第191話 アーデルハイトからの使者
ヴァルトハイン城の執務室には、冷たい朝の光が差し込んでいた。
机の上には戦力配備の報告書と、難民に紛れたスパイの調査記録。山積みの紙を前に、ユリウスは無言で紅茶に口をつけた。その隣にはアーベントとセシリアが控えている。
そのとき、扉がノックされ、警備兵が顔を覗かせた。
「ユリウス様。アーデルハイト侯爵の使者が来ております」
ユリウスの目が鋭く細まった。
「わかった、行こう」
数分後、黒衣の男が待つ謁見の部屋にユリウスは現れた。使者の歳は三十代半ば。礼儀正しい仕草ではあったが、どこか胡散臭い笑みを絶やさぬその姿は、まさに侯爵の臣下というべきだった。
「これはご丁寧に。まさかヴァルトハイン様直々に我らの城にまで使いを――」
アーベントが皮肉交じりに言うと、使者は軽く頭を下げて言った。
「失礼ながら、本件は侯爵閣下が『誤解が生じぬように』との強いご意向でして」
「誤解、ね。どんな?」
ユリウスが言葉少なに尋ねると、使者は懐から封書を取り出した。
「閣下の言葉をお伝えします」
封を開け、丁寧に綴られた筆跡を読み上げ始める。
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《ヴァルトハイン殿へ》
近頃、我が協力者であったヴィオレッタ殿下が私の庇護を離れ、自らの意思にて行動しているとの報告を受けました。
もはや、彼女の思想と手法に私は与しません。
万が一、彼女が暴走し、ヴァルトハイン領に害を及ぼすことがあれば、それは断じて私の関与によるものではありません。
彼女の行動は彼女自身の責任であり、私もまた、彼女の制御を放棄したと明記しておきます。
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読み終えた使者は、気取ったように手紙を閉じると、口角を上げて言った。
「閣下はこの件を『遺憾ながらも、ヴィオレッタ殿下が失踪し、我が方としてもこれ以上関与しておらず、誤解のないように』とお考えのようです」
「要するに、ヴィオレッタが暴れたら、お前たちは関係ないって言いたいわけだな」
アーベントが呆れ気味に呟くと、セシリアは険しい顔で一歩前に出た。
「彼女が今どこで、何をしているか……それについての情報は?」
使者は肩を竦める。
「詳細は不明。ただ、最後に目撃されたのは、南東の山岳地帯とのこと。魔素精製炉の搬出と、それに必要な物資が持ち出されている記録があったそうです」
「魔素精製炉……」
ユリウスは眉を寄せた。
「それに、侯爵閣下はこのようにも仰っていました。『彼女はセシリア殿下を非常に敵視している』と」
「…………!」
セシリアが息を呑む。
使者はさらに、意図ありげに視線をユリウスへと向けた。
「そして……“あなた様”を、その才と力ごと手に入れようとしているのではないか、とも」
一瞬、室内の空気が重く沈む。
ユリウスはゆっくりと椅子から立ち上がり、使者と向き合った。
「――伝えてくれ。君たちが無関係を主張するなら、それでもいい。だが、それを信じるかどうかを決めるのは、僕たちだ」
使者は軽く頭を下げ、退室した。
その背が完全に見えなくなったところで、アーベントがぼそりと呟いた。
「さて……蜥蜴の尻尾を切り落としたつもりでいるが、あの侯爵が次に何を狙っているか。今のうちに探るべきですな」
セシリアもまた、袖を握りしめたまま呟いた。
「……ヴィオレッタが本当に、ユリウスを狙って動き出したのなら……私が止めないと」
ユリウスは、ふたりの様子を静かに見つめていた。
「糸の切れた凧、手綱を振り払った馬。彼女を止める手段は……もう、殺すしか残されていないのかもしれないな。いや、元からそのつもりではあったが……」
ユリウスの言葉にセシリアは頷いた。




