最強に抗うには
桔音達のいなくなった学園長室の床には、真っ赤な血がべったりこびり付いていた。赤く染め上げられた床には、桔音の両眼と四肢が血の海に沈んでいる。そしてその血の海の中で橙色の大魔法使いは、その血が彼女を避けたかの様に、一切その身と衣服を血に汚すことなくそこに立っていた。クリーム色の長い髪を揺らして、彼女はその手を床へと向ける。
瞬間、彼女の手から放たれた魔法が、床の血も、桔音の肉体の一部達も、消し去ってしまった。綺麗になった床を見て満足気に頷いた彼女は、ドサッと足を組みながらソファに腰掛ける。そして視線を学園長に向けながら、少しだけ苛立ちを見せつつ口を開いた。
「何よあの失礼な男は?」
「……一応、私の曾々々孫の恩人なんですけど……はぁ、簡単に人を殺さないでくださいと言ってるじゃないですか」
「横行闊歩、厚顔無恥、無礼千万、謂われも無い悪口を言われて大人しくしていられる程、私は大人しくはないの。寧ろ素直に死ねただけマシな方よ」
学園長は大魔法使いの彼女の行動を注意したものの、そこに怒りはなかった。どうやら彼女が人を殺したのは初めてではないらしい。また、学園長が長い年月を生きているエルフだからという要素もあるのだろうが、人が殺されたという事実に対して彼は冷静だった。そこに恩人であることや、Sランク冒険者という称号は関係ないらしい。
大魔法使いの使った魔法は、一見すればただの転移魔法。だが、それを少しだけ複雑な使い方をしている。転移魔法とは、魔力によって自分の肉体を別場所の座標へと移動させる魔法だ。その為、転移するものをしっかり魔力で覆う必要がある。そうしなければ転移した際に覆われていない部分が転移出来なくなり、結果取り残されてしまうのだ。
大魔法使いは、眼球を除いた桔音の頭と胴体のみをその魔力で覆い、別場所へと転移させた。そこは四肢と眼球を失った状態であるのなら、確実に人が死ぬであろう場所だ。魔獣もいるし、なにより出血を止めるための環境は何処にもない。故に大魔法使いも学園長も、桔音は死んだものだと確信している。
なんと言っても、四肢を失い眼球を失った状態に一瞬で陥った場合、後に襲い掛かる痛みがショックとなって、出血死の前にショック死で即死なのだから。
「一緒にいた少女まで飛ばす必要はなかったのでは?」
「何言ってるの、あの子は魔族よ? 気付かなかったの?」
「……やはり、そうでしたか」
「特に脅威ではないけど、暴れられると面倒でしょ? だから排除したのよ。感謝こそされ、責められる謂われはないわ」
大魔法使いの言葉に、学園長は溜め息を吐きながら押し黙った。確かに、魔族は敵だ。人間に危害を及ぼし、下手すれば街や村の1つや2つ滅ぼすことも出来るのだから。ソレを退けたというのは、事実だけなら褒められる事態であり、例え恩人の連れだったからといって責められることではないだろう。
故に、学園長はそれ以上は言わなかった。踏ん反り返る様に腕を組み、足を組んで座る大魔法使いのやったことは、桔音という人間を殺したことを除けば悪い事ではないのだから。
そして、死んだ者は戻って来ないこと、彼女の魔法を持ってすれば殺害の証拠を消し去れること、それを考えれば―――学園長は彼女を殺害の容疑で捕まえることも出来なかった。
そもそも、実力的に彼女を拘束する事は出来はしないのだ。
「で、あの男はなんなの? 図書館の前をうろついたり、私の悪口を言ったり、苛々するんだけど」
「Sランク冒険者ですよ、最近頭角を現してきた『きつね』という少年です」
「ふーん、知らないけど……あれでSランクなの? 無防備過ぎて正直雑魚としか言いようがなかったんだけど」
「いきなり転移させられるとは思わないでしょう……それに、貴女は無詠唱での魔法の使い手ですから、初見じゃ防げませんよ」
そんなもんなのね、と彼女は呟きテーブル上のお菓子に手を伸ばす。包み紙を剥がして、中に入っていたラムネ菓子を口へと放り込んだ。解毒魔法を使える彼女からすれば、毒や薬を使った暗殺も効かないので、食事も安心して食べることが出来る。
学園長の説明に対して彼女は特に何も感じなかったらしく、結局桔音は死んだ者として興味を失くしたようだ。
とはいえ、悪口を言われた程度で殺すほど普段の彼女は短気ではない。寧ろ、悪口など無視してスルーする程度には器は大きい人物なのだ。大抵のことであれば受け流すことが出来るし、大概の事であれば弁明の余地くらい与える事が出来るだけの余裕を持ち合わせている。
あらゆる意味で桔音は相性と間が悪かったというべきだろうか。
彼女は最近、新入生の募集で慌ただしくなってきたことに加え、きゃいきゃいと騒がしい生徒達の喧騒、更に自身の調べ物があまり良い成果を見せていないことへのストレスもあって、機嫌が悪かった。
そこにやってきた、桔音という不審者が図書室の前をうろついて来た件と、そしてその不審者が悪口を言って来たことがトリガーとなって、彼女の苛々を加速させたのだ。結果、桔音は彼女の転移魔法殺人の被害者となってしまったわけだ。まぁ、彼女達は知らないけれど、死んではいないのだが。
「全く……次から侵入者なんて出さないで頂戴。これ以上の面倒は御免よ」
「……はい、ご迷惑おかけしました」
「ふん」
そう言うと、彼女は転移魔法でその姿を消した。おそらくは研究室へと戻ったのだろう。学園長は彼女がいたことによる重圧から解放され、ホッと息を吐いたのだった。
◇ ◇ ◇
さて、桔音達が飛ばされたのはクレデール王国の城の後方に存在する山岳地帯だ。つまり、桔音達が入ってきた外門の真反対に位置する外門から進んだ先にある場所だ。
桔音と屍音、そしてノエルは、とりあえず岩石による命の危機を脱し、まずは状況判断に思考を回した。瘴気の板に乗って空高くまで移動すると、クレデール王国の城が見えたので、とりあえずは遥か彼方へと飛ばされたわけではないと分かった。
「とりあえず帰るけど……いやぁ、あの大魔法使いちゃんおっそろしいねぇ」
「久しぶりに血を流したよー、アハハッ……ちょっと面白かったなぁ!」
桔音の言葉に、屍音はなんだか興奮した様子を見せた。どうやら久々に感じた痛みに、恐怖よりも刺激を感じたらしい。相変わらず、狂っている部分はしっかり狂っている。
「でもそうか……あの図書館はあの学校に入らないと利用出来ないのかー……それに、あの大魔法使いにも普通のやり方じゃ会えないときた」
『どうするの?』
「仕方ない、入学するか。適当に入って適当に調べたら適当に辞めて去れば良い」
内心で、学校に入れば少なくとも超ヤバい敵にあったりはしなさそうだし、という言葉を付け加えつつ、桔音はノエルの返事としてそう呟いた。隣で爛々と瞳を輝かせ満足気な表情を浮かべている屍音を瘴気で掴み上げ、桔音は歩きだす。
とりあえずクレデール王国へと戻らない事には何も始まらないからだ。屍音も、機嫌が良いからか運ばれるのが楽だからか、何も言わず鼻歌を歌っている。大人しくしていて貰えるのならそれに越したことはない。
「全く、最強ちゃんといい大魔法使いちゃんといい……この世界の最強クラスは皆こぞって僕をフルボッコにするんだから手に負えない。どっちもオレンジだし」
冒険者最強のSランク序列第1位、橙色の髪を持った最強幼女。
全時空の魔法使いの頂点である、橙色の服の来た最強の魔女。
どちらも印象としてはオレンジ色が頭に残る人物達だが、実力はその分野において最強の人物達。魔法においてはあの大魔法使いが、しかし拳においてはあの最強の幼女が、なにも寄せ付けない程最強だ。
そして、その最強の彼女達のどちらともにボコボコにされた桔音は、ある意味珍しい体験をしたといえるだろう。なにせ、ボコボコにされた挙句生き残ったのだから尚更だろう。
「うーん……でもあのレベルの人が敵になったら少々不味いよね。僕一瞬で殺されちゃうし……もうちょっと強くならないといけないかなぁ……ドランさんに技術的な部分を学んだけど、まだまだ伸ばせる所はあるだろうし……ドランさんと僕の能力値は全く方向性が違うから、戦闘スタイルの改良もまだまだ出来る筈だよねぇ」
多分行ける筈、と思いながら桔音は考える。
もしも最強ちゃんクラスの敵が現れた場合、自分は普通に死ぬだろうと。ならば、もっと強くならなければなる必要がある。ドランから学んだ技術を、屍音がそうしたように、自分に適した形へと昇華する必要があるし、また自分の能力値に合った戦闘法を確立する必要がある。桔音の場合は耐性値が最も高い故に、防御を上位に回した戦い方で……かつ相手を殺すことが出来る攻撃力を兼ね備えた戦い方。
そしてそれ考えて桔音が一番最初に思い付くのはやはり、『どんな攻撃でも死なない防御力』を手に入れること。最強の拳でも死なず、どんな魔法でも傷一つ付かず、そしてどんな存在であろうとも殺す事の出来ない存在になること……それが桔音がこの世界で生き延びる事の出来る最大の形であろう。
「それには―――……耐性値だけじゃ足りないなぁ」
桔音は呟く。
耐性値だけでは足りない。防具を加えても、尚足りない。瘴気の防御を加えても、まだ足りない。その他のスキルを加えても、より一層足りない。今の桔音の求めるものには、全くもって足りていないのだ。
桔音が求めるのは、世界最強を阻むだけの防御力。死なないだけの防御力。つまり、世界最強の拳も世界最強の魔法も防ぐ、世界最硬の鎧だ。
「よし、仕方ないね。おっけー、分かった」
桔音は愉快だとばかりに笑い、歩きながら両手を広げる。そして、なんともなしに『不気味体質』を発動させる。瘴気の空間把握で周囲に魔獣達がいたことを察知していたからだ。発動と同時に放たれた死神の威圧感が、魔獣達を遠ざける―――否、中にはショックのあまり命を手放した魔獣もいた。
まるで、死神に命を掠め取られた様に、何の外傷も無いまま……ただ死んだのだ。弱い魔獣は最早、桔音の威圧感に耐えられない。
何故なら、桔音は屍音との戦いで『死』を理解した。それはつまり、生物の根源的な恐怖の対象を理解したということだ。ならば、恐怖への理解を深めた桔音の発動する『不気味体質』は、彼の振り撒く恐怖の質を数段階向上させるだろう。
死、そのものの恐怖を明確に植え付ける死神としての威圧感。それに耐えられる魔獣は最早、Dランク以下には存在しなかった。
「―――人間止めるか」
桔音は薄ら笑いを浮かべながら、そう呟いた。
"人間を止める"
その言葉に含まれた彼の真意とはどういうものなのか。
人間として、人間を逸脱した力を得ようということなのか……それとも、人間という種を止めて、化け物の領域に足を踏み入れるということなのか……はたまた別の意味を持つのか、なんにせよ――
それはもう、桔音本人にしか分からない。




