[3―5]なにげない日々に入るヒビ
九階は『運』が試されるステージだった。フロア正面に巨壁があり、珍しくメッセージプレートがある。
『正しき行路を選択せよ。不正解の場合、なんじに死の鉄槌が下るであろう』
手前にトロッコが五台あり、巨壁にもすだれのかかったほら穴が同数ある。トロッコに乗って五つあるルートのどれかに突入しろ、って趣旨に違いない。
俺は、高校生クイズの『○×問題』を想起した。『○』と『×』が書かれた発泡の板に突撃して当たりはマットレス、外れは泥池にダイブするあれだ。
ただ通常のクイズではあり得ないギミックがある。
トロッコと壁の間が虚空なのだ。
へりまではレールが続くのに、断崖までくるとぷっつり途絶えていた。これじゃ五ある関門へ到達する前に、暗闇の深淵へ真っ逆さまじゃないか。
試しにレールを開始地点から手でなぞってみると、奇妙なことに〝途切れなかった〟。レールがないのに鉄の感触だけある。見えはしないけど存在する、ってことだろう。
すなわち五つの門まで、不可視のレールが続いているのだ。
だとしたら対処のしようもある。
「カンニングさせてもらおうぜ」
どのルートを選べばいいか事前に知っていれば、いきおい、犬死にすることがなくなる。ツバサとソフィアも異議申し立てしなかった。
俺は砂粒を具現化させ、インビジブルレールに降りかけた。異物が混じってステルス性が損なわれ、薄ぼんやりと姿を浮かび上がらせる。不正かもしれないが、高校生クイズと違って審判員はいない。これは確実性を高める方策と割り切り、断行する。
俺は砂をまぶした枕木を歩きつつ、ゲートに到着した。すだれの奥をのぞき、またぞろ砂を降ってみる。真ん中の道はダウトらしい。
次に隣の、右から二つ目のルート。こっちがビンゴだった。
すだれから顔を出し、二人に成果を告げる。
「おーい。ここが正解みたい」
俺たちは右から二番目のトロッコに搭乗し、快調に死のあみだくじをクリアした。
ただし『終わりよければ、すべてよし』とまではいかない。ソフィアとツバサがやたら疎遠なのだ。
もとよりツバサは人付き合いに消極的だけど、ソフィアもかかわり合いを避けている気がしてならない。俺が他界している間、口論でもしたんだろうか。
確かめるのも踏ん切りがつかず、口にできぬまま俺たちは九階を攻略した。
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二桁の大台、十階へ挑むにあたって二人は俺のコンディションを案じ、シャトレーゼで仮眠することになった。
俺は布団をかけずに眠気がくるのを待ちつつ、ベッドであおむけになっている。
『コンコン』とノックされたのは、俺がまどろみ始めたときだった。
「はーい、ちょっち待ってね」
ぼやける目元をこすりながらドアまで歩く。
扉を開くと、何やら切迫した人相のソフィアがいた。
「どした。神妙な面持ちなんかしちゃって」
「起こしちゃった、かな」
「いいよ。本来はインターバルなしでも十階に行けたんだから。どうぞ入って」
俺が招くと、会釈してソフィアが入室する。なんだか他人行儀だった。
俺は定位置の窓側ベッドに座り、もう一つを彼女の着座場所として勧める。
ソフィアは座って居住まいを正し、俺と真正面から向き合った。
「折り入って、大切な話があるの」
自然と俺の気分もしゃきっとした。
もしや彼女、一大決心して愛の告白とかしにきたんじゃ。
ご都合主義がむくむくと膨れ上がる。
「な、何かな」
俺の口調がどもり気味なのは致し方ない。
プラチナブロンドの美少女から愛をささやかれるなんて、一世一代の正念場だ。
「単刀直入にいくね。ツバサくんって、ケンくんの親友なのかな」
俺の落胆ときたら筆舌に尽くしがたい。全身に張り詰めていた力が抜けた。
「今更どうしたの。そんなの当たり前じゃん」
「ツバサくんがどういう人か、言える?」
「言わなくても分かるでしょ」
「いいえ。ちゃんとケンくんの口から聞きたい」
ソフィアがきっぱり言いきった。
ツバサと彼女の確執、予想以上に根が深いのかもしれないな。
「はいはい、分かりましたよ。榊ツバサは小中高と同じ学校に通う、俺の腐れ縁。榊電子の一人息子で、眉目秀麗に文武両道ってゆうチートボーイだ。あれで愛嬌がありゃ、鬼に金棒なんだろうね。神様も一つくらい欠点を与えてくれて、良かったよ。でないと逆立ちしたって歯が立たないし」
俺の説明を、ソフィアは一語一句漏らさず傾聴している。
「小学校から一緒なんだよね。だったら二人の思い出話、してみて」
「まだ疑ってるの。これってなんかの心理テストかな」
「お願いよ、ケンくん。どうしても確かめておかなきゃならないの」
女子に懇願されて茶化しては、男の名折れだ。
俺は腰を据えて、ソフィアと相対することにした。
「あいつとのエピソードだろ。よりどりみどりだから、どれをピックアップしようかな。たとえば──」
言葉が続かなかった。
彼女をだまくらかそうとか、いたずら心に火がついたんじゃない。
俎上に載せるはずの思い出が、行方不明なのだ。ツバサとの記憶が混濁している。
そんなわけがない。ツバサは俺のダチ公だ。
なのにどうして〝一つも〟出てこない?
俺のこめかみと背中に、脂汗がにじんできた。
過去を思い浮かべたとき、ツバサは記憶の中にいる。小学校時代の遠足、社会科見学に運動会、そして学芸会に修学旅行。卒業式も含め、どの催しにもあいつがいるんだ。
にもかかわらず「二人で何をしましたか」と問われると、流暢に返答できない。空白が俺の脳内を埋め尽くす。先述の行事に関しても、ツバサとどういう言葉を交わしたかさえ定かじゃなかった。
おかしい。絶対にこんなことないはずだ。
だって一緒に過ごした思い出のない友達など、支離滅裂だもの。
「思い出せないのね」
ソフィアが確信に満ちた面差しで言った。
「ち、違うんだ。少しとぼけているだけで……あっ、そうだよ。俺、一回死んだじゃん。いまだに記憶を司る海馬だけ、復調してないかもしれないし」
「現実から目を背けないで。あなたはそんな弱い人じゃないでしょ」
ソフィアの断言に、俺はたじろいだ。
確かに俺は記憶の落丁というパターンを、はなから排除している。それは『現実逃避』と呼ばれる自己防衛だ。
「もしかしてツバサくんを思い返そうとしたとき、心霊写真みたいにならない?」
健常な人が耳にすると、「アホくさい」と一笑に付すかもしれない。
けどソフィアの指摘が俺にはしっくりきた。
そうだ。ツバサとの記憶は、心霊写真に近い。
あいつは過去の風景に存在する。でもその季節、その場所で何をやったのか覚えてない。ツバサはいるのに、共有された思い出がない。
あいつが、写真に紛れこんだファントムみたいに思えるのだ。
「どうしてソフィアは、分かるの?」
「簡単よ。『私も』だから」
彼女の答えは短く、もろもろ省略しすぎだと思った。
「初めに違和感を持ったのは、八階でケンくんが消えちゃったとき」
やおらソフィアが語り始めた。
補足説明なのかも。とりあえず俺は聞き役に徹することにした。
「私、泣き崩れて、しばらく身動き取れなかった。ツバサくんも沈痛な顔つきしていて、動こうとしない。だから私、彼が引け目を感じて悲嘆に暮れてると思ったの。涙を拭いて励ましてあげないと、と決意した」
ソフィアは自らを律し、他者に温情をかけられる人だ。誰でもできることじゃない。
「『ツバサくんのせいじゃないよ。ケンくんは望んで、ああしたんだと思う』と言ったの。そうすればツバサくんの肩の荷が下りると思って。でも彼は思いもよらない返事をした。『なぜぼくをかばうんだろう。なんのメリットもないのに』って」
ややもすれば、損得勘定ととらえられる発言だ。ツバサにしてはうかつだな。
「私びっくりして『親友だからでしょ』と言い返した。すると彼、『ああ、そうだったね』と愛想笑いして……」
「深刻になることないんじゃない。口からついて出ただけ、って可能性も」
「ツバサくんも『冗談だから忘れてくれ』と念を押してきた。でも私、目の前で人が亡くなったのにジョークを飛ばす神経が信じられない。それも赤の他人じゃなく、最も親しい友達よ。笑いで済まされるレベルを超えてる」
ソフィアに論破され、俺はだんまりを決めこむしかなくなった。
「そこで私の中に、突拍子もない仮説が芽生えた。ツバサくんはケンくんの友人じゃないかもしれない、という考えが」
論理の飛躍じゃあるまいか。
「何を根拠にそんなこと」
「女の勘よ」
取りつく島もない。
「でもさっきもう一つ確証を得た。ケンくんの中に、ツバサくんとの思い出がない。それは揺るがしがたい事実でしょ」
そこを盾に取られては俺も閉口するしかない。
事実、ツバサと積み重ねた記憶がないのだから。
「で、心霊写真の話に戻るけど、私にも残りカスがあるの。ケンくんと初めて会ったとき、大柄な男性とごたごたしていたでしょ」
ゲイのゴリラ男だ。あいつも〈塔〉を登っているのだろうか。
「私はあの人の名前すら知らない。でもなぜか記憶のアルバムに、彼がいるの。あたかも『近所のお兄ちゃん』みたいなポジションで、頭の片隅に居座っている」
「名も知らないのに、接点はある? そんな摩訶不思議なこと、ないと思うけどな」
「うん。ここからは私の推測よ。あらかじめ言っておくと、証明する手立てはない」
ソフィアがもったいつけて前置きした。
「リアルの私たちが眠りにつくヒュプノスポッド。あれには利用者の記憶をコントロールする機能が、搭載されているんじゃないかしら」




