闇夜に蕩けてバタートースト
雨が今にも降り出しそうな、そんな湿度の高い朝だった。
「最近クラシックチャンネルの調子が悪くて」
亜美の目前に置かれているのは、黄金色のバターが贅沢に使われたバタートースト。そして薄い焼きベーコン、目玉焼き。
トーストはバターが溺れるほどに塗られており、てかてか黄金色に輝いている。
指に絡みつくほどの柔らかいトーストを慎重に噛みしめて堪能したあと、亜美はようやく口を開いた。
「ラジオ?」
「ほら、前に言ったでしょ。島のどこかに局があるんじゃないかって……ずっと調子良かったのに、最近、調子悪くて……亜美さんが来てくれるときに限って、音が飛び始めるんだもんなあ」
「そうなんだ」
亜美は悟朗の言葉を聞き流し、手についたパンくずさえ惜しむように食べる。
柔らかいパン。じゅくじゅくになったバターの甘みとしょっぱさ。
これらすべてが、幸せの塊となって胃の中に沈んでいく。
満喫して、亜美は周囲をそっと見る。
(今日はお店いっぱいだから、ラジオ流さなくても寂しくないのに)
今朝の喫茶店は満員御礼だ。こう暑いと家にこもっているのも嫌になるのだろう。
静かにモーニングを食べる人、隣の人間と楽しく話をする人などで店内は煩雑な音に包まれている。
そこに、ラジオから流れる音のかけらが混じっていた。
(……カノン)
亜美は目を細めて音を拾う。
音は飛び飛びだが、独特なフレーズでどんな曲かすぐわかる。
ピアノの旋律で奏でられるその曲を、カノンといった。繰り返される優しい曲だ。
「悟郎さん、その局好きなんだね」
「ここの局、どのチャンネルよりも音が一番いいんです」
エプロン姿の悟郎はカウンターの定位置に立っている。
棚に置かれた古いラジオを揺らし、たたき、耳を済ませていた。
「ラジオの放送局は、公式だと一番近くで島の外でしょ。でもその音より、このクラシックチャンネルの曲が一番きれいなんですよね。きっと、このラジオを流している放送局が島の中にあると思うんだけど」
島の近くにある無人島には、無人の放送局が置かれていた。
国が運営する放送はそこから流れてくる。近いとはいえ海をまたぐため、嵐が来れば音が飛ぶ。嵐がひどいと繋がらないこともある。
しかしクラシックばかり流す不思議なこのチャンネルは、これまで一度も途切れたことがない。
DJによる会話も、政治的な主張もないそのチャンネルは、亜美がこの島に来た時から流れていた。
流されているのは、クラシック。その名の通り、古い古い音楽だ。
曲名の意味は失われ、作曲者の名前も忘れられたが、その音だけは大事に受け継がれて、世界が終わろうとするこの時代にまで鳴り響いている。
亜美の指は自然とカウンターを弾いていた。ピアノの音を聞くと、弾きたくなる。
東京の古い知人や制作会社に頼まれた曲の締切が、いくつか迫っているのだ。
(……仕事をしなきゃなあ)
軽やかなピアノの音を聞くうちに、そんなことを思い出す。
手元においた、配給チケットを眺めて亜美は苦笑した。
仕事などしなくても生きていけるこの時代。
宇宙移住という錯乱と混乱の時期を越えた頃から、人はまた働き始めた。
日常を紡ぐことで、時代の変化に体を馴染ませようとしているようだ。少なくとも、亜美はそうだった。
「……あ。また音が良くなった」
悟郎は満足そうにラジオを戻した。そんな彼の無邪気な姿を亜美は苦笑して眺める。
「このチャンネル好きだよね、悟郎さん」
「だって亜美さん、クラシック好きでしょう?」
さらりと言い放つ悟郎に、深い意図はないのだろう。
それでもその言葉に亜美は動揺し、その動揺は悟郎に伝わる。そして二人の動揺は店内の島民、全員に知られることとなる。
「じゃ……じゃあ、帰るね。ごちそうさま」
「あ、亜美さん」
皆が亜美と悟郎に無遠慮な視線を向けてきた。
その視線から逃げるように、亜美はカウンターに配給チケットの半券を置く。そして椅子から飛び降りた亜美を悟郎の声が止めた。
「使って悪いんですが、これ家に持って帰ってくれませんか」
カウンター越しに彼が渡してきたのは、悟郎がいつもつけている銀の時計だ。
東京ではつけていなかったので、こちらに来てから付けるようになったのだろう。
受け取ると、ずしりと重い。
「いつも洗い物の後、忘れて帰りそうになるんです」
持って帰っておいてください。と、さらりという悟郎に亜美は必死に表情をこらえる。
カウンターに座る人々がにやにやと、二人の顔を見つめるからだ。
「わかった」
つとめて真面目に言うと、亜美は急いで喫茶店の扉を肩で押す。
むっと顔を覆った湿度の高い空気が、亜美の心をかき乱した。
亜美の動揺は、きっとしばらく続いていたのだ。
ずん、と重い曇り空の下。肌に張り付く湿度の重さ。
亜美はそれを振り払うように黙々と歩き、周囲に注意を払うことも忘れていた。
こんな暑い日、日差しの高い間は島民はあまり外を出歩かない。
喫茶店からアパートに向かう道にもほとんど人影はなかった……いや、一人だけいた。
まっすぐな道の向こう側から、さりげない歩調で近づいてくる……それは見知らぬ男だ。
平均的で取り立てて目立つことのない顔、体つき。
しかし、彼は島民ではない。島の人間なら、亜美を見れば声をかけてくるからだ。
彼は亜美を見ることもなく、真横を通り過ぎる。いつもなら警戒するはずの影を、亜美はうっかり見過ごした。
動揺が続いていたせいである。
「あれ? 時計……」
数歩、進んだところで亜美は気がつく。先程まで握りしめていたはずの、銀の時計が手の中から消えている。
驚いて立ち止まれば、横を通り過ぎていった男がにこやかに振り返ったところだ。
「時計、落としましたよ」
「ありがとう……」
背の高い、優しげな男だ。彼が手にする時計に手を伸ばそうとした、その時。
「ございま……」
……亜美の意識は、ふいに途切れた。
亜美の意識を起こしたものは、頭の中で響く旋律だ。
……繰り返し繰り返し聞いていたそのカノンの旋律が、まるで呼び水になったように亜美の目を覚まさせる。
「……」
音は、実際には聞こえていない。頭の中に、まるで警鐘のように鳴り響いているのである。
(ここ……)
ぼんやりとする意識の中、亜美は息を吸い込み、目を見開く。
そして亜美の体は一瞬で、こわばった。
目の前が真っ暗なのだ。亜美はどこかの部屋の中に転がされているらしい。背に当たる地面は硬い。
アパートではない。喫茶店でもない。公民館でもない。
(どこ)
ぞっと背筋が震え、冷や汗が一気に吹き出した。
叫んで立ち上がりたいが、体を動かすことも恐ろしい。
(ここ……どこ?)
ここはどこなのか、まず思い浮かんだのはその二文字。
心臓が早鐘のように動き始める。喉が震え、手が瞬時に冷たくなった。
ゆっくりと、亜美は胸元に手をやる。
(指輪……)
指先に触れたのは、いつもの硬い感触。首から吊ったネックレストップ。そこにはいつものように、大きな指輪がある。そして、もちろん亜美の左手にも。
(よかった……)
安堵したことで、心に余裕が生まれたのだろう。あたりの音に耳を澄ませる……人の声も、音もしない。
幸い、子供の頃から耳だけはいいのだ。
それを確認し、亜美はゆっくりと起き上がる。
全身がぎしぎしと嫌な音をたてた。首の後がじんわりと痛むのは、そこを殴られたのだろう。手首もじりじりと痛む。
(手……いたい……)
暗いのでよく見えないが、誰かに強く掴まれたような、もしくは縛られていたような。そんな痛みだ。
そっと触ってみても折れてはいないらしい。それを確認し、亜美はほっと息を吐く。
(よし、動く)
異常な事態だと言うのに、亜美の気持ちは段々と落ち着いていった。
(落ち着いてる、大丈夫……大丈夫)
深呼吸を繰り返し、亜美はお腹の奥に力を込める。
何が起きたのか、亜美はまだはっきりと分かってはいない。
道で声をかけてきた男に気を取られてしまった。その隙に、背後から誰かに殴られたのだろう。あまりにもあっさりと、意識を失っていた。
ただ、それだけだ。指輪は手の中にあり、怪我もない。縛られてもいない。
指輪をきつく握りしめ、亜美は真っ暗な闇の中を凝視した。
(大丈夫、生きてる。怪我もない。指輪もあるし、まだたぶん……ここは島の中だし)
亜美はもう一度耳を澄ませる。動悸はうるさいが、その音の向こうに海の音が聞こえた。いつもアパートで聞くのと同じ、波の音だ。
その音を聞くだけで気持ちがどんどんと平坦になっていく。
(気を失って……時間もそんなに経ってない、はず。そんなにお腹が空いてないし、喉も……ちょっと乾いたけど、そこまでじゃない)
湿度が高く、ただ座っているだけでも汗がじんわりと滲み出す。体に張り付く服や髪が不快だった。
誰が亜美を襲ったのか、それは分からない。河合は確かに亜美に警告していた。しかし亜美をさらって何ができるというのか。
相手の意図がわからないことが一番恐ろしい。
しかし、少なくとも、
(さらわれたのが悟郎さんじゃなくて、よかった)
と思い、亜美は安堵した。
記憶のない悟朗がこのような目にあえば、どれほどの恐怖を感じることか。
少なくとも事情を多少なり知る亜美がさらわれるほうが、ましだった。
さらわれて何時間たったのか。悟郎の時計を見ようとして、亜美ははたと気がつく。
(時計が……なくなっちゃった)
悟郎の時計は、亜美の手から消え失せていた。
(最後、ちゃんと時計、手に持ったはずなのに……)
亜美は気をつけて立ち上がる……音を立てないように慎重に。数歩進むと、壁に手が触れた。そして亜美は、壁に沿って歩く。
それほど広い部屋ではない。誰も住んでいない家の車庫だろう。廃屋特有の香りがする。
海の音はまだ少し遠いので、島の中心から離れてはいないようだった。
(人の声も、生活音も聞こえない……人も多分、いない……)
亜美は音を立てないようにゆっくりと、歩く。
(海の音は遠いけど、アパートで聞くのと同じくらい……どこかから、ペンキの匂いがする……最近塗ったのは、夏祭りの準備で……なら、F地区かな。そこなら、あんまり喫茶店からも離れてない)
目を閉じ、音を聞き、匂いをかぐ。
当てずっぽうかもしれないが、黙々と考えていると、それだけで落ち着いた。
河合から不穏な噂を聞いてから、亜美なりに色々な想定を考えていたのだ。
もちろん、自分がさらわれることは想定外だったが、これで河合の言っていたことは本当であると確信できた。
(私なんかさらっても、なにもできないのに)
亜美は、悟郎のことを思い浮かべ、唇を噛みしめる。
恐怖がすぎれば、情けなさが募る。情けなさに心がざわめくが、それを押さえ込んで亜美は首を振った。
(でも、まず、ここから、逃げなきゃ。落ち込むもの、それからでいい)
少なくとも、自分の存在が悟朗の邪魔になってはならない。と亜美は強く思う。
先日から、悟朗の近くには不穏な男たちの影があった。
出し抜いてやったと、そう思っていたのは亜美だけだったようだ。
繰り返されるカノンの旋律は今も、頭の中に渦巻いている。
島に来る前。きっと、亜美はこの曲のような日々を想像していたのだ。
記憶のない悟郎、それを見守る亜美。毎朝のモーニング、昼が過ぎて夕刻がきて、夜が来れば眠る。また翌日になれば悟郎に会える。
……同じ旋律を紡ぐように、一生、その繰り返しで生きていけるのではないか。
そんな淡い期待を持っていた。しかし現実はそんなに甘くはない。
(外に……出よう)
扉を探してゆっくりと、音をたてないように。しかし、急いで。
(扉、鍵、ノブを回して、音を立てない……)
頭の中に、様々な音楽用語や記号が飛び交う。
いつもどおり。いつもどおりだ。ピアノを弾くように、ここから逃げ出せばいい。
(緩やかに……だんだん早く……でも急がない……)
焦る心も、音を思い出せば心が落ち着く。ピアノを奏でるように、亜美はそこを抜け出そうとした。
「……っ」
扉に手をかけた……その瞬間、ノブが勝手に動く。淡い光とともに誰かが部屋に足を踏み入れる。
思わず悲鳴が漏れかけた口を、何か大きなものが塞いだ。
「……黙って」
それは、恐ろしいほどに熱い手のひらだ。むっと、汗と湿度の香りがする。
抑え込まれ、硬直した亜美の前で扉が閉まり、また部屋は闇色に染まった。
「……警告しましたよね。あなたたちは狙われていると」
かすかな息切れとともに聞こえてきたのは、意外な声だ。
「な……んで、ここが」
眼の前に立っているのは、河合なのである。
いつもは崩れないその表情が、憎々しげに歪んでいる。走ってきたのか、ジャケットのボタンは外れ、ネクタイも緩んでいる。
彼は左腕に巻いている腕時計にふれると、周囲を見渡した。目的のものがそこにあったのか、一足でそこに向かうと彼はそれを拾い上げる。
そして、亜美の前で振ってみせた。
「時計、あなたが持っていたんですね」
それは、悟郎の時計なのである。
「まさか、この時計で、位置を?」
「当然です。あの人は家にいるのに、発信位置が異なるので何があったのかと……調べたらあなたはいないし……きっと、時計を持ったまま……さらわれたんだろうと」
言いかけた文句を止めて、河合は乱れた息で亜美を睨む。
「まったく」
そして安堵したのか、河合は亜美から目をそらし、一気に言葉をぶつけた。
「程度の弱い相手でよかったですね。さらう相手が男か女かも分かってなかったようで。時計の発信通知だけを頼りにさらったんでしょうね。あなたとあの人の、関係が漏れなくてよかった。変に人質にでもされたら面倒なことでしたから」
嫌われていることは自覚していたが、これほど明確に怒りをぶつけられたのは、はじめてのことだ。
亜美はじりじりと、後ずさる。
「外、誰もいないんですか?」
「もう誰もいないですよ。失敗がわかって逃げたんでしょう。追ってはいますが、もう見つかるはずもない」
河合は舌打ちでもしそうな顔で亜美を睨む。
「安心した顔をしないでください。ああいう手合は一つじゃない。あなたと、あの人の危険が去ったわけじゃない」
河合は腕時計を気だるそうに操作する。暗闇の中、ピカピカと、眩しい光だけが輝いていた。
それを呆然と見ている亜美に気づいたのだろう。河合は気まずそうに、目を細めた。
「で、怪我は?」
「……ない……です」
「そうですか、あとで医者を回します」
亜美の顔を睨むように眺め見て、河合は冷たく言い放った。
「いえ……大丈夫」
「回しますから」
河合の言い分からすると、亜美は勘違いでここに捨てられたこととなる。
ひりひり痛む首筋に、汗が一筋流れた。
初対面の人間を躊躇もなく殴りつけてくるような人物が、いまだに野放しになっていることが恐ろしい。
「いま、悟朗さんは」
「最高レベルの警備を行っているので、あなたが心配をする必要は何もありません」
河合は深い息を吸い、そして吐き出す。苛立ちを抑えるようなその声は、ため息に変わった。
「せめてあなたが島から去れば、私たちの仕事は半分減るんです」
「悟朗さんも……こんな人達に?」
「把握はしきれていませんが……これほど時間が経てば無茶をする人間が出てもおかしくはない」
時間。という言葉を河合は強調した。それは悟朗の事故から経過した時間だろう。
亜美は痛いほど拳を握り込み、胸を押さえる。
「……どこかの国ですか、企業ですか?」
「教える義務はありません」
河合は島で初めて顔を合わせたとき、亜美にいった。悟朗の記憶をねらうものがある、と。
悟朗は遙か宇宙の闇の中で、事故にあった。
事故についての詳細は、亜美も聞いてはいない。作業中に船を出て、嵐のようなものに巻き込まれたのだ……それだけを聞いた。
その嵐は希少な物質から作られている。それを浴び、巻き込まれた。
普通なら助からない。怪我と、記憶を失うだけで済んだのは、運と彼の才能だ。
彼はきっと、嵐の中で何かを見た。その情報をほしがる人間は多い……と、河合は語った。
「ただ言えることは、あれから三年も経ってしまった。皆、焦っている。それだけです」
河合は冷たく言う。しかし亜美にとってみれば、もう三年も経ったのか。という驚きのほうが大きかった。
事故の時、悟朗の記憶とともに亜美の心も一部死んだのだ。
「時計は……もう使えませんね。この発信信号が漏れたのはこちらの不手際でした」
河合は冷たい目線で時計を睨むと、床に落とし革靴のかかとで踏みつける。小さな音を立てて時計はあっけなく割れて壊れた。
それから河合は外の様子をうかがい、慎重にノブを回す。
「本当に……誰も……いませんね」
「妙な考えを起こす人間でなくて命拾いしましたね。失敗を悟って、あなたを捨ててすぐ逃げたんでしょう」
開いた扉の向こうは、薄闇に覆われていた。ねっとりとした夜の湿度が、ドアの隙間から漏れてくる。
何時間、意識を失っていたのだろう。きっと悟朗は心配しているだろう、そう思うと亜美の胸の奥がきゅっと痛くなる。
「あの……ありがとう、ございます」
「……」
「助けに……来てくれて」
河合は暑そうにネクタイを緩めると、亜美を手招く。
「別に。あなたを助けたかったわけじゃない」
彼のことは信用ならないが、今はあとをついていくしか道はない。亜美はおとなしく、彼のあとをついてゆっくり深呼吸をする。
海の香りが、かすかにした。
薄闇に覆われて周囲はよく見えないが、塗りたてのベンチが目に入って確信した。やはりここは、島の中央、少し外れ。島の人間からはF地区と呼ばれている場所である。
こんなにも近くで、亜美は怯えていたのだと思うと少しおかしかった。
「悟朗さんの記憶が戻れば本当に……行き詰まっていた計画がうまくいくんですか?」
「まさか」
「え?」
先を歩く河合が、ふと振り返る。
おぼろ月の月明かりに照らされた彼の顔は、どこか疲れている。亜美よりもずっと若いのだろうが、疲労の色が濃い。いつ眠っているのか、不意に亜美は彼のことが心配になった。
「こういう計画は遊びじゃないんです。最初のクリタプロジェクトで見つかった素材、あれは確かに偶然だった。しかしそこに時間と知識を注ぎ込んだからこそ、今の時代がある」
河合は珍しく饒舌だ。道を横切り、慎重に周囲を探って、亜美を手招く。
「彼の……栗田悟朗さんの記憶は確かに重要な意見にはなるでしょうが、まあそれだけです」
「じゃあ、なんで」
「行き詰まった空気は、奇跡を求めるんです」
誰も居ないように感じるが、河合は茂みの奥に少し頭を下げる。
覗いてみれば、そこに見覚えのあるジャケットを付けた男たちが数人、潜んでいた。
そのジャケットのマークは今でも記憶に深い。それは悟朗の勤めていた、宇宙開発機構のマークである。
そのマークを見ると、亜美はあの事故のことを思い出す。
偉大な父と同じ道に進みたいと、自ら祈願して宇宙に飛んだ悟朗。
父譲りの体力と長年に渡る訓練がもたらした知識力。確かに、彼ほどすばらしい宇宙飛行士は他にいない。
マスコミも、移住推進者も、皆がそろって悟朗をたたえた。
彼は奇跡の人の息子だ。彼なら、きっと、素晴らしい素材を持ち帰ってくれるに違いない。彼の血筋はまた奇跡を起こすに違いない。
しかし、亜美にとって、そんなことはどうでも良いことだ。
ただ、ただ、無事に彼が戻ってくればそれでいい。それこそ、亜美にとっての奇跡だ。
「奇跡……」
「神と言ってもいいかもしれない。一回で空気を変えるような、そんな奇跡です。それを起こすために、あなたをさらうことくらい、平気でする」
腕の跡が痛くなり、亜美はうつむく。
河合が亜美を責める理由はよく分かる。自分の存在が、悟朗を見守るという仕事の邪魔になっている、それも分かっている。
しかし、離れがたいのである。
「……だから、嫌だったんだ。あんたが島に来るのは」
河合は吐き捨てると、目の前の道を指す。
気がつけば、アパートまであと少し、というところだった。
「こういう事があった以上、上に報告します。あなたも早く決断してください。東京へ、戻ることを」
「私が……ここから去っても、悟朗さんの危険は、減らない……のに」
亜美は震える唇で、ようやく紡ぐ。体を包むのは自己嫌悪と妄執、そして何もできない自分への怒りだ。
悟郎と……宇宙飛行士と結婚を決めた時、周囲からは覚悟について聞かれた。
亜美の父も母も、すでに亡い。遠くに住む叔母も亜美を心配してくれた。
危険な商売だ。覚悟はできているのか。いざとなれば覚悟をしなくてはね。皆、口をそろえて眉を寄せてそう言った。
しかし当時の亜美に彼らの声は染み込んでは来なかった。揚々たる未来の明るさしか、感じられなかった。
覚悟とは、なにか。亜美にはわかっていなかったのだ。
中学生で思いに目覚めて、20を超えてかなった恋だ。
どんな事があっても、この人を守ろう、守れるはずだ。この思いさえあれば……そんな温い決意は、3年前に打ち砕かれた。
それ以降、亜美の行動はすべて裏目に出ている。
「……私がここにいたほうが、悟朗さんは危ないということですか」
亜美の声が涙ににじみ、そんな自分に怒りが湧いた。こんなときに、めそめそと泣く人間など、なりたくなかったのに。
「……まあ、そういうことです」
亜美の声を聞いた河合の声に、かすかに動揺が浮かぶ。
「あなたに危険なことがおきれば、あの人の心が揺れる。そうなると、パニックが起きるかもしれない……それでまた昏睡になるかもしれない。なにぶん、不安定なものなので……あの人のことは、私達が今以上に、守ります。それは誓います。少なくとも、あなたに割いていた警備を回せる……」
河合がふと、足を止めた。角を曲がればアパートが見える、そのタイミングだ。河合の顔がよそを向いた瞬間に、亜美は目の端の涙を拭った。
「……今夜は、こんなことがあったので……特別に警備を山のように用意してます」
「え」
河合は少しだけ言い淀む。そしてふと、口元を噛みしめるように言葉を紡ぐ。
先ほどよりもぶっきらぼうな、吐き捨てるような言葉である。
彼の横顔に、月明かりがしらじらと差し込んでいた。
今夜は、月のきれいな夜だった。
「別に……会ったり……散歩するくらいなら、止めません」
河合は早口に吐き捨てると、亜美の背を押す。
「……不安だったでしょうから」
角をそっと覗き込むと、アパートが見える。そこだけ、白白と光っているのですぐにわかる。その淡い光の中、見慣れた影が立っているのが見えた。
「ただし、日を超えるまでです。この島は案外広くて、警備をそこまでまわせないので……」
河合の声は、遠くに聞こえた。亜美の目は、すでにその影に釘付けとなっている。
……悟朗だ。彼は、待ち人を探すように、アパートの前でずっと辺りをうかがっている。
落ち着きのない動きだった。進みかけて戻り、アパートに戻り、また出てくる。まるで犬のような動きで、見ているだけで胸が詰まった。
(……悟朗さん)
亜美はその影に、一足とびに進む。
彼が地球に帰ってくる時、その時も今のように、亜美は悟朗のもとに駆けつけたものだった。
大勢の人の声が響いていても、どれだけ人がいても、悟朗は亜美が近づくだけですぐに気づいて応えてくれた。
何か特別な能力があるのではないか。そんなことを冗談めかして聞いたことがある。
悟朗も首を傾げていた。なぜかはわからないが、亜美が近くに来ると、わかるのだ……感じるのだ。
「……亜美さん!」
今もまた、記憶などなくても悟朗は亜美に気づいてくれる。
「亜美さん!」
声もかけなかったというのに、悟朗はすぐ顔を上げた。その顔に安堵と少しの怒りと、喜びが浮かんだ。
「無事で良かった」
理由も聞かず、悟朗は道をまっすぐに駆けてくる。足はスリッパのまま、シャツは朝と同じまま。
二の腕を掴んできた彼の手のひらは湿っている。どれくらい、外にいたのか。
「どこにいたんですか。こんな遅くまで……家にも居ないし、喫茶店も、どこにも居ないから、ずっと探してて……」
悟朗は亜美の腕を掴み、引き寄せる。むっと、彼の香りが皮膚を通じて体に染み込み、亜美はそれだけで泣きそうになる。
「怪我……?」
悟朗はふと、亜美の腕をみた。
「亜美さん、この手、なんですか……赤い」
亜美の腕には、思ったよりもしっかりと赤い跡が残っていた。
捕まれたような赤い跡。それを掴んで、悟朗は真剣な目で亜美をのぞき込む。
「答えてください、何があったんですか」
「ねえ悟朗さん、一緒に」
しかし、亜美は悟朗の顔しか見えていなかった。
「……一緒に逃げよう」
じいじいと、夏の虫がなく。ぷん、と虫が一匹亜美の顔のすぐそばを飛んでいく。
草の香りと、土の香りと、雨が降る直前の香り。
すべてない交ぜとなった湿気が、二人を包み込んだ。




