第55話 迫る危機
砦に足を踏み入れた瞬間、男の眉がわずかに動いた。
(また新しい建物……一体、どこまで増えるんだ)
表情には出さず、商人然とした笑みを浮かべながら、荷車を引いて門を通る。数日前には影も形もなかったはずの施設が、すでに稼働している様子だった。細い金属の管が複雑に絡み合い、中央には丸い筒状の装置が音を立てていた。
(……なんだ、あれは)
不自然なほど重厚な外装。微かに振動を伝える筐体。その正体がつかめず、男は装置から目を離せなかった。
「そっちは触らないほうがいいよ。爆発はしないけど、びっくりするかもな」
ふいに背後から声をかけられ、思わず肩が跳ねた。振り返ると、簡素な服を着た若い住民の男が、笑って肩をすくめている。
「なんだ、これ……工房か?」
「へへっ、冷たい空気を出すんだ。『エアコン』ってやつさ。ユリウス様が作ったんだよ」
「冷たい……空気?」
信じがたい言葉に、スパイは思わず装置を見直す。配管の先からは、確かに冷たい風が吐き出されている。近くの子供たちが顔を当ててはしゃいでいるのが見えた。
(馬鹿な……魔法でもない、火でもないのに冷たい風を?)
しかもそれを、一部の住民だけとはいえ使わせている。これはただの贅沢ではない。生活そのものを変える「何か」が、この砦で動いている。
ふと視線をずらすと、訓練場では自警団が槍を振るっていた。素人同然だった彼らの動きが、以前より整っている。列を乱さず、号令に従って整然と動く姿は、すでに寄せ集めの民兵とは言えなかった。
その先には、またあの男の姿があった。グレン・リルケット。帝国騎士団の象徴とも言える存在が、まるで当然のように辺境の砦に立っている。
(こんな連中が、静かにしているはずがない……)
胸の奥に、重く冷たいものが沈む。
(……早く報告しなければ)
男はまた笑顔を貼りつけたまま、砦の奥へと歩き出した。
日が傾き始めたグロッセンベルグの屋敷。その執務室で、代官ヘルマンは椅子に深く腰掛け、報告書の束に目を通していた。
「……冷たい空気を出す装置? パンと酒の工場、さらに兵の訓練……。まるで小さな都市国家じゃないか」
机に報告書を叩きつけるように置き、ヘルマンは立ち上がる。
「たかが追放された坊やが、よくもまあ……」
怒気を含んだ声で呟いた後、彼の顔から笑みが消える。視線は北方、ノルデンシュタイン砦のある方角を向いていた。
「このまま放置していれば、いずれ公爵様やライナルト殿のお耳に入る。いや、すでに気づかれているかもしれん」
眉根を寄せながら、ヘルマンは静かに、しかし決然とした声で言い放つ。
「動くしかあるまい。砦を潰す。あれ以上、好き勝手はさせん」
命令が下されると、部下たちは即座に動き出した。鎧の音が廊下に響き、書状が伝令に託される。静かだった屋敷に、戦の気配が忍び寄っていた。
それは、ノルデンシュタイン砦に迫る最初の危機であった。




