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ふたりのココア

 雨はますます強く降りつける。

 夜はどんどんと更けていく。

 今日は一日、まるで夢の中にいるようだった。


「……亜美さん。もう一回……さっきの。もう一度、言ってください」

 亜美の腕を引っ張ったまま、悟郎は彼女の部屋に入り込む。

 真っ青な顔の亜美を部屋に押し込むと、悟郎は深呼吸を一度して扉に鍵をかけた。

 かちり。と乾いた音が響く。

 思えば鍵を掛けるなど、この島では経験のないことだ。盗られるものなどなにもないこの島で、鍵を掛ける人間はいない。

 久しぶりに聞くそれは、まるで束縛の音だった。

「悟郎さん、もう……違うの、あの」

 亜美は寒いのか、怯えているのか、薄い唇を震わせて言葉があやふやだ。

 顔は青く、赤く。心音を抑えるように、彼女はその場で胸を押さえたままうずくまる。

「違うの」

「なにが?」

 悟郎は一歩、彼女に近づいてその腕を握る。ぬるく、温かい温度が水越しに伝わった。

 外はひどい雨だ。ぬるい湿度は皮膚を通り越して体の中にまで染み渡っているようだ。

 あれほど明るく眩しくみえた亜美は、濡れそぼって悟郎の前で震えている。近づくと顔をそむける。うずくまったまま、動かない。

 それは、明らかな拒絶である。

「違うの、悟郎さん」

 いつもの悟郎なら。数ヶ月前の悟郎なら……こんな亜美の姿を見れば戸惑い踏み出せなかっただろう。しかし今は違う。 

 先程、雨の中で聞いた亜美の言葉が何度も頭の中に響き渡っているのだ。


『だめなんです……どうしても、悟郎さんが好きなんです』

 悟郎の中で彼女の声が蘇り、その衝撃が胸を打つ。


 彼女は言った。

 悟郎のことが好きだと。

 どうしようもなく、好きだと。

 

 悟郎は亜美の前に座り、その肩を掴んだ。

「何がいけないんですか。僕はあなたが好きで、あなたも僕のことが好きなら」

「落ち着こう。悟郎さん、きっと聞き間違いを」

「何も問題なんてないじゃないですか。問題なんて解決してみせます。だから、その問題を言ってください」

「だから、聞き間違いだって」

 ようやく顔を上げた亜美は、いつもの軽快な笑顔をみせた。それは作り笑いだ。それくらい、悟郎にもわかる。

「雨の音かなあ。うるさかったから」

 彼女は悟郎をなだめるように肩を叩くと、キッチンに立つ。 

 わざとらしいくらいの明るい演技で彼女は悟郎を振り返った。

「そうだ、悟朗さん。さっき淹れてくれたコーヒー冷めちゃったよね。冷えたからココアを作るよ。あったかいの飲めばきっと」

「ごまかさないで亜美さん」

 鍋を握った亜美を、悟郎は後ろから抱きしめる。

「ココアなら僕が作ります」

 亜美を腕の中に抱きしめたまま、悟郎は鍋にココアの粉を少し、牛乳を少し落とし込む。

 コンロの火をつけると、二人の手元が明るく染まった。

 鍋の中の液体は、すぐさまふつふつと泡を立てる。

 蛍光灯に照らされているのは、黒くてどろりとした液体だ。

 それは、悟郎の今の気持ちによく似ている。

「作り……にくいでしょう。私、離れてるから」

「だって、離したらまた逃げられるから」

 その後は無言のまま、ココアを練り、牛乳で伸ばしていく。砂糖を加え、ゆっくりよく混ぜた。

 手元から温かく甘い湯気が湧き上がり、二人の顔を濡らす。

 それは雨のぬるさとは異なる、幸せなぬるさだった。

 胸元に感じる亜美の背中の温度は高い。布越しに、体温と鼓動が伝わってくるようだ。

 亜美の頭がうつむきがちになり、濡れた髪がわかれて首筋がみえる。

 そこに汗なのか、雨なのか、透明な滴が一筋流れる。

 首筋は、恐ろしいほど赤く染まっていた。

「……電気が」

 亜美が身じろぎし、顔を上げる。

 ふと、台所の電気が二度ほど点滅するとふいに落ちたのだ。

 最近、電力も不安定で、深夜になるとよく落ちる。もしくは雨のせいかもしれない。しかし、悟郎は気にもとめない。

 手元のコンロから漏れる小さな明かりだけが、亜美の顔を照らしている。

「ブレーカーみてくるから」

「停電ですよ」

 逃げようともがく亜美を、それでも悟郎は離さない。

「亜美さん、実は……僕もずるをしてました」

 コンロの火を止め、カップにココアを2つ、そそぐ。

 そのうちひとつを亜美に握らせると、彼女はおとなしく受け取った。

 動揺を隠すように、亜美がココアを飲む。どろりとした液体が、亜美の口からゆっくりと体内に流れていく。 

 そんな些細な動きが、腕越しに伝わってくる。

「……本当のことをいいます。僕は」

 深夜は静かだ。これほど近づかなくても、声は聞こえる。しかし、悟郎は貪欲に亜美に近づく。その細い体を抱きしめ、耳元に唇を押し付けて。

「僕は1年と少し前から記憶がない」

 一言、呟いた、

「もしかすると、犯罪者かも」

 亜美はぴくりとも動かない。怯えているのか、驚いているのかも分からなかった。

「でも、ちゃんと……過去を調べます。実は過去のことなんて、わからなくていいって思ってたけど……亜美さんに対して堂々としていたいから、調べます。やり方はわからないけど、多分東京に戻れば……」

「そんな……こと」

「ちゃんとします、全部ちゃんとして、もう一度告白します、だから待ってて」

 その髪に触れるか触れないか程度、唇を近づける。亜美の香りが、雨の匂いに混じって鼻に触れる。

「記憶なんて……なくても」

 亜美はココアを机に置いて、何かに耐えるように震える。

「無理しないで、悟郎さん」

 電気の落ちた部屋は暗いが、彼女が泣いていることは分かった。

 彼女を後ろから抱きしめたまま、悟郎は入れたばかりのココアを口に含む。

 落ち着いているつもりでも焦っていたのだろう。口に流し込んだココアは、どろりと苦かった。

 緊張のせいで、乾いた唇も苦く染まる。

「ごろ……さん」

「泣いていいですよ」

 ようやく彼女が自分をさらけ出したようで、悟郎は嬉しくなる。声などなくとも、なぜか亜美の言いたい言葉はわかるのだ。

「僕も、泣き虫だって言われたことが……」

 悟郎は記憶の底から、そんな記憶を思い出す。

 いつ、どこで、誰に言われた記憶かは思い出せないが。

(……確かに僕にも過去があって、過去に生きてたんだ)

 悟郎は喉の奥に、無理やりココアを流し込む。

 喉の奥が苦いのか、ココアが苦いのか、もう分からない。

(誰かに何かを言われたり……こんなふうに、誰かと一緒に過ごしたり……)

 亜美に執着するのは、自分に過去が無いせいではないのか。そんな悪魔じみた言葉が聞こえた気がする。

(違う。そうじゃない)

 なぜ亜美にここまで惹かれるのか、悟郎はわからない。

 ただ、出会った瞬間から、悟郎は亜美に恋をしていた。

「……亜美さん」

 亜美は無意識なのか、左手の薬指についた指輪に触れている。

 それは亜美の癖のようなものだ。緊張している時、悲しい時、彼女は必ず指輪を触る。

 そのたびに、悟郎は彼女の過去に思いを馳せる。

「僕、その指輪が外れるまで、気長にがんばります」

「これは」

 亜美は指摘されて初めて気づいたように、指輪から手を離した。

「無理……かな」

 停電の部屋に、雨の音だけが響き渡る。

 外の雨はまた一段と強くなり、時折窓に叩きつける雨が滝のように流れるのだ。

「冷えますね。亜美さん、待ってて。布団をもってきます」

 亜美はすっかりおとなしい。

 安心してその体から離れると、急に寒さが悟朗を襲った。

(早く、なにか暖かいものを)

 悟朗は大急ぎでキッチンから亜美の部屋に入り込む。 

 亜美を逃すまいと必死だったが、彼女は今、熱を出していたのだ。

(布団とか……)

 冷える台所から部屋に入ると、そこは深夜独特のどろりとした空気に包まれていた。

 雨降りの、音もない、重苦しい、その空気の中にピアノだけが鎮座している。


「亜美さん、この、写真の……消えた人に遠慮をしてるんですか?」


 悟郎は勝手にピアノの上の写真立てをみた。

 前はすぐさま隠された写真だ。一瞬で隠されたので、よく見ることはできなかった。

(亜美さん……見てないな)

 悟郎はそっと背後を探り、音をたてないように写真を持ち上げる。

 結婚式の写真と思われるその一枚は、半分がちぎられ亜美の姿だけがくっきりと浮かび上がっている。

 無理やり手でちぎったのか、破れた跡は無残な状態だ。

 その無残な状態に反して、残った半分に写っているのは幸せそうな亜美である。

 真っ白なドレス、背景に映る爽やかな夏の大木。誰かに肩を抱かれ、はにかむ笑み。これ以上ない幸せの雰囲気。

 亜美の肩には、新郎らしい男の腕だけが写っている。

(なんだろう……腕に跡が)

 じっと見て、悟郎は目を細める。

(傷?)

 薄闇のせいで見間違えたかと思ったが、そんなことはない。

 亜美の左肩を抱きしめる、がっしりとした左腕。

 少しだけめくれた、白いジャケットの隙間から、傷跡がみえるのだ。

 悟朗はその写真を、そっとなでた。

 写真に温度などないはずだが、なぜかそれは暖かく感じられた。

(僕と同じような……)

 それは、雷で打たれたような深い……隠しようのない傷だ。自分の傷跡を見るが、薄闇のせいか、その跡はよく見えなかった。

(……なんで)

 偶然というには、あまりにもできすぎている。

 それを見た瞬間、心臓が、激しく音をたてた。

 額から汗が溢れ、顎から伝わる。それが指先に散る。慌てて服の裾で拭うと、肘があたってピアノの上から書類の束が崩れ落ちる。

 慌てて拾い上げると、その中に事務的な封筒があった。

 動揺のままに拾い上げたが、その視線が、宛先名に目が奪われる。


「……悟郎さん?」


 亜美が恐る恐る、顔をのぞかせた。しかし、悟郎は身じろぎもできないのだ。


「亜美さん……なんで」


 亜美宛の封筒には『栗田亜美様』と書かれていた。

 それは、悟郎宛に届くものと同じ名前。

(……頭痛)

 ずきりと、頭の奥深くが痛んだ。

 記憶の膜は、頭の奥、灰色の分厚い壁に隔たれている。

 その中に入り込もうとすると、頭痛が激しくなる。これまでは痛みが激しくなる前に、引き返せたはずだ。

 しかし、今回の痛みはこれまでと異なる。まるで全身を貫かれたように、激痛が一瞬で体を突き抜けた。 

 無意識にポケットを探るが、そこに薬はなかった。

 目の前がちかちかと光る。痛みは数秒で激痛に変わり、立っていることも難しい。

 動悸と、痛みと、焦り。

 ……視界の隅に見えた亜美は、驚き目を丸めている。その姿が、どんどんと遠ざかっていく。

 悟郎の体が静かに倒れているのだ。

 全身から汗が溢れ、まるで雨を浴びたようである。そうだ、外は大雨だ。その雨が、室内にも降っているのか。

 立て直そうとするが、足にも腕にも力が入らない。

 ピアノの隅を掴むが、手からも汗がふきだして上手くつかめない。

 むき出しになった白い鍵盤に腕が当たると、無茶苦茶な音が鳴り響く。その激しい音が濡れた指から全身に流れ込み、また脳内を揺さぶる。

「悟郎さん!」

「あみ……さ」

 亜美の悲鳴も、まるでスローモーションのように耳に届く。

 膝が震え、腹の底がむず痒くなり、手の先も震えている。

 ……記憶の奥底にある灰色の壁に、確かになにかの楔が打ち込まれたのだ。

 壁にはかすかなヒビが入り、そこから水が漏れるように記憶が滲み出してくる。

 しかしそれは、色鮮やかであり、うるさく、舌に味が浮かぶ……つまり、五感すべてが動き出す。

 隠れていた過去が、悟郎を揺さぶっている。

「……僕……ぼくは……」

 奔流に巻き込まれるように、悟郎は呟く。しかし言葉は声にならなかった。

 心配しないでください。すぐ治ります。

 そう放ったはずの言葉は別の音となって、雨音の中に響く。


「亜美さん、好きです」


 遠くに亜美の悲鳴が響いた。転がりそうになり、とっさに掴んだ鍵盤が、また激しい音をたてる。

 まとまりのないピアノの音は、まるで何かが破裂するような音だ。

(僕の脳が……割れる……)

 続いて聞こえてきたのは、激しい雨の音と、亜美の駆けよる足音と。

 悟郎の意識は、灰色の記憶の奔流の中に沈み込んでいった。

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