126話
内陸に行けば行くほど人の生活区域が広がる分、強い魔物は出てこない。
そのため、件のサルムルト国内に入るまでの間に何度か魔物と戦う場面はあったものの、ウーズと呼ばれるスライムや一角うさぎのような弱い魔物がほとんどだった。
もっと街道を逸れて山や森の中に行けばオークなどの中級の魔物もいるそうだが、彼らとて理由もなしに生息地を離れて街道付近まで姿を現すことはない。
ここまでの道中、イバニェス伯爵と従兄殿はどうやってサルムルトの死の湖が塩湖かどうかを確認するかや、もし本当に塩湖だった場合の利権問題や流通問題をずっと馬車の中で話していた。
ウルリカさんは変わらず従兄殿と同じ馬車に乗っていたが、アメットさんは俺やセフェリノさん、ヴァレンティナさんと共に幌馬車に乗ることになったのだ。
アメットさんは従軍経験者で今回の道中で行うスクロールについても従兄殿について研究所を訪れたこともあったので、車中の会話のほとんどがいかにして魔導士と騎士が協力して魔物を倒すかだった。
「そういえば、サルムルトではどんな魔物がいるんですか?」
サルムルトの国境を目前に、ふと気になってそう聞けば、ヴァレンティナさんが露骨に嫌そうな顔をした。
「……水蟲よ」
「は?みずむし?」
それだけ聞けば、菌によって引き起こされるあの感染症がもっとも初めに思い浮かぶが、あれは皮膚病であって魔物じゃない。どれだけ厄介だろうと魔物じゃない。
「そう、水蟲。アタシ、あれだけは嫌なのよ……。固い甲羅のせいで攻撃は通らないし、何本も生えた足は気持ち悪いし、泡を吹く口なんてもぉ最悪……ッ」
思い出したのか身震いしながらぎゅっと自分自身を抱きしめるヴァレンティナさん。
いまいちどんな魔物かわからずセフェリノさんに視線を向けると、彼も得意ではないのか眉間に皺を寄せる。
「別にティナみてぇに見た目でどうのこうのは言わねぇけどよぉ。なんせ戦いにくい相手だよなぁ。 足の関節狙おうにも硬ぇハサミをぶん回されたら近づけねぇし。ハサミも甲羅も硬すぎて俺の斧でも割れねぇし……」
ハサミ……、甲羅?
いや、でもあれは別に昆虫の仲間ではないし。
「従軍時はオスト近郊の魔物しか見たことはないが、水蟲といえばクラーキー種なら見たことがある」
「ほぉん。クラーキー種はハサミだけじゃなくて尾びれも邪魔なんだよなぁ。でもサルムルトにいんのはポートゥニ種のほうだよぅ」
「ポートゥニ種……、クラーキー種……」
だめだ。魔物の名前を聞いてもいまいちぴんとこない。
有名どころのドラゴン、ゴブリン、オーク、コボルトとかその辺の名前は聞いたらイメージが浮かぶのに。
「えっと、どうやって戦うんでしょう」
「んんー、比較的やわらけぇ腹から攻撃ぶちこめりゃぁそれが一番なんだけどよぅ。ひっくり返すのは難しいから、ハサミに気をつけて足を一本ずつ切り落としていくしかねぇなぁ。本当は魔法がありゃ魔法でやっちまうんが一番手っ取り早いんだけどよぅ」
「アタシは絶対近づかないから」
「ティナがこれだからなぁ」
断固拒否の姿勢を見せるヴァレンティナさん。水蟲というからには昆虫型の魔物なんだろう。まぁ、俺だってゴキブリの魔物がいたら絶対戦いたくないし気持ちはわかる。
「お、国境を越えるぞ」
セフェリノさんの言葉に幌馬車の外に視線を向ける。
国境線は微精霊の密集地なのか、シャボン玉のように光を受けてわずかに煌めき揺れる幕のようなものが視認できる。あの幕を超えるとチェントロではなくサルムルト国内だ。
「抜けるぞぅ」
幌馬車が微精霊の幕を抜けた途端、空気は一気に乾燥し暑くなる。
そして、先ほどまでいたチェントロ国内の温暖でのどかな平原が幕に遮られぼんやりとしか見えなくなった。
「…………空だ」
イバニェス伯爵に聞いていた通り、サルムルト国内はまるで天国のような景色が広がっていた。
雪原かと見まがうほど真っ白な大地。丘状になった地形の斜面には棚田のようにいくつも池が見て取れる。
そのすべてが水鏡のように空を映す。
抜けるような青い空に白い雲。
上も下も全て空。飛行機から見下ろした景色とは全く違う。本当に、空の中にいるような感覚。
その空の隙間にぽつりぽつりと花が咲いている。
「セフェリノさん、あの花は何ですか?」
「おん?あー、あれだ。なんだっけなぁ」
「キヌアよ。サルムルトじゃ小麦の代わりにあれを食べるのよ。死の湖のせいで他の植物は育たないけど、あれだけは不思議と育つのよ。見た目は家畜の飼料みたいだけど、それでも他の植物の育たないここじゃ大切な主食なの。死の祝福とか精霊の涙なんて風に呼ぶ人もいるそうよ」
一面青と白しかない世界にキヌアの鮮やかな色が映える。
「……マリアにも、見せてあげたいな」
世界で初めて俺の味方になってくれた大切な人。
俺がこの世界を冒険したいと初めて思ったのはマリアが幼い俺にいろいろ聞かせてくれたからだ。
マリアがいなければ、今俺はここに来ていなかっただろう。
「綺麗だ……」
いつか、いつか俺が本当の意味で自由になったら、真っ先にマリアをここに連れてこよう。
フェデリコ兄様が王位を継いで、俺を担ぎ上げる人がいなくなって、そしたらキュリロス師匠と一緒にマリアをここに連れてこよう。
「あら、ボウヤったら泣いてるの?」
「え……?」
ヴァレンティナさんの言葉に手を頬にあてると、確かに俺は泣いていた。
「……きっと、ここの景色が綺麗すぎたんです」
俺にとって初めてのチェントロ以外の景色がここまで綺麗だなんて思ってなかったから。
生まれてすぐ、マリアの話を聞いてオストの峰々に思いを馳せたあの時から、ずっと夢だった外の世界があまりにも綺麗だったから。
「だから、涙が出たんだと思います」
それ以上言葉が出なくて、俺はしばらくの間ずっと幌馬車の外に見える空を眺め続けた。




