[3―1]海は広いな大きいな
〈塔〉の七階は水槽だった。階下から登ってくる階段の踊り場が唯一の陸地で、フロアがH2Oで満ちている。試しになめてみるとしょっぱかった。
ご丁寧にも海水で覆われたステージなのだ。『泳いで渡れ』って趣旨なんだろうけど、行く手を阻むものがある。
岩山だ。
フロアの端から端まで岩場が絶え間なく連なっており、向こうの見晴らしを遮っている。少年漫画の金字塔を築いた『ワンピース』の、レッドラインみたいなものだろう。
「つーか、どうやって泳ぎゃいいんだよ。水着なんてねぇぞ」
俺のささやきと同時に、ツバサが着水していた。しかも学ランをまとったままである。
「おいおい、大胆だな。せめて準備体操してから入れよ」
みなもに気泡が二つ三つ上がってきたと思ったら、ツバサも顔を出した。ぷかぷか漂いながら空気を吸いこむ。
「たまには水浴びも悪くない」
「おまえの趣味って、着衣水泳だっけ」
「今後、履歴書のプロフィール欄にしたためようかな」
「心にもないこと言ってないで、状況を教えろよ」
ツバサはラッコのように背泳ぎしつつ、
「連綿とした枝葉末節で、冗長になりがちなおまえを見習ったのだが」
こんにゃろめ。ろうそくを具象化して、ろう人形にしてやろうか。
俺がひとにらみするとツバサは悪びれもせず、
「底が浅い。水深は二メートル強、というところだろう。水底を歩くこともできるので、服を着たままで支障ない。こなたとかなたを隔てる岩山には、トンネルがあった。ゴールまでの道程と推測される」
「トラップのたぐいはあったか」
「いいや。強いて言うなら、カナヅチには敷居が高いといったところか」
「ソフィア、泳ぎはいける?」
ソフィアはこくりと首を縦に振る。
「割と得意。小学生のころ、スイミングスクールで習ってたの」
「そっか。俺は可もなく不可もなし、って感じ。だからむしろ、君に導いてもらうことになるかも」
「任せて、と言いたいところだけど」
ソフィアは尻すぼみになって、スカートをつまむ。
「制服で水泳した経験はないから」
確かに、そんな珍妙な体験している人は世界広しと言えど、希少だろう。
俺はおもむろにベルトを外し、スラックスを脱ぎ始める。
「%&$#¥*@」
ソフィアが顔を赤らめて取り乱した。
ツバサが立泳ぎしながら言う。
「ケン、白昼堂々ストリップを始めるな」
「アホぬかせ。俺は露出狂じゃないやい」
抗議して、俺は脱いだズボンをソフィアに差し出す。
「水中じゃスカートめくれちゃうだろ。レギンス代わりに使って」
俺の意をくみ取ったのか、ソフィアがおっかなびっくりスラックスを手に取った。何度もひっくり返して吟味するだけで、履こうとはしない。
「呪いのアイテムとかじゃないって。嫌なら返してくれ」
トランクス一丁でピエロ感がうなぎ登りな俺は、手を伸ばした。
するとソフィアが闘牛士よろしく、ひらりとかわす。
「早とちりしないで。誰も『着ない』と言ってない」
あっかんべーと舌を見せ、学生ズボンに足を通し始めた。
「かわいくないな。ホテルでのしおらしさ、思い出して欲しいよ」
「そ、その話はしないでったら。二人だけの秘密でしょ」
「そうだっけ? 俺は口止めされた覚え、ないけどね」
「むぅ~、憎たらしい。どうして私、こんな男の子のこと……」
ソフィアは何か言いかけて、セリフを止めた。
「やんなっちゃう。ケンくんといると、ペース乱されっぱなしで」
そっくりそのまま、お返しいたしますとも。俺だってソフィアといると調子が狂う。
彼女のことばかり注視しちゃって、周りが見えなくなるときあるから。
「二人ともぼくの知らぬ間に、ずいぶん懇意になったんだな」
「おうとも。何を隠そうこのたび、お付き合いすることと相成りました。俺たち、幸せになります」
愕然としたのか、ツバサが沈没した。すぐさま水面に上がってくる。
「ぷはっ。ケンが美少女と真剣交際? 冗談は顔だけにしろ。ソフィアくん、ケンのやつ妄執でとち狂い、君と恋仲とかほざいているぞ。ぼくが断罪してやろうか」
ソフィアが両手をふりふりする。
「そ、それには及ばないよ、ツバサくん。私たち、そういう関係じゃないから。ケンくんが不遇な私の身を案じて、交際を申し出てくれて──あの、『好き』とは別次元の感情の発露というか」
ソフィアさん。それじゃ「偽のカップルです」って伝わらないよ。どっちかというと、俺が弱みにつけこんで交際を迫った、みたいなニュアンスに聞こえるんですけど。
されどもツバサは揚げ足を取ってこなかった。俺を、ためつすがめつしてくるだけ。
「ふんっ。二人がねんごろになろうと、ぼくのあずかり知らぬことだ。先を急ぐぞ」
言うなり潜水してしまう。
「変なやつ。ま、いいや。俺たちも行こうか」
「う、うん」
俺とソフィアはそろって、足から垂直に飛びこみした。
準備運動はしなくてよかったらしい。水温が高かったからだ。旅行したことはないけど、沖縄とかの海に近いのかもしれない。
視界は良好。ヒトデやサンゴ礁、熱帯魚が泳いでいれば、常夏のリゾートっぽい雰囲気出たんだろうけど、あいにく生物は見当たらなかった。岩陰に隠れているのだろうか。
俺は浅い海底を歩いてる。水びたしの衣服が重たく感じるけど、泳ぐわけじゃないので、さほど苦にならない。ホースの長いオーダーメイドのシュノーケルを具現化させ、海面上から空気を吸引している。海底トンネルまでは酸素切れのおそれがない。
俺は斜め前を見た。同じく特注のシュノーケルで海中散歩する、美少女がいる。金髪が水にたゆたい、なんとも幻想的だ。ただ、スカートの下に学生ズボンという合わせ技は、いただけないな。読者モデルにさせるべき服装ではなかった。
まぁ装束という観点では、ソフィアより俺のほうがエキセントリックだけど。学ランの上着の下がパンいちで、足元が靴下とスニーカー。極めつけが目元と口元を覆うゴーグルタイプのシュノーケルだ。真性の変態にもセンスを疑われそうな、ダサい格好を余儀なくされている。
水着をマテリアライズする、という考えもあるにはあった。けどそうすると、俺たちがもともと身にまとってる制服を、いかに運搬するかの問題が生ずる。多少のカッコ悪さはやむなしと判断し、俺たちは着衣水泳を選択した。
正直言えば、ソフィアの水着姿は拝みたかったけどね。ビキニなんかにしてもらえると、目の保養になったろう。下半身方面からパッションが湧いてきたに違いな──
俺の邪念を感知したのか、ソフィアが後ろを振り返った。
うぐあっ。
言葉を発せないので、俺は首を振って無実をアピールする。視姦はアウトだろうけど、妄想するだけなら法に触れないはずだ。
ソフィアが小首をかしげる。それから前方を指さした。
海底トンネルの真ん前まで来た、ということを示唆したかったらしい。
ふー。水中にもかかわらず、俺は額の汗を拭う仕草をした。
目いっぱい空気を肺にためこみ、シュノーケルのパイプを消す。トンネルを抜けるまで酸素の供給源がない。
ゴツゴツした岩山に、楕円を輪切りしたような空洞がぽっかり開いている。穴の全長は二五メートルプールの半分くらいか。水着で泳ぐ分には楽勝の部類かもしれない。ただし服を着たまま歩くには、黄色信号の距離感だ。
ツバサ・ソフィアの順番でトンネルへと分け入る。俺は最後尾だ。念のため後方に異常がないか目を光らす。
特に不穏な動きはない。ここのフロアは、どれだけ長く息をしないでいられるか、我慢大会ふうの試練なのだろう。
ツバサがトンネルの折り返し地点を超えた。
しんがりの俺は半ば以上残っている計算だけど、息苦しくなってくる。ただ呼吸を辛抱すればいい、って話じゃない。
息を止めたまま歩み続けなければならないのだ。細胞の一つ一つを燃焼させるためにも酸素が消費される。空気の欠乏は必至だった。
もう一度後ろを振り返る。
やはり何もな──いや、あれはなんだ。糸のようなものが水中で動作したような。
俺は目を凝らした。
…………っ!
糸の正体が驚天動地で、俺の口から貴重な酸素が漏れた。
どうして。さっきは敵影なんてなかったのに。俺は前後不覚に陥った。
身をくねらせて接近してくる生き物。〝海蛇〟が一匹いるのだ。しかもでっかい。
俺たちを不倶戴天の敵とでも認知しているのか、ただならぬ害意があるらしい。鋭い牙を輝かせ、みるみるうちに間合いを詰めてくる。泳力が尋常じゃない。
山の中で蛇に噛まれた記憶がフラッシュバックする。痛みが克明によみがえり、怯懦で気が狂いそうだった。
俺にとって蛇は天敵だ。体長の大小にかかわらず、怖い。しかもこの海蛇は特大サイズ。『シーサーペント』と言われたって違和感がない。
パニクる頭の片隅で、何かが警鐘を鳴らした。
──ツバサとソフィアを逃さなきゃ。
前衛の二人に危険を知らせるのが、後衛を任された俺のノルマじゃないか!
俺は自身を鼓舞し、おもいっきりソフィアを突き飛ばした。
ソフィアはつんのめり、何ごとかと振り向く。そして青い瞳に海蛇を映した。水をかき分けて前へ進む。
彼女の逼迫したアクションで、ツバサも事態を察したらしい。前進の速度を上げた。
二人が月面散歩の要領で逃げていく。
ああ、よかった。これで最低限の責務は果たした。そして俺は気づく。
死地が去ったわけではないことを。




