第95踊 さっちゃんとあきくん
午前の競技がすべて終わり、アナウンスが昼休みの訪れを告げる。
生徒たちは我先にと、日陰やテントの下、家族の元へと散っていく。
僕もその流れに乗って応援席を抜け出し、観客席の方へ向かった。
体育祭のお昼は、家族と一緒に食べるのが恒例行事なのだ。もちろん教室で友達と食べてもいい。
どこを見ても、レジャーシートの上に腰を下ろした親子が楽しそうに笑い合っていた。
「秋渡ー! こっちこっちー!」
人混みの中から母さんの声が聞こえた。
ひらひらと手を振る母さんの隣には、どこか見覚えのある女性がひとり。
その柔らかな笑顔が、記憶の奥に埋もれていた何かをくすぐってくる。
「久しぶりやね~あきくん! 男前に育って~」
えっと……誰だっけ。
この懐かしい雰囲気、知っているような、でも思い出せない。
すかさず母さんがフォローを入れてくれる。
「ほら、昔よく遊んでた……さっちゃんのお母さんよ。私もまさかこんなところで会うなんてびっくりしたよ~。さっちゃんも可愛くなったね~」
母さんの言葉に、脳の奥の記憶が一気に蘇る。
小さな頃近所に住んでいた女の子。
毎朝「おはよー」って言って、一緒にお絵かきしたり、虫捕りしたり、時には喧嘩もした。
でも、僕が引っ越してから自然と会わなくなって……。
さっちゃん。
そんな彼女の名前が、母さんの口からさらりと出てきたことに驚きつつも、もう一つの事実が引っかかる。
……さっちゃんも“可愛くなった”ね?
えっ? ええっ!? まさか、同じ学校にいるって……コト!?
「ん?つまり可愛くなったってことは……」
考えが追いつかないまま、さっちゃんのお母さんがぱっと顔を上げて手を振った。
「あ、噂をすれば! 咲乃~! こっちよ~!」
咲乃……その名前に反応するなってほうが無理だった。いや、今や聞き慣れすぎている名前。
毎日顔を合わせて、同じクラスで、同じ部活で、同じ委員会で。
そして今日も借り物競争で……
「ちょっと、お母さん! 大きな声出さないでよ恥ずかしい……って、うぇ!? 秋渡!?」
人混みをかき分けて現れたのは、間違いなく高塚咲乃だった。物静かでマイペース(というか横柄)で、どこか影のある彼女。その彼女が、まさか。
「えーと……久しぶり。さっちゃん」
口にしてみると、言葉が思いのほかすらりと自然に出た。
「っ……あきくん……思い出したんだ」
咲乃は頬を染めて目を伏せながら、でもうれしそうに笑った。その仕草は、記憶の中の“さっちゃん”と重なって見える。
小さくて、泣き虫で、でも誰よりも負けず嫌いだった、あの頃の面影。
でも、今はもう、こんなに綺麗に、可愛くなっている。
「秋渡、あんたさっちゃんのこと気づいてなかったの!? あんなに仲良しだったのに信じられないわ~。咲乃ちゃん、こんな男ほっておいていいのよ~」
母さんがあきれたように言うと、咲乃のお母さんも笑いながら言葉を重ねた。
「ほんとほんと~。うちの咲乃、昔から秋くんのこと大好きだったのに、気づかれないなんてね~」
「ちょ、ちょっとお母さんっ……!」
咲乃が顔を真っ赤にして抗議する。
でも、僕の方がきっと真っ赤だった。
そんな空気の中、母さんが思い出したように言った。
「そうそう! さっきの借り物競争、すごかったよねぇ! 女の子に呼ばれまくりで、秋渡ったら、もうモテモテやったやん!」
「あれすごかったよね!咲乃もあんなに積極的にアタックしかけるなんて……恋する乙女は侮れないわね~」
「ちょっとお母さん!や、やめてってばっ!」
咲乃はからかわれて、顔を真っ赤にしてたじたじだった。でもそんなことで辞める母親などいない。
「ほんと、あきくんは女の子に引っ張りだこでモテモテやね~。咲乃も気をつけないと盗られちゃうよ?女の子たちみんな可愛くてびっくりだよ」
咲乃のお母さんの冗談に、咲乃が膝の上の箸を持ったまま、僕を見た。
「……あきくんは女たらしやから。女の敵だよお母さん」
「えぇ……」
冷静な口ぶりなのに、少しだけ睨まれるのが地味に効く。
母親たちは僕たち二人を見て楽しそうに会話を弾ませていた。
僕はご飯を頬張ってごまかすしかなかった。
「秋渡~、で、結局どの子が本命なん? お母さんにだけこっそり教えてよ~?」
母さんがニヤニヤしながら僕の顔を覗き込んでくる。
「え、いや、別に……そんなんじゃ……」
あたふたと否定しかけた時だった。
ふと、咲乃が真剣な顔で、じっとこちらを見ていた。
冗談の空気を一瞬で断ち切るような視線。
その目は、ふざけたものではなく、まるで僕の答えを……僕の心を、まっすぐに探っているかのようだった。
言葉が出てこなかった。
代わりに、心臓がドクンと跳ねる。
「……」
僕が何も言えないまま沈黙していると、咲乃はそっと視線を外して、お弁当の唐揚げをつついた。
その横顔に浮かぶかすかな笑みが、胸の奥に残る。
「そこはさっちゃんっていうとこでしょ~!ごめんねウチのは草食系だから~」
母さんは僕をバシバシ叩きながら笑う。
そんな僕たち親子を見て咲乃もクスクスと笑っていた。
そのあとは、母たちの笑い声が場を和ませてくれた。
「昔はよく、おかず交換したよな。僕がピーマン残すから、さっちゃんが代わりに食べてって」
「うん。その代わり、私は卵焼きをもらってた。私、今も卵焼き好きだよ。……あの味、ちょっと懐かしい」
咲乃と僕の間に、あの頃の時間が、そっとよみがえる。
風に乗って、唐揚げの香ばしい匂いが流れてきた。母さんたちの冗談交じりの会話。咲乃の笑顔と、少しだけ真剣な眼差し。
それは、ただの昼休みとは思えない。
少しだけ、特別な時間だった。




