お嬢様、後片付けをする
アビントン伯爵家。
オールディス王国の西南部にある領地を治める伯爵家。
王国の建国より続く由緒正しい名家にして、アビントン伯爵家が治める領地は広大で歴代当主が開発に力を注いだ豊かな地である。
まさに、名誉と財力の双方を兼ね備えた家だ。
一度、アビントン伯爵家の邸を訪れてみると良いだろう。良い土産話になるはずだ。
領地にある本宅は広大で、それでいて重厚で、かと思えば華美になり過ぎず、訪れた者は誰もが圧倒される。
「クリスティーナ様。本日は、家庭教師が体調不良の為、授業は休講とのことです」
クリスティーナは、アルバートの言葉に、顔を曇らせる。
「あらあら、まあ……大丈夫かしら?」
「熱はあるそうですが、そこまで高熱ではないとか。大事をとって休むそうですので、そんなに深刻な病ではないかと」
「そう……」
クリスティーナは、アビントン伯爵家の娘として恥ずかしくないように教養を磨いている。
幾ら前世の記憶があろうとも、現在からは数百年あるいは千年以上昔のことだ。
マナーも変われば、言葉遣いも変わる。
国語・歴史・地理も一から学び直しだ。
唯一、数学だけは前世の知識が使えるが、逆に言えば前世の記憶を持つアドバンテージは、こと学びにおいてはそれぐらいだった。
「そうすると、今日は暇ね。……ねえ、アルバート。私、街に行きたいのだけど、貴方に護衛をお願いできるかしら」
「ええ、勿論」
「ありがとう」
それからアルバートが女性の使用人を呼び入れる。
クリスティーナはその女性に手伝ってもらいながら街中でも目立たない服に着替えると、アルバートと共に屋敷を出た。
「どこか、行きたい場所はありますか?」
「そうねぇ……特に用事はないのだけど、行きたい場所と聞かれれば公塾ね」
二人はアルバートの転移魔法で、とある建物の前に到着する。
その建物は、院からも近しい場所にあった。
古めかしくて、一目で長い間使われている建物だと分かる。
「久しぶりね。ブレット」
丁度授業が終わったのか、ブレットとクリフが公塾の前を歩いていた。
この場所に居るはずのない彼女の姿を見て、二人は面白いぐらいに動揺した反応を見せる。
「うわっ!何でここにいる……んですか?」
ブレットの問いにクリスティーナはコロコロと笑った。
「まあ、散歩よ散歩。時間ができたから、領地を回ろうと思って」
「そう、ですか……」
「公塾はどう?クリフ」
公塾は、試験的に導入されたアビントン伯爵領の教育機関だ。
公塾設立のキッカケは、クリスティーナとアルバートが以前に解決した毒殺事件であり、その目的は子どもたちが怪しい労働募集に誘い込まれないように教養や手に職をつける為だ。
いきなり領地全てに導入することは難しく、まずは領都と幾つかの村で開始している。
「……別に、ちゃんと通ってますよ」
クリフの言葉に、ブレットは顔を青ざめさせたり、慌てて頭を下げたりと忙しない。
「それは良かった。……貴方なら、職業訓練校の方に行くと思ってたんだけど、どういった心境の変化?」
公塾と職業訓練校の二種類を設置した。
大きな違いは公塾は学園都市にあるような一般教養のみを学ぶ場所であるのに対し、職業訓練校は手に職をつける為の学舎だ。
自然と、後者はその地方特産のものを学ぶ場となる。
例えば領都の職業訓練校は二種類。
一つはアビントン伯爵家を始めとする高位貴族にすら仕えることが可能な教養を学べるという触れ込みの使用人学校。
教師は現役の使用人、そしてアビントン伯爵家の業務を僅かに担うことで小遣い程度ではあるものの賃金を得ることが可能だと。
そしてもう一つは、商人の学校。
その学校は、毒殺事件の黒幕であったチュター商会の施設や職員を使い倒してできたそれだ。
無論、毒殺事件に関わった職員は今頃土に返っているか、あるいは今なお牢獄に閉じ込められているかの、どちらか。
無関係であった職員だけを厳選し、更にアビントンから監査人を入れ、元々の薬師事業を行っている。
というのも、ドブソン子爵家の事件のせいで、領地全体医薬に携わる商会の全てが忙しい。
故に薬業界に携わっていた人間を、薬剤師ではないとはいえ遊ばせておく暇はないと、そのまま毒殺事件に関与していない職員を丸ごと雇い、それぞれ業務にあたらせていた。
その商会の下働きのようなことをすることで小遣い程度の給料を得つつ、基礎的な学びを得る。
他にも金属加工が盛んな村では、下働きで金を得つつ金属加工の技術を学べる、といった訓練校や、そもそも調薬を学べるといった訓練校もあった。
「……俺、自分が将来何をしたいのか決まってなかったし、何ものにもなれないと思ってた。かと言って、それを理由に甘えちゃならないのも、この前の事件でよく分かった。だから、とりあえず視野を広げたいと思ったんだ」
「あら、良いじゃない。……とは言え、揚げ足を取るようだけど、一つだけ訂正させて頂戴な。貴方は、『何者』にもなれない。貴方は、貴方にしかなれないわ」
クリフは彼女を睨みつけた。
「だから、『貴方』の名前が私の耳まで届くことを楽しみにしているわ。貴方が貴方の道を見つけたその時、それがどのような険しい道であれ、諦めずに、貴方らしく進むことを祈っているわ」
けれども続けられた彼女の言葉に、彼の表情は緩まった。
「ふん……言われなくとも」
悪態をついていつつも、その表情には喜びと誇りが滲み出ている。
彼女は自身の言葉の意図が確かに彼に伝わったと、笑みを浮かべた。
その後、彼女は二人に別れを告げ、アルバートと共に建物の中に入る。
そして、公塾で教師たちや残っている生徒たちに、様子を聞いて回った。
教師たちは一様に生徒たちの向上心が強いことを語り、生徒たちもまた如何に公塾が楽しいかを熱く語っていた。
「……上手くいっているようでしたね」
公塾を離れた後、アルバートが口を開く。
「そうねぇ……現時点では成功、と言っても良いでしょう。でも、怖いわね……」
怖い、そう言いながら、けれども彼女は楽しそうに笑っていた。
「怖い?一体何が?」
クリスティーナの返答に、アルバートは首を傾げた。
「大丈夫よ。お兄様の代では問題ないでしょうし、そもそも恐らくだけどアビントンでは問題にならないと思うから」
クリスティーナはそう言って、苦笑を浮かべる。
「……ただ、開いてはならぬ箱を好奇心で開けてしまった、そんな感じかしら。尤も……私が何もしなくとも、抑え切れるものではないでしょうから、数十年、或いは百年後にはこの流れが加速するでしょうけど」
クリスティーナの呟きに、ますますアルバートは混乱した。
「ふふふ、きっと貴方も、王都に行ったら感じるわよ。……それはさておき、良い流れよね。人材は、宝よ。公塾や職業訓練校が発展すれば、恐らくアビントン伯爵領の発展も目覚ましいことになるでしょうね」
「ええ、そのように感じました。質も必要であるものの、量というのは馬鹿にはできません。戦に例えると、一騎当千の一人は突破力はあるものの、ある程度の技量を持った千百人が包囲をしてしまえば、いずれ剣が折れますので」
「ふふふ……貴方らしい考え」
そう言って、彼女は小さく笑った。
「とは言え、以前貴方が言ってくれた通り、学べることが当たり前になり、受ける手が惰性で学ぶようになれば、きっとそのときに発展が止まるのでしょうね。その時までに学べることの利点と研究への支援を手厚くすることができるか、それが将来のアビントン伯爵家の宿題ね」
そんな話をしている間に、次の目的地に到着した。
件のチュター商会だ。




