145話
「……ボウヤ、大丈夫よ」
不意にぎゅっと俺の体を抱きしめる熱に、ようやく自分の呼吸が浅くなっていたことに気が付いた。
過呼吸一歩手前のように浅く早い呼吸とドクドクと早鐘のように打つ心臓が痛くて胸を掻き抱くように手を当てると、俺を抱きしめたヴァレンティナさんの力が強くなった。
「……イバニェス伯爵、皇太子殿下。その質問は本当に今しないといけませんの? はじめて人の生き死にに触れた子供に」
「む……、いや、だが」
イバニェス伯爵は口ごもり目を逸らせたが、ヴィルはまっすぐ射貫くような目でこちらを見ている。
「あなたは勘違いしているようだが、彼はただの子供じゃない。貴族だ。我々は民の血税で生きるがゆえに、民のために生きねばならない。それに年は関係ない」
「その為なら、彼の気持ちを無視してもよいとお考えですの?」
「そうではない。その道で生きる医者でも薬師でもない。貴族である彼がその知識を秘匿する。それに足る理由を、私は将来一国を担う皇太子として問わねばならない」
ヴァレンティナさんは平民だ。俺のようなカッコ付きでもなんでもなく、本当にただの平民だ。
そんな彼女がいくら昔から付き合いがあるとはいえ自国の伯爵、ましてや五大国の皇太子に対して意見を言うなんて、怖いに決まってる。
それでも、ぎゅっと俺を抱きしめ、守ろうとしてくれている。
彼女の母性というべきか、俺を守ろうとする行動がどこかマリアと重なってじんわりと目の奥が熱くなった。
「ヴァレンティナさん、ありがとうございます。もう大丈夫です」
顔をあげ、へらりと彼女に笑みを見せると、彼女は痛々しそうに顔をゆがめる。
でも、彼女に甘えるわけにはいかない。
今度は目をそらさずにまっすぐ見つめ返したヴィルの目には俺を責める意図はなく、ただただ為政者として見極めようとする意志があるばかり。
自身の弟の死を語ったウルリカさんだって、俺を責める意図はない。
ただ、幼くして死んだ弟の死の原因を思わぬ形で知ってしまって動揺しているだけ。
「ヴィルは、どうして今俺が話した内容を事実だと思ったの?」
俺に質問を返されるなんて思っていなかったのか、ヴィルがわずかに目を瞬かる。
「……君が、カッシネッリ公爵の後ろ盾を得ているからだ」
「そう。カッシネッリ公爵の後ろ盾を持つ俺が言う知識なら、きちんと専門家による仮定と検証が繰り返されて裏のとれている確実性の高い、正しい情報だっていう信用がある。だから一定の信用を寄せることができるよね。そりゃそうだ。カッシネッリの名を使って間違った情報を流したら名を落とすのはカッシネッリの方だもの。でも、俺の持つ知識のほとんどはカッシネッリに由来していない。 俺独自の情報源から得た知識でしかない」
知識や情報って言うのは、誰が言ったのかがとても重要だ。
普通の三歳の子供が『もうすぐ戦争が起きるぞ気を付けろ』なんて言っても誰も信じない。
けど、国際関係について大学で教鞭をとっていて、マスメディアでも取り上げられるような有名教授が口にしたのならば、みんな『もしかして』なんて思って話を聞く。
もしも、俺が理路整然と一から十まで説明できるのであれば、俺自身がデータを集めて仮説と実証を繰り返した論文でもかけて、学会で質疑応答もできるのであれば。もしかしたら、まだ何の功績をあげたわけではない十代の俺の言葉を信じる変わり者もいたかもしれない。
でも『俺』が知ってるのは、テレビやインターネットにゴロゴロ転がっている物事の表面をさっと撫でただけの浅くて曖昧な知識だけ。
俺が語った以上のことを質問されても答えられない俺の言葉を一体誰が信じると言うのか。
アレルギーに関しても、もし俺がこの世界で医学について一から学んでいたとして、おそらくまだ判明して人体の免疫について他者に証明するために何をしたらいいのかの知識がないから証明しようがない。
「『俺』の中にしかない知識。『俺』にもどうやって証明すればいいのかわからない。そんな俺の持つ知識を、仮に公表したとして、ヴィルはそれを信じられる?」
「…………その知識を君に教えた張本人は?」
「死んでこの世に存在しない。彼がそれを知った経緯も辿れない」
トン、トン、と。ヴィルが指でゆっくり机を叩く。
しばらくそうやって何か考えたあと、口を開く。
「……到底、信じられないな。そうなると、君が先ほど語ったアレルギーや免疫の話しはもちろん。塩湖の話も信じていいものか考え物だ」
「うん。何と言うか、俺の持つ知識は広く浅くって感じ。それを証明しようとしても、どうすればいいのかとっかかりすらわからないくらい浅い知識しかないんだよ」
依然、指で机をゆっくりと叩きながら考えこんでいたヴィルがおもむろにふー、っと長く息を吐いた。
『俺』という未知の知識の情報源をどう扱うべきか。信じるのか信じないのか。
信じないと判ずるにはきっとたぶん妙に的を射ている俺の説明の理由がつかない。
信じるとして、それをどう証明すればいいのか。
多分そんなことを考えているんだろう。
誰も何も話さない奇妙な沈黙の中、俺は再び口を開いた。
「それに、俺は現状できるだけ名前を、本当の名前を世に出しちゃいけない」
机を叩いていたヴィルの指が止まる。言葉はなく、その赤い瞳だけが俺に突き刺さる。
「俺の名前が世に出ることで、大きくなってしまう火種がある」
仮に、俺が『俺』の持つ知識を世に出したとする。
子供の頃、ベルトランド兄様がそうしてくれたように、誰かが俺の語った『俺』の知識を証明して、世に出したとして。それによって救われた人が多ければ多いほど、毒にも薬にもならなかったはずの七番目の王子の名前が力を持つ。
そうなれば待つのはフェデリコ兄様と俺との王位継承争いだ。
俺や兄様の意思は関係ない。それで利益を得られる周囲の手によって勝手に神輿は担がれる。
神輿の中に俺がいようがいまいが関係ない。俺の名を冠した神輿が担がれること自体が問題なのだ。




