第96話 グロッセンベルグの危機と結婚の知らせ
午後の陽光が広場を淡く照らし、グロッセンベルグの街は、かつての廃墟からは想像もできないほど活気に満ちていた。
だが、魔導通信機から発せられた一報が、その空気を一変させる。
「報告! ヴァルトハイン公爵軍、本隊と別働隊をそれぞれ北と東へ進軍中。ノルデンシュタイン砦と当市が標的です!」
報告を聞いたユリウスは無言で頷き、手元の戦略図に目を落とした。ライナルトの動きは、彼が予測していた最悪のパターンだった。分割された大軍。グロッセンベルグと砦の二正面作戦。寡兵でどう守り切るか、それが問題だった。
「リルケットとセシリアに伝えてくれ。軍議を開く」
冷静に指示を出す一方で、ユリウスは心の奥底に、妙なざわめきを感じていた。
そのざわめきに形を与えたのは、一通の封書だった。
「……帝都からの文書です」
副官が差し出した封筒には、帝国の紋章が刻まれていた。ユリウスはしばし躊躇し、そして封を切る。目を通した瞬間、手がかすかに震えた。
――『ヴァルトハイン公爵家嫡子ライナルト殿下と、エリザベート・フォン・エーデルシュタイン令嬢の婚儀が執り行われたことを、ここにご報告申し上げます』。
それだけの一文だった。
だが、記憶の底に沈めていた名前が引きずり出される。追放された日、何も告げずに立ち去ったあの屋敷。言葉を交わすこともなく別れた少女――彼女の名前が、無機質な書面の中で結婚という現実となって突きつけられた。
ユリウスは手紙をそっと伏せ、目を閉じた。
「……あの頃のことを、思い出す必要なんてない」
自分に言い聞かせるように呟いたそのとき、控室の扉がノックされた。
「兄貴、入るよー」
ミリが姿を見せた。顔を出すなり、彼女は眉をしかめて近づいてきた。
「なんか……顔色、悪くないかい?」
「……いや、なんでもない。ちょっと昔の知人の報せが届いただけだ」
ユリウスはそう言って、苦笑いを浮かべたが、ミリは納得したようなしていないような顔で彼を見つめた。
「そっか。……でも、戦いの前にそんな顔してたら、みんな不安になるぜ」
ミリは努めて明るく言いながら、机の上の資料をぐしゃっと寄せて整理する。
「兄貴には、今のこの町を守る責任がある。それって結構、大変なことだよね。でも……」
言葉を切り、彼女はふっと笑う。
「この町も、あたしも、兄貴のこと信じてるからさ」
その一言に、ユリウスの胸の奥の痛みが、少しだけ和らいだ気がした。
「……ありがとう、ミリ」
「うん。さ、軍議だろ? 行こうぜ、兄貴」
ミリの無邪気な笑顔が、封じていた過去の影をそっと閉じてくれるようだった。




