第65話 心の傷
砦から遠く離れた丘の上で、ユリウスとリィナは背後の戦場を振り返った。
野営地では煙が上がり、混乱の波がまだ収まっていない。だが、敵の投石機はすべて沈黙し、指揮官を失った軍勢は秩序を保てぬまま撤退を始めていた。
「……敵、退却確認。追撃の気配なし」
リィナが冷静に報告する。ユリウスは頷いた。
「よし、砦へ戻ろう。これ以上の戦いは必要ない」
二人の機体は、夕焼けに染まる草原を駆けていく。かつての荒野は、今や血と火の匂いを帯びた戦場だった。
砦へ戻ると、すでに城壁の上ではセシリアとリルケットが戦況を見守っていた。だが、誰よりも早く駆け下りてきたのはミリだった。
「兄貴……!」
ミリはユリウスの顔を見るなり駆け寄り、満面の笑みで叫んだ。
「おかえりっ!」
その言葉に、ユリウスは少しだけ眉を動かす。だが、すぐに視線を逸らした。
ハルバードの手応え、血の匂い、崩れ落ちる兵士たちの叫び――。
すべてが、今も耳に残っていた。
「……ただいま。でも、少し休ませてくれ」
ユリウスはミリの横をすり抜け、無言のままリィナと共に砦の奥へと歩いていった。
その背中には、戦いの代償として刻まれた、見えない影が落ちていた。
ミリは、鍛冶場の前で静かに立ち尽くしていた。
遠く、砦の門をくぐってくる二つの影。血と硝煙にまみれた巨影から降り立ったユリウスは、どこか遠い目をしていた。疲れきったその表情に、いつもの柔らかな気配はなかった。
リィナが寄り添い、ふらつくユリウスの体を静かに支える。二人は、誰の声も聞かず、ただ黙って砦の奥へと消えていく。
ミリはただ、その背を見つめていた。
(おかえり……)
そう言葉にしたのは、もうずいぶん前のことのように感じた。
ユリウスは生きて戻ってきた。それは確かに、彼女の願いだったはずだ。だから笑って迎えた。嬉しかった。心から。
なのに――胸の奥がきりきりと痛む。
彼が遠ざかるたび、手が届かない場所に行ってしまう気がしてならない。支えになりたいのに、その隣にはリィナがいる。自分はただ、見送ることしかできない。
(あたしの作った装甲は……ユリウスを守った。でも、それだけじゃ……あたしじゃ……)
歯を噛みしめた。握った拳は震えていた。
それでも、泣くわけにはいかなかった。あの背中に余計な荷物を背負わせたくない。だからこそ、ミリは黙って、その背中が砦の影に消えるまで見つめ続けた。
夕暮れが砦を包み込む頃、セシリアとリルケットが城壁から戻ってきた。
「――どう見ても、ユリウス殿は限界だ。今日の軍議は中止にして、明日改めよう」
リルケットの言葉に、セシリアも小さくうなずいた。
「ええ……彼の顔、あれは……」
戦場を駆けた男の姿は、今や疲労と罪責感に押しつぶされた青年のそれだった。
夜。砦の食堂には、いつものように四人が揃った。ユリウス、ミリ、セシリア、リィナ――だが、その空気はいつもとは違っていた。
リィナが心を込めて用意した温かな料理が並ぶ中、ユリウスは箸を手にしたまま、ほとんど動かそうとしなかった。
「……ごめん、今日は……食欲がない。少し、一人になりたい」
短く言い残すと、彼は席を立ち、静かに食堂を去っていった。
「……あたしも、ちょっと工房に戻る。作業、残ってるから」
ミリも料理には手をつけず、無言でユリウスの後を追うように出ていく。
残されたセシリアとリィナ。どこか所在なげに冷めた食事を見つめるリィナに、セシリアがそっと問いかけた。
「……何が、あったの? ユリウス……そんなに、傷ついてる」
リィナは一瞬、俯いた。だがすぐに顔を上げ、少しだけ寂しそうに、しかし誇らしげに微笑む。
「ユリウス様は……人を殺す覚悟を、ようやく持ったんです。ずっと誰も傷つけたくなかった人が、戦場に立って、手を汚して……勝ったけど、心に深い傷を負ってしまったんだと思います」
セシリアは言葉を失い、そっと自分の胸元を押さえた。戦争が、彼に与えた代償の大きさを痛感しながら――。




