杉田麻里
麻里がキャンパスを歩いていると、後ろから声が掛けられた。
「麻里、おはよ! 今日って二限取ってたっけ?」
時刻は、一限目の授業がそろそろ終わるかどうか、というところ。麻里と同じ電車を降りた周囲の学生たちは、確かに二限目の開始に合わせて来ている人が多いだろう。振り返って、声を掛けてきたのが同じ課の香澄なことを確かめながら、でも、麻里は首を振った。
「おはよ。ううん、午後からなんだけど、食堂で予習してようかと思って」
「あ、同じだ。一緒して良い?」
「うん、もちろん」
追いついて隣に並んだ香澄に、麻里は笑って頷いて見せた。図書館ではなく食堂で予習をしようとしていたのは、誰かしら知人と遭遇する可能性を期待してのことだったから。静かな場所で、ひとりで黙々と勉強するよりも、ほど良い喧騒の中、時々雑談を挟みながらの方がはかどる気がする。大学を選んだ理由のひとつは、明るく開放的な学食とそのメニューに惹かれたからでもあったし。できるだけ施設を利用したいという思惑もあった。
ランチタイム前の食堂は、まだ空いていた。窓際のテーブルに陣取って、課題の本をペンと付箋を駆使しながら読んでいく。香澄は英語の課題に取り組んでいるようで、教科書とプリントを広げている――と、思っていたら、香澄はスマートフォンを覗き込んでいた。
「沙耶香も来るって。食堂にいるって呟いたら、行こうかな、って」
「じゃあ席取っとかないとね」
共通の友人の名前を聞いて、麻里はすかさずバッグを隣の席に置いた。二限目が終わればちょうど昼食時で、食堂も込み合うだろうから。もちろん、ただ場所を占有するだけなんてマナー違反だから、今日はこのままここでランチにするのも良いかもしれない。時計代わりにテーブルに置いたスマートフォンで時間を確認しながら、そんなことを思う。
「私も呟いてみる。人数多い方が楽しいよね?」
「あ、良いね。風花とか柚希とか来ないかなあ」
麻里の提案に、香澄も共通の友人たちの名前を挙げて笑った。風花も柚希も、大学の近くに一人暮らしをしているから、麻里の呼びかけを見たら授業がなくても家を出てくれるかもしれない。
こんな風にスマートフォンで、SNS経由で友人たちと連絡を取るなんて、かつての麻里なら信じられないことだった。高校時代のある時期以降、彼女は必要最低限の用でしかスマートフォンを使っていなかったから。
そのこと自体は、本当に良いことだったと思う。勉強の合間の息抜きだとあの頃は思っていたけど、睡眠時間なりリラックスの時間なりが削られていた訳だし、人間関係も煩わしかった。余計なことに気を取られなくなったお陰で勉強に集中できたし――だから、志望の大学に合格できた、ということもあるかもしれない。スマートフォンから離れる切っ掛けになった中学校時代の同級生、瞳に感謝するなんてことは、決してないのだけど。
ただ、高校時代ならそれで良くても、大学生活が始まるとそうも言っていれらなくなった。決まった教室や時間割がある訳でもないから、新しい友人たちとの待ち合わせにはスマートフォンを使わないといけないし。それぞれの住まいも高校時代よりも遥かに広い範囲に散らばっているし、ふらりと海外旅行や短期留学に行ってしまう子もいるし。そういう訳で、麻里も自然にまたSNSを使うようになっていた。
さすがに大学生にもなると、友人の投稿の全てに「いいね」をつけなければいけない、なんてバカバカしい暗黙のルールはない。そもそも新しい友人たちは学力も興味の方向も同じこともあって、今では麻里も交流ツールとしてSNSを受け入れている。
「あ、いたいた。ここ私の席?」
「沙耶香、待ってたよ~」
「あ、返信来た。風花も後から来るって」
「じゃあ、場所取ってるだけじゃアレだね。なんか買ってくる」
「ついでに飲み物頼んで良い? ブラックじゃないコーヒーが良い!」
と、本を何ページも読み進めないうちにメンバーが増えて、勉強の場所というよりは雑談の場、女子会の様相を呈してくる。香澄がお菓子を買いに立ち上がったのを切っ掛けに、麻里は予習を諦めて本を閉じた。
チョコレートとクッキーの袋菓子に、人数分の飲み物を抱えて戻って来た香澄に礼を言って、お金を清算して。そこからはもう他愛ないお喋りが始まる。単位の取得状況とか、面白そうな、あるいは楽そうな授業の情報交換。それぞれのサークル活動についての出来事や、気になる男の子とか。それに――
「そういえば最近、面白いサイト見つけたんだ」
「何なに?」
「どんなの?」
そのサイトを見せてくれようというのか、スマートフォンを操作する香澄に、麻里も沙耶香も身を乗り出した。誰か芸能人のブログとか、心理テストができるところとか、幾つかの予想を思い浮かべながら。
「サイトっていうか、話題になってるアカウント、っていうか? なんかねえ、幽霊と友達になれるんだって!」
「え――」
「何それ、嘘お」
香澄が、重大な秘密を打ち明けるかのように声を潜めて囁いたことに、沙耶香は声を立てて笑った。麻里が絶句して凍り付く、その一方で。
「そういう設定のアカウント、ってことでしょ? 面白いの?」
「そうかもだけど、結構良くできてたんだよ? 紹介制でフォローしてもらえるの。で、『友達』になると怖いことが起きるとか、心霊写真が撮れるとか……フォロワーの反応込みで面白いっていうかさあ。名前が――何だったかな、ダメだ、ど忘れしちゃった」
「まさか花子さんじゃないよね?」
「それは絶対違うって!」
香澄と沙耶香が笑い合うのを聞きながら、麻里は心臓の鼓動がどんどん早まっていくのを感じていた。身体の変調はそれだけじゃない。喉が絞められたように苦しくて、手足から血の気が引いていくのが分かる。それでいて背中には汗が浮いて滴る感触がある。
幽霊のアカウント。友達。そんなキーワードが麻里に思い出させる影がある。高校生の頃、彼女がスマートフォンから離れることになった、まさにその原因の存在。友達からの紹介でフォローされる、一見はごく普通のアカウント。なのにその日から始まった恐怖。すぐ傍にまで迫った影。何かを訴えるかのように音もなく動いた青ざめた唇。
あれは、あのアカウントの名前は――
「――のりこさん?」
ぽろりと、零れる口から漏らすと、友人たちの失笑を買ってしまう。香澄も沙耶香も、突然何を言い出すんだ、という目で麻里を見てくる。彼女の表情が強張っているのには、全く気付かないで。
「麻里、何そのセンス! そんなダサい名前じゃなかったよお」
「はいはい、香澄、そんなに言うならそのアカウント見せてよ」
「あ、見れば早いもんね。ちょっと待ってね。フォローしといたからすぐ出てくるはず」
そのアカウントをフォローしてはいけない。もしも、万が一あれと同じような存在だったら、きっと怖いことが起きる。遊びでは済まない、本物がネットの海に紛れていることもあるのを、麻里は知ってしまっている。
「ダメ――」
制止しようとした声は、でも、香澄の耳に届くにはあまりに小さすぎた。恐怖の記憶が喉を絞めつけて、声を出すのを妨げていた。
香澄がスマートフォンの画面をこちらに向けて差し出してくる。麻里も見慣れた、SNSの画面だ。そこに表示されたアカウントは――
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