第97踊 二人三脚~瞬間、心、重ねて~
応援合戦が終わったあとの、あの咲乃の「……あきくん」って声が、まだ頭のどこかでリフレインしていた。
でも今は切り替えないと。午後の競技、次に僕が出るのは二人三脚だ。
しかも俺のパートナーは千穂。練習のときからずっと一緒に走ってきた。正直、運動神経バツグンな千穂と組めて心強かった。
「秋渡~、準備できた?」
千穂が駆け寄ってくる。学校指定の体操服に、頭に巻いた紫のハチマキが風に揺れている。千穂はいつも明るくて、でもたまに何かを隠すみたいに笑う。
「おう、ばっちり。いけるか?」
「うん…もちろん……!」
ちょっと間が空いての返事。千穂らしくない。
なんかあった?
そう聞きかけたけど、競技の整列が始まってしまった。入場し、二人でスタートラインへ向かいながら、僕たちは肩を組み、足を紐でしっかり結ぶ。
「ほら、ちゃんと手回して。肩組んで!」
「えっ、あ、うん」
少し照れながらも、僕は千穂の肩にしっかりと腕を回す。なんだか練習してた時よりも距離が近い。お互いの息がかかるくらいに。少し汗ばんだ火照った体が余計に意識させられる。
そして、静寂のなか、スターターが手をあげる。
スターターピストルの号砲と同時に走り出す。左足から、右足。息を合わせて。リズムは練習の通りのはずなんだけど……
「千穂?」
「ごめん、なんかタイミング合わなくて……」
明らかにスピードが出ない。走りにキレがない。練習のときはもっと息ぴったりだったのに。少しずつ確実にお互いのタイミングがズレていくのを感じた。
周りのペアが次々と先行していく。このままではまずい。
「大丈夫、落ち着いてこう、な?」
「……うん」
ほんのわずかにうつむいた千穂の横顔が、なんだか不安げだった。
そして……事件は、次の瞬間起きた。
俺たちの結んだ足が、バランスを崩した。
「あっ――!」
千穂がよろける。咄嗟に俺は彼女の脇の下から手を入れて抱き避けるように引き寄せた。
ぐっと抱き寄せるように支えた瞬間、なにか柔らかなものに触れた。
「あっ……!!」
「え、ごめ、痛かった!?」
「んっ…ううん!だ、大丈夫っ……!」
すぐ体勢を立て直して僕たちは再び走り出す準備をした。なぜか千穂の顔は真っ赤だった。
先行してる生徒との差がこれ以上開くと挽回は難しいかもしれない。
「千穂と僕はベストパートナーだと思う」
「えっ…えっ…ど、どどどうしたの!?」
珍しく千穂が顔を赤くして慌てている。
なぜそんなに慌てているのか気になるところだが……
でも今はあの時の練習の感覚を取り戻すことが最優先だ。
「僕を信じて、僕について来てくれるかい?」
今からならまだ間に合う。
僕の一言に千穂はふにゃりと笑った。
その笑顔は先程までの不安は微塵もなく、スッキリとしていた。
「合わせるよ、秋渡のペースに。ちゃんと……私をリードしてね」
その一言を聞いた瞬間、僕の中で何かが切り替わった。
そうだ、目の前にいるのは、信頼して走ってきた千穂だ。迷ってる暇はない。僕たちは、もう「ひとつ」なんだ。
「いくぞ、千穂!」
「うん!」
そこからは早かった。足が自然に動き始める。千穂が僕に完璧に合わせてくれてるのがわかる。
ペースが乗ってきた。周囲の声が遠のいて、僕たちの足音だけが響く。
先行していたチームをグングンと抜いて行った。
ゴールまで残り10メートル、5メートル――
「せーのっ!」
「っはあああああっ!!」
気がつけば、目の前が開けていた。
ゴール。
僕と千穂が同時にテープを切る。
「やった……!」
「……っ、ほんとに、一位……!?」
その瞬間、息が切れてるのに、胸の奥がじんわりと熱くなった。肩に感じる千穂の体温。見上げた顔には、汗と、涙と、笑顔が混じってた。
「……千穂」
「な、なによ……?」
「ありがとな。千穂がいたから、最後まで走れた」
「……バカ」
そう言って千穂は、俺の肩にもたれかかってきた。鼓動が速いのは、走ったせいだけじゃない気がした。
でも、まあ僕には、まだそれがなんなのか、わからなかった。
――――
咲乃ちゃんと秋渡が「幼なじみ」だった。
それを知ったとき、私の心に小さな棘が刺さった。
「あきくん」って呼び方、あんなに自然にできるなんて。しかも秋渡も、まんざらじゃなさそうで。
2人にしかない空気感がそこにあった。
私には何も無いのに。
そんなことを引きずったまま迎えた、二人三脚。
(ちゃんと走らなきゃ、秋渡の足引っ張るわけにいかないのに)
でも、心が追いつかなくて。足がちぐはぐになって、リズムを崩す。
(私じゃ、やっぱりダメなのかな……)
焦りと、悔しさと、どうしようもない劣等感が押し寄せてきた。そんなときだった。
「大丈夫、落ち着いてこう、な?」
秋渡の声が、ふっと私の心を掬ってくれた。
そして、転びかけた瞬間。秋渡が私をぐっと引き寄せてくれた。強く、優しく。
その手が、偶然にも私の胸に触れた。
「っ……!」
びっくりして顔が真っ赤になったけど、秋渡は気づいていない。
もう、ほんとに鈍感……!
女の子の胸に触っておいて無反応ってどういうことなの!
だけど、不思議と嫌じゃなかった。むしろ、心臓が跳ね上がってどうしようもなかった。
でもその後の彼はもっとずるかった。
「千穂と僕はベストパートナーだと思う」
え?いきなり告白!?……じゃないことは分かってるけどそれでも嬉しかった。
彼は私を信じてくれてる、それだけで私は頑張れた。
「合わせるよ、秋渡のペースに。ちゃんと……私をリードしてね」
そう言えたのは、秋渡だからだった。
私は彼の歩幅に自分を合わせた。気づけば、ふたりの呼吸も、リズムも、完全にひとつになっていた。
ゴールテープが見えた瞬間、秋渡と一緒に最後の力を振り絞った。
「せーのっ!」
「っはあああああっ!!」
結果は一位。
信じられないほど嬉しくて、でもそれ以上に、胸がいっぱいだった。
秋渡が私に「ありがとな」って言ってくれて、私はただ、もたれかかるしかできなかった。
私だって見られたくない顔もあるんだから。
(やっぱり、私……この人が好きなんだ)
改めてそう思った。
走るよりずっと速く、私の心が秋渡に向かって駆け抜けていた。
――――
競技を終えて退場口に戻った。
体育祭の歓声が遠くなっていくなか、俺と千穂はグラウンドの隅、テントの陰に腰を下ろした。
「……ふぅ、勝ったな」
「うん……勝ったね」
千穂が微笑んで、ペットボトルの水を差し出してくる。俺は受け取って、ちびちびと喉を潤した。
「練習より、ずっと速かった気がする」
「うん。私も、なんでか足が勝手に動いたっていうか……秋渡に合わせてたら、気づいたら全然苦しくなくて」
「へぇ、すげぇな。それって、なんか――」
「うん?」
「いや……なんか、チームワークってやつ? 完璧だったね、僕たち」
「ふふ、そうだね。完璧。……まるで、ひとつになったみたいだった」
千穂のその言葉に、ちょっとだけドキリとする。
そう言えば、走ってる間…あんなに近かったのは僕にとって初めてだったかもしれない。
肩と肩がぶつかる音。呼吸を合わせるリズム。ゴール直前、転びそうになった千穂を思いきり引き寄せた瞬間……
あのとき、手のひらに伝わった柔らかな感触を思い出しかけて、僕は慌てて頭を振った。
(……って、何考えてんだ僕は)
「ねえ、秋渡」
千穂の声が少しだけ真剣になって、僕は思わず顔を向ける。
彼女は、さっきまでの笑顔とはちょっと違って、どこか寂しそうな目をしていた。
「私じゃ、ダメなのかなって、ちょっと思ったんだよ」
「……なにが?」
「さっきの、二人三脚。最初、ちょっとつまずいたじゃない? あのとき、私が足を引っ張ってるって思って、すごく焦った」
「……」
「それで思ったの。やっぱり、私はみんなのようにはなれないのかなって」
まっすぐに俺を見る目が、ほんの少し潤んでいた。
「……バカ」
気づいたらそう言ってた。
「なんでそんなこと思うんだよ。お前がいなかったら、絶対あんな走りできなかったって」
「秋渡……」
「僕が引っ張ってたんじゃない。千穂が、ちゃんとついてきてくれたから……だから勝てたんだ。千穂とだったから勝てた。僕そう思ってる」
そう言いながら、僕は千穂の頭をぽんと軽く撫でた。
その瞬間――
「っ……!」
千穂はわずかに肩を震わせて、顔を真っ赤にした。
「お、おい、なに泣いて――」
「泣いてないっ!」
「う、嘘つけ! 顔真っ赤だし!」
「うるさいなぁ……!」
千穂はぷいっとそっぽを向く。でも、その横顔はどこか幸せそうで、俺はなぜかホッとした。
なんでだろう。
胸の奥が、少しだけ、温かくなる。
「……あのさ」
「ん?」
「来年も、二人三脚、千穂と走ろうかなって」
「……っ、なにそれ」
「今度は最初から最後まで、完璧な走りしようぜ。僕たち、最強ペアなんだから」
千穂は何も言わず、ただ小さく笑ってうなずいた。
その笑顔は誰よりも輝いていた。




