第66話 消えない血の臭い
夜の砦を、セシリアはひとり歩いていた。
どこかで冷たい風が吹き抜ける音がする。灯りはまばらで、人影もない。皆が眠りにつくには、まだ早いはずだった。
「……ユリウス」
名を呼びながら、彼女は砦の各所を歩き回った。軍議室にも、居室にも、食堂にも姿はない。ふと、思い当たったのは、格納庫だった。
鋼と油の匂い。音もなく静まり返った工場跡の一角――そこに彼はいた。
巨大な鋼の躯体、パワードスーツ〈オリオン〉の脚元にしゃがみ込み、ユリウスはその装甲を雑巾で擦っていた。
セシリアはその様子に息をのむ。
彼の手には、血がついていた。
それは自分のものではない。他人の、戦場で浴びた血。刃が貫き、命を奪った証。
「……ユリウス」
セシリアが呼びかけると、ユリウスはゆっくりと振り返った。疲れ切った目。顔色も悪い。
「見つかっちゃったね」
乾いた声で言いながら、彼はまた手元の雑巾に目を落とした。
「拭いても、落ちないんだ……ここに、べっとりと、染みついてる気がする」
その視線は、オリオンではなく、自分自身の手のひらを見つめていた。
セシリアはゆっくりと歩み寄り、ユリウスの隣に腰を下ろした。
「ねえ、どうしてひとりで……?」
「こんなこと、誰にも見せたくなかったんだ」
彼は少し笑って、けれどその笑みはどこまでも苦しげだった。
「ずっと、正しいことをしてるつもりだった。でも、いざこうして命を奪って、ようやく実感したよ。人を殺すって、こういうことなんだなって……」
セシリアは黙って彼の手から雑巾を取り、ゆっくりとその手を包み込むように握った。
「……ユリウス、それでもあなたは、私たちを守ってくれた」
「だからって……だからって、許されるわけじゃないだろ?」
ユリウスは肩を震わせながら、オリオンの脚部についた血痕を、指先でそっと拭い続けていた。
その姿を、セシリアは扉の影からしばらく見つめていた。静かに足音を忍ばせ、彼のすぐ隣に腰を下ろすと、優しい声で囁く。
「ユリウス。そんなに、力を入れなくていいのよ」
彼の手元をそっと包み込むように、自分の手を重ねる。
「それは、あなたのせいじゃない。あなたは、守るために戦ったの。……私たちのために」
ユリウスの手がぴくりと震えた。だが彼は顔を上げず、絞り出すように言った。
「でも、僕の手は……もう、汚れてしまった」
「違うわ」
セシリアは静かに、だが確かに言い返す。
「どれだけ傷ついても、どれだけ苦しんでも……ユリウス、あなたの心が変わらない限り、あなたは優しいままの人よ」
彼女はそっと彼の肩に手を回し、迷いと後悔に沈んだその身体を、ゆっくりと抱き寄せる。
「大丈夫。私がそばにいるわ。泣いてもいいの。誰にも見せられない涙は、私が全部受け止めてあげる」
ユリウスは抵抗するでもなく、ただその温もりに身を任せた。セシリアの胸元に額を預けると、かすかに、嗚咽が漏れる。
「……ごめん。僕……どうしていいかわからないんだ」
「謝らなくていいのよ。強くあろうとする人ほど、誰かに甘えていいの」
セシリアは彼の髪を優しく撫で、まるで幼子をあやすように囁いた。
「あなたは、もう十分頑張ってる。だから、今は少しだけ、私に寄りかかって」
しばらくの間、格納庫の中に沈黙が広がった。ただ、二人を包むぬくもりだけが、静かに時間を満たしていた。




