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[3―2]マウス・トゥー・マウス

 依然として海蛇の進撃はとどまらなかった。トンネルの中央で足を止める獲物──俺へ執拗に索敵を続ける。

 あれ、次はどうすりゃいいんだっけ。どうやって蛇に対抗する?

 網で捕まえればいいのか。もしくは釣り竿でも出現させるべきか。いや、違うな。

 まごついて指針が定まらない。俺の頭の中は真っ白になった。

 呼応するかのように、ゴーグルが消滅する。イメージを維持できなくなったのだ。

 どっち道、考えがまとまらないこんな体たらくでは、捕獲網も釣り竿も具現化できないだろう。足も海底に根を張ったように動かず、にっちもさっちもいかない。

 年貢の納めどき、か。俺に活路はない。

 生存を絶望視したとき、後ろから迫りくる気配があった。

 二匹目のどじょうならぬ、二匹目のスネイクによる挟撃だろうか。

 もういいや。どうとでもなれ。

 たった一匹でも微動だにできないんだ。何匹増えようと、大勢に影響はない。

 捨て鉢に目玉だけ動かすと、両手両足があるフォルムだった。少なくとも蛇じゃない。

 よくよく見てみると、ツバサだった。手に三叉のもり──トライデントを携え、海蛇に真っ向勝負の構えだ。

 いったん対岸まで行き、酸素を補給してからとんぼ返りしたのだろう。ツバサは俺と蛇の間に介入する。

 海蛇もトライデントに警戒の色を示した。泳ぎを止め、つぶさに様子をうかがう。

 襲撃がやみ、ほっとしたのもつかの間、俺の目がかすんできた。かぶりを振っても視野はぼやけたまま。明瞭になるどころか意識にまで、もやがかかってくる。

 酸素、欠乏症か。

 空気補充してきたツバサと違い、俺はずっと水の中にいた。エラ呼吸もできないから、酸素を取りこむすべがない。意識が朦朧とし、手足に力が入らなくなってきた。

 増援が駆けつけてくれたのに、どうやら俺はここまでらしい。せめてツバサとソフィアに「さよなら」くらい言いたかったな。

 俺がまぶたを下ろすと同時に、学生服を引っ張られた。

 今度はなんだよ。最期くらい静かに逝かせてくれ。

 気だるげにまぶたを上げると、眼前に人の顔らしきものがあった。徐々に近づいてくる。『それじゃごっつんこだろ』と思ったら、案の定だった。

 俺の唇に、まろやかなものが当たる。このマイルドな触感、なんだろう。とろけるほど気持ちがいい。

 答えが出ぬまま口内へ何かが送りこまれた。気管を通り、肺まで届く。すると眼の焦点が合ってきた。


 眼前に密着するのは、ソフィアだ。というか彼女、俺に口づけしている。


 ようやっと状況が飲みこめた。

 これは人工呼吸。ソフィアは口を通して、俺へ空気を分けてくれたのだ。

 俺の意識が覚醒したことを確かめ、彼女は唇を離した。俺を海底に立たせて手を引き、進行をサポートする。

 ソフィアに導いてもらい、俺はトンネルを脱出した。水底を蹴り、海面へ浮上。


「ぷはあぁーーーー」


 大口開けて、ありったけ酸素を吸いこんだ。

 続いてソフィアも上昇してくる。

 俺はほうほうの体でゴールの岸に上った。多量の水を飲んだらしく、激しくせきこむ。


「ごっ、ごふ。ありが……とう。たす、かったよ」


 ソフィアがかいがいしく背中をさすってくれた。


「無理にしゃべらないで。私はどこにも行かないから」


 彼女の言葉に甘え、俺はせきをして食道の水を排出した。やっと落ち着いてくる。


「もう大丈夫。本当助かったよ。ソフィアとツバサがいなきゃ、俺は蛇の餌食になってたと思う。君は命の恩人だ」

「オーバーだよ」

「そんなことない。だって俺、窒息寸前だったもん」


 するとソフィアはしきりに目を泳がせた。


「ケンくん。治療は、ノーカウントだよね」

「はへっ、なんのこと?」

「いや、その、だからね」ソフィアがぺたん座りして、背中を丸める。「私は誰彼構わずしちゃうような、安い女じゃないってことだけ気に留めておいて欲しいの。一人の女の子として、初めてはシチュエーションにこだわりたいってのもあるし」


 誰彼構わず、初めて? 彼女の論旨がさっぱりだ。


「君が安い女じゃないのは知ってるよ。でも悪いけど、遠回しに言われても分かんない」

「だから、キスのこと!」


 ソフィアのスクリームが、フロアにとどろいた。ざんきにたえなくなったのか、彼女は俺に背を向けてしまう。

 思考停止状態だった俺の脳が再起動した。ことの重大さに思い至る。

 実感がないけど、俺はソフィアとキスしたのだ。

 あれは応急手当だからノーカンにしよう。ソフィアはそう主張している。

 なんだかやりきれない気分になった。


「俺は、少し残念だな」


 ソフィアが振り返る。


「何が?」

「だって経緯はどうあれ、君との思い出をなかったことにしたくない」


 ソフィアが何やら考えこむ。


「覚えていたって、ここは夢の中。現実で起きた出来事じゃないよね」


 盲点だった。

 こちらで何をしようとも、俺の本体は眠りについたまま。脳内の電気信号でバーチャルリアリティのごとく、何かした気になっているだけだ。


「それでも忘れたくないよ。君が身をていして助けてくれたことに、変わりないもの」

「私が『忘れて』ってお願いしたら?」

「うーん、悩ましいな。君との約束をほごにするのも、不本意だし」


 俺が煩悶すると、ソフィアが吹き出した。


「所詮は口約束なんだし、守ったふりすればいいのに」

「できるわけないだろ。俺はソフィアと中途半端な接し方、したくない」


 ソフィアがいたずらっぽく片目をつむり、唇に人差し指を当てる。


「じゃあケンくん、責任取ってくれるの?」

「せせ、『責任』って、どういう」


 まさか『そして伝説(ハネムーン)へ』的な暗示だったりする、とか。


「いちゃいちゃしてないで、引き上げろ。ぼくを海中でふやけさせるつもりか」


 ツバサの愚痴で、ソフィアへの審問がお流れになった。



≒ ≒ ≒ ≒ ≒



 海水でずぶぬれの俺たちは、いったん体と服を乾かすことにした。シャトレーゼへ帰る道中ドッペルちゃんと顔を合わせ、提案される。


「よろしければ、お召し物をお預かりします」


 クリーニングする、と言うのだ。

 俺たちは厚意に甘えて衣類一式渡す。代替の服に着替えるよう言われたので、男二人はジャージ姿に(胸元に『阿部倉』と『榊』という刺繍が施してあるのが不思議だった)、女子用がメイド服しかないらしく、ソフィアは渋々着用した。

 俺としては、ドッペルちゃんの当意即妙なアドリブだと思う。心から賛辞を送りたい。

 メイド服が混然一体となっていたので思わず、


「ソフィア、夢の中にいる間いっそ、エプロンドレスで通したら」


 口を滑らすと、にらみ返された。


「『馬子にも衣装』って言いたいんでしょ」


 俺がディスっていると邪推したらしい。こうなったら彼女、俺の言うことなんて馬の耳に念仏状態になる。

 こんなメイドさんがいる喫茶店なら、足しげく通うのに。


 これは俺の本心だった。というか人工呼吸という名のキスの一件以来、俺の中で急速にソフィアの占める割合が増した気がする。

 その現れなのかビジネスホテルから取って返し、〈塔〉の登頂を再開しようとしたとき、ドッペルちゃんの姿がなかった。


「あれソフィア、メイド服嫌がってんたじゃ……」


 言ってから気づいた。俺の隣に、元のブレザーに戻ったご本人がいることを。

 ソフィアが『ま~たおバカなこと口走ってる』という顔つきになった。

 でも俺の視覚には、女子高生のソフィアとメイドの彼女が映っているのだ。

 同じ人物が同空間に二名。正真正銘ドッペルゲンガーだった。

 ならメイド版ソフィアがドッペルちゃんなのか。

 俺は瞳を閉じ、鮮明にイメージする。俺の初恋相手、ローツインテールのミナミを。

 両目を開けると、ドッペルちゃんは平素の幼女メイドに戻っていた。俺は安堵のため息をつく。

 危ない危ない。これじゃまるで、俺がソフィアに首ったけみたいじゃん。

 もしかすると俺は思春期特有の病に罹患してるんじゃなかろうか。夢枕に立った芸能人へフォーリンラブ、という少年の不合理な宿命だ。

 ここは夢の世界だし、ソフィアは読モ。くしくも条件は整ってる。

 頭を冷やせ、俺。恋に落ちるのはリアル世界にしよう。

 熱に浮かされた気分のこっちのみならず、向こうでもソフィアにいとしさがあるなら、それはきっと宙ぶらりんじゃない本物の想いだ。俺は自分自身を祝福するとともに、彼女へ思いの丈を伝えられる。

 己に脈づく等身大の真心を知るためにも〈塔〉の残り、制覇しないとな。



≒ ≒ ≒ ≒ ≒



 八階は迷宮区だった。それも天井を除いた全方位、鏡張りになっている。合わせ鏡の中に虚像の俺がわんさかいて、酔いそうだ。


「ツバサ、迷路が苦手だったか。それとも鏡に映る自分が嫌いとか」

「どちらにも嫌悪感はないな。目がないほど好き、というわけでもないが」


 ツバサの歯に衣着せない回答は、ふてぶてしいほどだ。不得意なものに囲まれて、気が滅入ったふうもない。

 俺の予測、大外れだったか。

 六階はソフィアを追いこむ誹謗中傷ラッシュ、七階は俺のトラウマを狙い撃ちでえぐる隠し球。とくれば八階はツバサの古傷に関連したフロアだと、当て推量したんだが。

 もっとも、ツバサを苦しめたいなら『発酵食品フルコース』くらいえげつなくないと、毒にも薬にもならないかもな。単に俺が法則性を見誤っただけか。


「今のは忘れてくれ。ちなみにこのフロア、瞬殺しちゃう裏技思いついたんだけど、聞きたいか?」


 俺が挑戦的に尋ねると、ツバサは懐疑的にうなずいた。

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