[2―2]踏んだり蹴ったり
「やばくない、かな。逃げたほうがいいよ」
ソフィアも異音を耳にしたのだろう。弱気になった。
「どこへさ。横道はないし、来たルートを引き返すしか」
「じゃあ戻ろう」
ソフィアが俺の制服の袖をつまんだ。
「物理的にそんな猶予、残されてないな。〝鉄砲水〟らしい」
ツバサがはるか前方に目を凝らしていた。口調はすこぶる平淡。アクシデントで浮き足立つ素振りもない。
「は、走っても追いつかれんじゃん。どうするよツバサ」
遠くから押し寄せる水の塊を視認し、俺はパニックになりかけた。
傾斜がなだらかなので激流じゃないけど、前方から刻一刻と川が迫ってくるかのごときダイナミックさだ。とても平静じゃいられない。
ツバサが作戦立案を試みる。
「堤防をクリエイトしたところで付け焼き刃か。濁流の勢いを殺せるとは思えない。平面で対処不能なら、立体的な逃避にしてやれば」
ほら穴の壁を隆起させ、器用によじ登っていった。
「なるほど!」俺は指パッチンした。「水流とは無縁の安全地帯に逃げればいいのか」
虚をつかれて動転したものの、解決策が分かればお手の物。俺もツバサをマネして事象改変し、反対側の壁をでっぱらせてボルダリングする。
残るは──
「ソフィア、もたもたしてないで早く上に」
彼女は両手をかざしているものの、壁面に目覚ましい兆候が現れない。しきりに横目で、迫りくる鉄砲水をうかがっていた。
気が散っている。
事象改変もマテリアライズも思惟の産物だ。卓越した使用者だろうとも集中が乱れれば能力が結実しないどころか、草一本動かすことすらままならない。
指をくわえていては奔流に飲みこまれる!
俺は足場を肥大化させ、強度を高めた。その場にひざをつく。
「つかまって。引き上げるから」
眼下へ手を伸ばした。
「でも私、足を引っ張りたくない──」
「誰にでもスランプくらいあるって。互いに補い合うのが『仲間』じゃん」
ソフィアは意を決したように俺の手をつかんだ。
「ふんすっ」
一本釣りの要領で、繊手を持ち上げる。
ソフィアが見た目通りの軽量級でラッキーだった。なんとか釣り上げに成功。
けれども俺がこさえた足場は二人用にしちゃ狭苦しい。てんでバラバラに配置すると、ただちに定員オーバーしてしまう。適切な収容を苦心しなくちゃ。
苦肉の策でソフィアを壁側に立たせ、互いの服がくっつくほど肉薄する。
「ば、場合が場合だから、不快な姿勢かもしれないけど我慢して」
俺はソフィアの耳元で詫びを入れた。
「い、嫌じゃないよ。ただケンくんの吐息が耳たぶに当たって……く、くすぐったい」
彼女が碧眼のみを上向けて、恥じらいがちに言った。
「ううん、照れるのはあとだね。助けてもらっておきながらお礼もなしなんて、恩知らずすぎる。ケンくん、どうもありがとう。また借りができちゃった」
鉄砲水の第一陣が、俺たちの足の下を通過した。
「水臭いな。俺が好きでやってることだから、貸し借りなんて考えなくていいよ。つーか古今東西男って生き物は、喜び勇んで麗しの美女に手を貸しちゃうの。パブロフの犬的な、『DNAに刻みこまれた哀れな習性』って感じかな」
負い目を感じてもらいたくなくておどけたつもりだったけど、ソフィアはほっぺを赤く染めるだけで、なんら言い返してこない。
不発でむなしかったので、知己に賛同を求めてみる。
「ツバサは分かるよな」
当のツバサは俺の呼びかけなど意に介さず、水の流れを目視している。
「やっとこさ終端か。存外長かったな」
鉄砲水が去ったのを確認し、ツバサは湿り気を帯びた地面に降り立つ。
「ケンも壁ドンしてないで下に直れ。苦境のどさくさで女子を口説くなど、言語道断だ」
こいつときたら、とんちきトークしてるよ。俺は軽妙洒脱な悪態つこうとして、はたと気づいた。
ソフィアが壁際に立ち、俺は彼女の真正面に屹立。そしてソフィアの肩の上付近に手を置き、体を支えている。互いの呼気が肌に当たるほどの、密着度合いだ。
これが俗にいう『壁ドン』でなく、なんと表現すればよいのやら。
当然の帰結で、俺の唇の高さに魅惑の小顔がある。
ともあれ至近距離で見ると、芸術的にきれいだ。群青の双眸は澄み切っているし、金色のまつげも長い。あごのラインもシャープだな。唇だって艶めかしくぬれて──
「ケンくん、近いからっ」
ツバサの壁ドン発言は、照れ屋さんソフィアの羞恥メーターを振りきったらしい。俺を両手で押しのけた。
「え?」
俺は後ろざまに体勢を崩す。ここは岩棚の上なので落下するのは、火を見るより明らか。せめて衝撃を緩和すべく、柔道式の受け身を取る。
「せいっ」
ただし俺は失念していた。当フロアが洞窟であることを。
畳でなく岩の上で受け身すれば、どうなるか──途方もなく痛いのだ。後頭部の強打を免れたとはいえ、両腕と背中に尋常でない疼痛が走る。
加えて俺が事象への干渉を維持しきれなかったことにより、
「きゃあぁぁ~~」
ヒロインが上空から降ってきた。いわゆる『落ちもの』だろうか。
ソフィアのニードロップが俺のみぞおちに炸裂する。
「ぐほっ」
うめき声が出たはずみに、肺の酸素が残らず排出される。ソフィアのひざと固い地面のサンドイッチ状態で、まさに泣きっ面にハチだった。
唯一役得があるとすれば、ソフィアが俺の腹の上で馬乗りになってること。
俺は丹田の感度を最大限にする。腹部の触覚を鋭敏にし、秘密の花園を心ゆくまで堪能──なんて離れ業は、無から有を創造する超能力をもってしても実現不可だった。
でも、我が生涯に一片の悔いなし。
なにせ、金髪美少女にまたがられて昇天できるのだから。
「君が無傷で……良かれけり」
俺は辞世の句を残し、ぱたりと頬を地面につけた。
「ケン、くん? 起きてよ。こんな所で死なないで!!」
事切れた俺の襟首をつかみ、マウントポジションのソフィア嬢は力いっぱい揺さぶった。故人をいたわる奥ゆかしさがない。俺の横顔が幾度となく岩肌に打ちつけられる。
遺体だけに痛いって。完膚なきまで、とどめを刺さないで欲しい。どうせなら人工呼吸とか試してくれればいいのに。そしたら天にも昇る心地となるに違いない。
ツバサが俺の脇腹に軽めのトーキックをかました。
「おっと、すまん。足元が暗くて、ついやってしまった」
「ってーな。ピンポイントで肋骨狙う偶然が、どこにあるんだよ!」
俺は憤慨して猛抗議した。
「け、ケンくん。お亡くなりになったんじゃ……」
ソフィアは『阿部倉ケン死亡説』を信じて疑わなかったらしい。目尻にうっすらと涙が浮かんでいる。
化けの皮がはがれた罪悪感、半端ない。軽々しく『死』を演じるのは不謹慎だった。
「いや、うん。とにかくごめん、ソフィア」
「くどくど弁解しないことだけは殊勝だな。これに懲りたら非業の死を遂げる豪傑ごっこで油売ってないで、立つんだケン」
「私も押し潰しちゃったこと、謝らないと」
「気遣い無用だ。ケンがこうむった艱難辛苦と損害は、因果応報だから」
ツバサの談話に、ソフィアは首をひねった。
俺は返す言葉もなく、体を起こして服についた汚れを払う。
ツバサは水流が襲ってきた進行方向を指さし、
「そして皆に凶報がある。このステージは二段構えらしい」
地響きめいた不吉なノイズが、再び鼓膜を震わせる。
水攻め第二弾かと思って前方を視界にとらえ、俺はぎょっとした。
壁そのものが迫ってくるではないか。
いや、あれは──
「道幅にジャストフィットの〝大岩〟だ」
ツバサが俺の内心を先回りした。
通路との隙間がほぼ見当たらないので、壁と誤認したのだ。
「おお、おいっ、ツバサ。何か打開策は」
「今のところない。穴ぼこが無数にあった避難エリアまで走れ」
ツバサは電光石火で身を翻し、入口方向へ駆け下りた。
「ソフィアもツバサについていって。ダッシュ!」
ソフィアをたきつけ、俺は逃避行のしんがりを務めた。
三者三様に、一心不乱で順路を逆走する。
俺は疾走しつつ、後ろをちらりと見やった。
圧壊せんと、プレッシャーをかけて転がり続ける岩石。
鉄砲水と違い、天井付近に退避したところでなぎ倒されるだけだ。ツバサの『逃走あるべし』という消極策は理にかなっている。ただしトップスピードで走り通しなんてのは、体力的にも精神的にも持続すると思えない。
通路の横っちょにうがたれたミステリーサークルは、鉄砲水と大岩をやり過ごすための待機場所なのだろう。でもそこまで岩と根比べ、やりきれるか?
「はぁ、はぁ、はぁ」
現にソフィアは息も絶え絶えになっている。
かく言う俺だって、いつスタミナが切れてもおかしくない。ツバサも同様だろう。
今のペースだと遠からず岩の下敷きで、全滅となる。
「ミスったら罰ゲームで矢が飛んでくるとか、岩石にエンドレスで追いかけられるとか、落とし穴地帯とか、ベタすぎるっつーの」
音を上げて俺は思うさま、当たり散らしてやった。
んんっ? 吐露したぼやきに生存戦略の糸口、かいま見えなかったか。
『矢』『岩石』『落とし穴』
……そっか。逃げ道がないなら、〝作ればいい〟じゃん。
俺たちにはそれができる。
「もぐら作戦だ、ツバサ! 穴掘って地中に潜るぞ」
ツバサが全速力で走りつつ振り向いた。
「盲点だった。で、ぼくは何をすればいい」
「三人用の隠れ家だから、ソフィアと入念にとりかかりたい。なるべく時間稼いでくれ」
「ことは一刻を争うか。いいだろう。ケンにぼくの命、預ける。ヘマするなよ」




