[2―5]納豆への不穏当な怨恨
その勢いで六階進出もありだったが、俺はシャトレーゼへの帰還を強弁した。ソフィアとツバサの白い目に耐えきれなかったのだ。
くさやのにおいが俺の衣服や総身に染みついているらしい。やつらは俺の傍らに来るとうっとうしそうに鼻をつまみ、俺を病原菌か疫病神のごとく扱う。いいや、鼻つまみ者のほうがぴったりか。
フロア攻略の功労者にあんまりな仕打ちだろ。恩をあだで返すとは、まさにこのこと。
熱いシャワーで徹底的に消臭せねば、気が済まない。
俺の訴えはすんなり通った。異論を差し挟まなかったのは喜ばしいけど、暗に俺のことを『異臭製造機』と見立てているみたいで釈然としない。
まぁいっか。お湯で身も心も清めるとしよう。
「お盛んですね。わたくしの差し入れが効果てきめんだったのでしょうか」
俺たち一行が〈塔〉をあとにする間際、ドッペルちゃんがガッツポーズした。
脱力し、否定する気もうせたよ。もう何もかも、水ならぬ熱湯に流したい。
ビジネスホテルの湯船で俺は丹念に全身を洗った。髪も三回シャンプーしたし、石けんで二度肌という肌を隈なく磨く。
パーフェクトだ。雑菌が繁殖する余地はない。
俺は体中ピカピカにして、ロビーでソフィアたちと合流した。
「どうだツバサ、俺は無味無臭だぜ」
ツバサは鼻で嗅ごうともせず、顔をしかめる。
「確かめる気など毛頭ないが、腐臭と腐った味がするのだろうな。おまえの通り名を今後、『くさや』か『ゾンビ』にしてやろう」
「なんだと!!」
「目くじら立てないで、くさ──じゃなかった、ケンくん」
仲裁に入ったソフィアが俺を不名誉な二つ名で呼びかけ、さりげなくお鼻を手のひらで覆っていることがダメ押しだった。へこむわ~。
「ツバサくん謝って。ケンくんの生気が抜けてる」
「いや、自覚ないのか君。引導を渡したのは、ほかならぬソフィアくんだと思うが」
「往生際悪いよ。私の目が黒いうちは、ごまかしなんてできないんだから」
ソフィアが胸をそり返らせた。
「君の目玉は掛け値なしのブルーだろうに」
ツバサのぼやきは的確だったが、精彩を欠く俺は座布団一枚進呈する余力もなかった。
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「面目ない。ぼくも感情的になりすぎた」
ソフィアに促されたからでもないのだろうけど〈塔〉の六階へ至る道すがら、ツバサが陳謝してきた。
「気にしてないって。けど泰然自若なおまえでも、激情にかられることがあるのな」
「ぼくは発酵食品を敬遠してるんだ。もはや『憎悪』とさえ言えるかもしれない」
「おまえも人の子だな。食えない物があったのか」
ツバサが苦虫を噛み潰したような面持ちになる。
「あんな物食すやつの、神経を疑う。腐ってるということは、猛毒のサインだろうに」
「微生物利用して加工してるんだから、厳密には腐らせたわけじゃないだろ。つーかどの辺がアウトなわけ。味噌汁は?」
「かろうじて許せる」
味噌でギリセーフか。ハードル高いな。
「んじゃ、チーズはどうよ」
「あんなゲテモノ、ネズミにでもくれてやればいい」
「おいおい、穏やかじゃないな。チーズ職人からバッシングの嵐がくるぞ」
「望むところだ。一人残らず駆逐してやる」
おまえはどこの調査兵団だ。そして八つ当たりがすぎるぞ。
こいつの敵視が病的なことは分かってきた。
「じゃあお待ちかねのとっておきな。ねばねば納豆はどうだね、ツバサくん」
ツバサが地縛霊のごとく首だけぐりんと回し、二つの眼球で俺を直視する。
「金輪際、ぼくの前でその〝忌み名〟を口にするな。耳にするだけで鳥肌が立つ」
こ、こえー。病んだ圧力がパないんですけど。
目を合わせてない後方のソフィアまで、歯の根が合っていない。
「も、もしも禁忌を破ったら?」
「お天道様の下を歩けない肉体になるやもしれんな。うかつな行動に出ないことだ。蛮勇は身を滅ぼすぞ」
俺、吸血鬼になっちゃうの?
さておき、ツバサにとっての最大のタブーを胸に刻んだ。
「というかケンは嫌いじゃないのか。あんな……腐敗した豆製品」
こいつにかかれば、納豆は『腐り落ちた大豆食品』らしい。
「むしろ好物の部類だよ。チナツ姉さんだって週三くらいの割合で食って──」
「やめろ、聞きたくない!!」
ツバサが金切り声をあげて両耳をふさいだ。
「ウソだ。味音痴のケンならまだしも、高貴なチナツさんに限って、あんな忌まわしい物を口に含むなんて」
なぜだろう。ツッコんだら負けの気がしてくるのは。
「け、賢明なソフィアくんは腐乱した豆、忌避しているだろう」
ソフィアは目線をさまよわせたあと言った。
「週に二回は食べてる」
「し、信じられん。神は死んだ。ラグナロクが近い」
この美男子、言うに事欠いて『神々の黄昏』までぶっ飛びやがった。親友の脳内回路、ショートしちゃったらしい。
ツバサはその後しばらく口を開かなくなった。
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『やけに階段が長いな』と思っていたら、踊り場に着いた。どうやらとっくに六階へ突入していたようだ。
ツバサとのバカ話に気を取られ、見落としていたけれど、壁も模様も様変わりしてる。見慣れたコンクリート製だ。そして掲示物が貼ってある。踊り場と階段の床はリノリウムだった。
「中学とか高校っぽい風景だな」
俺は率直な感想を述べた。
曖昧な表現にとどめたのは、階段以外進めないためだ。各階につながるはずの連絡通路に防火扉が閉まっており、押しても引いてもびくともしない。溶接で厳重封鎖されているみたいだった。
「扉の奥はバイオハザード的な冥府で、アンデッドがうようよとか」
俺は防火扉をノックしながら、おちゃらけてみた。
いつもなら「くだらないことをくっちゃべるな」とツバサがいさめてくるはずなのに、一言たりと口にしない。納豆談義が尾を引いているのかも。
その代わりなのか、ソフィアが泡食っている。
「そ、そんな……あり得ない」
「ん? どしたの、ソフィア」
「た、たぶん」
ソフィアは周囲をキョロキョロして、言葉を紡ぐ。
「ここ、私の学校──」
「え。君が通う女子校の校舎ってこと?」
俺の質問に、ソフィアはうなずきで答えた。
ますます世界観が茫漠としてきたぞ。二階・三階はまだしも、四階洞窟、五階が闘技場ときて、ソフィアの母校だもんな。このしっちゃかめっちゃかさ、夢らしいと言えなくもないけど。
ソフィアはホームグラウンドで活発になるどころか、狼狽している。
順当な反応かもしれないな。いきなり俺も通う高校へほうりこまれたら「夢の中くらい勘弁してよ。融通きかねぇな」と思っちゃいそうだし。
んじゃ凝り固まった気分、ほぐしてあげますか。
「この分だと、ソフィアの教室へ行けそうもないな。あーあ、ざ~んねん」
「ど、どうして?」
ソフィアが俺の腹のうちを探ろうとした。
「だって体操服のブルマをくんかくんかしたり、縦笛ペロペロできないじゃん」
「た、体操着は普通のジャージよっ。それに小学生じゃないんだから、リコーダーなんて持ってきません!!」
白金のロングヘアを振り乱して声を荒らげるソフィア。耳まで真っ赤にして、俺をポカスカはたいてきた。
俺は素知らぬ顔で階段の上へと避難する。
「ならばジャージに染みついた神々しい体臭、堪能させてもらうってのはいかがだろう」
「やらせるわけないでしょ。逃げるな、卑怯者!」
ソフィアが息巻いて、追っかけてきた。
「鬼さんこちら、手の鳴るほうへ」
俺は拍手して逃亡を続け、階段での追いかけっこが火ぶたを切った。
ソフィアのやつ、こんだけ走れるってことは気負いもなくなったろう。ただギアの入れ具合がおかしなことになっとる。俺をひっとらえて処刑すらしそうな勢いだ。奮起させるばかりか目測を誤り、大魔神にさせちゃったのかもしれない。
俺は泥棒になった心境で逃げまくる。屋上の扉を開けるころには、呼吸が千々に乱れていた。両ひざに手を置き、口から肺へ酸素を送りこむ。
「はぁ、はぁ、捕まえ、た。不届きな性根、たたき直して、あげる」
遅れて屋上にやってきたソフィアは、俺を羽交い絞めにした。俺より持久力あるらしい。チョークスリーパーの位置取りも正確だ。俺ののど仏を寸分の狂いなく押さえつける。
「ぎ、ギブ。俺の負け、だって」
彼女の上腕をタップした。ソフィアが腕力を緩めたことで、まともに呼吸できるようになる。俺は四つんばいになって、えずいた。
「良い薬になったでしょ。二度と下ネタでからかわないでね」
「ごほっ……わかり、ました。ソフィア様の、仰せのままに」
今の言葉になけなしの誠実さを見いだしたのか、ソフィアが俺の背中をさすった。
「私もやりすぎちゃった。ケンくんが相手だと、どうも無遠慮になるみたいで」
はしゃぐべきか憂うべきか、俺には分からない。ただ一つ、いやが応でも悟った。
俺は宝翔ソフィアに頭が上がらない、と。
「隅に置けないな、ソフィア」
聞きなじみのない声が響き、俺は周囲を見渡した。
ぐるりをフェンスに囲まれた屋上で、下はアスファルトに覆われてる。金網の奥は虚無のごとき一面の闇夜。階段直通の出入口正面に給水塔がある。半ば壁面にめりこんでおり、壁伝いに階段が連なっていた。あそこが当フロアの終点に違いない。
ゴールの給水塔付近に、四名の女子生徒がたむろしていた。皆、ソフィアと同タイプのブレザー姿だ。ほかに人影もないし、難度の低いステージなのかも。
四人の中で先頭切って歩いてくる女の子がいる。
「マオ、ちゃん」
ソフィアがつぶやいた。腰が引けている。
「男子禁制の学びやに、彼氏を連れこむとはね」
少女マオが腰に手を当てて立ち止まる。
前髪パッツンの器量よしだけど、つり目のせいか勝ち気な印象──というかドS顔だ。スカート丈が短い。思念体同士はかち合わないらしいから、モブキャラなのだろう。




