第130話 恐怖の終焉
曇天の空の下、代官のフレデリヒは、机に積み上げられた報告書に眉をひそめていた。
また一つ、村が空になった。病人と老人だけを残し、動けるものたちが一夜にして消えた。痕跡はない。ただ、夜明けの頃、山道の見張りが不自然な物音を聞いたという。
「どこへ逃げたかなど、考えるまでもない……」
フレデリヒは溜息をつき、書簡を放り出した。筆跡の乱れた紙には、あろうことか役人の一人が家族を連れて失踪したことが記されていた。忠誠を誓っていた者でさえ逃げるのだ。
彼の心にも、密かに芽生えた思いがあった。
――自分も、逃げるべきではないのか?
日々の報告は、罪人の帳簿にしか見えなかった。徴税、徴兵、密告、処刑。すべてをまとめてライナルトに報告し、叱責され、より強い命令を受ける。
その度に、民の視線は冷たくなった。
子を抱く母の無言の哀願。兵に引き裂かれる兄弟。収穫を隠して打たれる農夫。
これは仕事だからと自分に言い聞かせなければ、とてもではないが精神がもたない。
「……私が悪いのか?」
呟いた声は、誰にも届かない執務室に吸い込まれていく。
ライナルト閣下の命令に背けば、死が待っている。それはわかっていた。
だが、忠誠を尽くしても、待っているのは罵声と恐怖だ。
度重なる戦争を支えるための重税、徴兵。これらが住民の生活を圧迫しているのは間違いない。
しかし、その間違いを指摘して生きていたものはいない。
「限界だな……」
そうつぶやいたフレデリヒはふと、ふるさとで穏やかに過ごした日々が脳裏に浮かんだ。
麦畑を走り回っていた頃。父の背に抱かれて笑った母の声。
そして、今。民は逃げ、城は空になりつつある。
先代も先々代のヴァルトハイン公爵も厳しい人ではあったが、ここまでの恐怖で抑えつけるような政策はないし、戦争も住民の生活を考慮して限界を超えるようなことはしなかった。
――ここに残っても、何がある?
筆を取り、執務日誌に最後の一行を記した。
「全ての責任は私にある。どうか民を、これ以上、苦しめないでほしい」
それはほんの一握りの良心であった。
その夜、フレデリヒの姿は家族と共に消えた。
背中には荷物、手には杖。目的地は、荒野の砦――ユリウスという名の主のもと。
まだ見ぬ自由の地を目指して、代官の逃避行が始まった。
そして、これは示し合わせたように連鎖していく。
ある程度の地位にある者ですら、その立場を捨てて逃げ出すようになってしまったのだった。




