーミングアップへ向かった。私の予選まではまだ少し時間がある。


会場は人の熱気でむんむんしていて、すでに始まっている種目からは歓声が響きわたっていた。


「今日、めちゃくちゃ盛り上がってるね……」


ストレッチをしながら耳を傾けていると、ひときわ大きな歓声が上がる。

割れるような拍手。誰かの名前を呼ぶ声。

まるでアイドルかスター選手に送るみたいな熱狂。


気になって視線を向けると——そこで走っていたのは


「……あっ」


さっきぶつかったショートボブの女の子だった。


彼女は淡々と、感情を見せないまま、静かに礼をしただけ。

でも周囲は完全に“ヒロイン扱い”。

誰かが「ゆきちゃん!大会新記録だって!」と叫んでいて、観客席は沸騰寸前。


「……すご……」


私は思わず呟き、胸がきゅっと縮まった。

速い。というレベルじゃない。

あれは次元が違う。本物の天才の走り。


そして、私と同じ400m短距離、さらに400mハードルに出場していた。

私とは別ブロックの予選で、当然のように、すんなりと突破している。


胸の奥が、熱くなる。

あんな子を見たら……どうしたって刺激されてしまう。


「よし……」


予選時間が近づき、私は深呼吸をしてコール位置へ向かった。

スタンドを見上げると、陸上部の仲間、友達。

そして、秋渡が大きく手を振っていた。


本当に……最高の応援だ。

それに私の好きな人が応援してくれる。


負ける理由なんて、ひとつもない。


スタートラインへ立つ。

指先がじんじんと熱を帯び、胸の鼓動は今にも破裂しそうだ。


「位置について——」


一瞬だけ、彼女の姿が頭をよぎる。


——ありがとう。

あなたのおかげで、もっと走りたくなった。


「——よーい」


世界の音がすっと消えた。


「——ドン!」


私は走った。

全部、置き去りにする勢いで。

ただ前へ、ただ勝負へ。

自分の全力を、私の走りの中に叩きつけるように。


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