第88踊 体育祭の始まり
前日の仮装行列の熱気は、まるで消え残った打ち上げ花火の残光のように、まだこの空間を漂っていた。
教室の空気が、朝からほんのり甘くざわついている。
陽キャたちは早くもテンション全開、後ろの席でやかましいほどに叫び合っていた。
だけど驚くのは、普段はクールぶってるあのメガネの彼も、無口キャラも、今日は妙に落ち着かない様子で身じろぎしていることだ。
今日は藤樹祭、2日目。
待ちに待った体育祭の日だ。
夏休みの後半から始まった練習も今日で一区切り。グラウンドに打ち込んだ汗と泥の記憶が、まさに今、ひとつの物語として結晶になる――そんな気がした。
「おはようございます、みんな!」
教室に入ってきた天使先生の声が、いつもより少しだけ高く、軽やかに響いた。
その手には、鮮やかな紫のハチマキの束。
そう、僕たち藤朋チームのカラーは紫だ。
「今日はみんなで楽しみましょう! もちろん、勝ちましょう! チームも、リレーも!」
先生の檄に、教室内から「おーっ!」という叫びが自然に上がる。
僕も紫のハチマキを額に巻きながら、胸の奥がきゅっと引き締まるのを感じた。
ひとつ、深呼吸。
勝負の空気が、確かに始まっている。
ホームルームが終わり、いよいよグラウンドへ。
道中、見覚えのある二人とばったり出くわした。
「おはよう!いづみ、佳奈!」
昨日は華やかなドレスで姫になっていた彼女たちは、今日は肱龍チームの青いハチマキをキリッと巻いている。
いつものように堂々と、でもどこか今日は戦う者の顔だった。
「おはよー! ついに当日だね」
「藤朋、気合い入ってるって聞いたけど、こっちも負けないからね。リレー、楽しみにしてて!」
いたずらっぽく笑う佳奈に、僕も笑い返す。
「こっちこそ。全力で勝ちにいくよ」
「お互い、全力でね。勝負もだけど、思い出にもなるわ」
いつの間にか隣にいた咲乃がそう言って手を差し出し、いづみと軽く拳を合わせた。
その様子があまりに自然で、僕もつられて拳を突き出す。
僕の拳と佳奈の拳が、軽く音を立ててぶつかった。
「じゃ、また後でね。いい勝負しよ!」
二人と別れ、再びグラウンドへと向かう。
道すがら、地域の人たちや保護者がすでに集まっていた。
ブルーシートを敷いてある場所には、保護者や場所取りをしてる人でいっぱいだ。
それぞれの思いがこの日に向かって集まってきている。
「……あっ」
グラウンドにつき、整列した頃、僕は辺りを軽くみわたした。
ふと視線がある人物を捉えた。というより向こうも見ていたのか目が合った。
目に入ったのは、赤いハチマキを巻いて、こっちに全力で手を振っている麻里子の姿だった。
聖炎チーム、彼女たちのカラーは赤色だ。
「おーいっ! 目が合ったよねーっ! おーいっ!」
朝から全開のハイテンション。
僕が目を合わせた瞬間、麻里子はまるでロケットのようにダッシュでこっちへ向かって――
「こら、麻里ちゃん!」
――こようとした瞬間、背後から藤岡さんの手がにゅっと伸びて、首元の体操服をつかみ、ぐいっと元の場所に引き戻した。
「えー! 今、いいタイミングだったのにーっ」
「もうすぐ開会式はじまるからはしゃがないの。聖炎チームから出ません」
「ちぇー……」
赤いハチマキを揺らしながら麻里子がふてくされていると、藤岡さんがその肩をぱしっと叩いていた。まるで母親のような仕草に、僕はつい笑ってしまった。
さすが自称保護者だ。
「でも、あのコンビって実は聖炎の切り込み隊長なのかも」
咲乃がそうつぶやき、静かに頷いた。
僕たち藤朋にとって、あの二人は油断ならないライバルになる気がするのだ。
ふと空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっていた。
風も穏やかで、完璧な体育祭日和だった。
そして、アナウンスが響く。
『それでは、ただいまより藤樹高校体育祭を開催いたします。選手入場、みなさん拍手でお迎えください』
パァン!
スターターピストルが空を裂いた音に、心臓が跳ねる。
僕たち藤朋チームも、かけ声に合わせて行進を始めた。
「右、左、右、左!」
得点対象にもなっている入場行進。笑いながら練習していた日々が嘘みたいに、列はピシッと揃い、紫のハチマキが一斉に風を受けてはためいた。
グラウンドを一周し、所定の場所に整列。白線の上に立った瞬間、周囲の喧騒がすっと引いていく。
壇上には校長先生。
いつもの穏やかな語り口だったが、その目だけは真剣だった。
「本日は、藤樹祭・体育祭にようこそお越しくださいました。選手のみなさんの健闘を期待しております」
その後、選手宣誓。
壇上に立ったのは三年の先輩だった。
「宣誓! 僕たち、私たちは、正々堂々、全力で競技に取り組むことを誓います!」
その声に、グラウンド全体が拍手で応える。
続いて、ラジオ体操のアナウンスが英語で流れてきた。
「Radio Exercise, Number One, let’s go!」
「やっぱ英語なれないな……」
「一応、進学校ってこと、アピールしときたいんでしょ」
咲乃の冷静なツッコミに笑いながら、僕たちは体を動かす。
掛け声に合わせて、腕を伸ばし、足を上げる。
体操が終わると再び整列し、チームごとに行進してグラウンドを一時退場。
その間にも、空はさらに高く、太陽はじりじりと輝きを増していく。
ついに、始まったんだ。
その言葉が、僕の胸の中に自然と落ちてきた。
「ちゃんと燃え尽きようね」
隣の咲乃がぽつりとつぶやく。
「全力でいこうぜ」
僕は拳をぐっと握りしめ、紫のハチマキをきゅっと締め直す。
紫の布の下、額にはうっすらと汗のにじみがあった。
僕たちの夏の終わり。
今、その幕が、静かに上がった。




