辻隆弘③
名前を呼ばれた隆弘は、近づいてきた人影を見て息を呑んだ。
スマートフォンのライトに気付いた時は、のりこさんのフォロワーが来たのかと思って冷汗を掻いたし、暗い中でも分かるほど泥まみれになった女の子の姿にもぎょっとさせられた。まだ高校生くらいだろうか。ほの白く浮かび上がる顔は引き攣っていて、大人なら問答無用でジャケットを差し出して保護しなければ、と思うべきところだろう。
でも、今の隆弘にとって問題になるのはそちらの子の方じゃない。もうひとり――人、とはもう言えないのかもしれないけれど。女の子と一緒に現れた白い影に、彼の目は釘付けになっていた。
「武井……!」
変わり果ててしまった、と思っていた。SNS上の都市伝説なんて呼ばれるようになってしまって、あちこちのブログやホームページで面白おかしく取り沙汰されて。そんな扱いが不快である以上に、知っている人間が明らかに死んだ姿で画像に写り込んでいるのは少なからぬショックだった。今夜、彼女と会う計画を立てながら、それが実現したら自分がどう感じるのか、不安でもあった。知人だった相手を怖いと思うのか、忌まわしいと思うのか。話なんて、できるのかどうか。
実際にこの瞬間になってみると、そんな心配は杞憂だった。確かに――比喩ではなく――透けるような白すぎる肌や、そこにいるのにどこか平面的な質感、温かみのなさは、彼女が生きた存在でないと突きつけている。その事実に、胸を刺されるような痛みはある。でも、耐えられる程度のものだ。ネット上にアップされた無数の画像で、慣れてしまっていたのかもしれない。恐怖や拒否感の代わりにこみ上げるのは、ただの懐かしさでしかなかった。
「……変わらないな」
いや、ただの懐かしさとは少し違うかもしれない。口から零れた呟きは、文字通りの意味でもあった。間近で見てみるとはっきり分かる。今の隆弘や、たまに会う同級生の女子に比べて、目の前の存在は幾らか若い。彼女が死んだ時の姿を、そのままとどめているかのように。そんな発見もまた、知人の死を改めて彼に思い知らせる。
彼の言葉に応えるように。武井法子の姿をしたその存在は、嬉しそうな寂しそうな、複雑な感情の入り交ざった微笑みを見せた。
サイレンの音はまだ聞こえている。矢野氏からの連絡は来ていないけれど、彼女が無事だからか、連絡を寄越すことができない状況だからなのかは分からない。問答無用でのりこさんのアカウント削除に踏み切る、と決めておいた時刻も近づいている。
時間がない。そよ風の広場がどうなっているか、どれだけの犠牲が出ているか、気になる。隆弘の感傷を満たすなら――武井法子に起きた事実を知るなら、今、手短に済ませてしまわないと。だから、余計なことを言っている暇などないはずだ。
「……お前に、何が起きたんだ? その、死んだ……んだよな? でも、誰もお前のこと知らなくて。気付いてないんだ。見つけてやりたいと、思ったんだけど……お前は、どこにいるんだ?」
でも、端的に聞きたいことだけを、と思っても、隆弘の言葉はまとまらなかった。さっきまでスマートフォンばかりを覗き込んで、現実での身体の使い方を忘れてしまったかのようだった。死体、という。決定的な単語をどうしても口にできなくて、余計に伝わりづらくなってしまっていただろう。本人を目の前にして、死体はどこだ、なんて言えるはずもないのだけど。
「…………」
言いたいことが、ちゃんと伝わったのなら良いのだけど。武井法子の色のない唇が微かに動いて、何ごとかを紡ごうとしたようだった。高校を卒業するまでは、この幼馴染はそれほどメイクはしていなかったと思う。でも、リップクリームくらいはつけていたはずだ。恋愛対象でなくても、女子のつやつやした唇にどきりとしてしまった記憶がある。隆弘の心臓が軋んだような痛みを訴えたのは、浮ついたのとは全く別の感情からではあったけど。彼が知っていた頃とはかけ離れて、今の武井法子はどうしようもなく死んでいた。
「……言ってることは分かる、んだな? 声が、出せないのか……?」
胸の痛みを無視して、隆弘は問いを重ねた。計画を練っている間に矢野氏と話していた懸念が蘇る。「のりこさん」――と、呼ばれる女性の幽霊――が喋った、という証言はない。今の武井法子は、生者に意志を伝える手段がないのではないだろうか。それなら――
(パスワードを使うしか、ないのか……!?)
折角ここまで来たのに。長谷川氏の犠牲や矢野氏の協力のもと、知らない人たちの悲鳴に耳を塞いでまで、この再会にこぎつけたというのに。隆弘が手の中のスマートフォンを握りしめた時――小さく高い声が、響いた。
「あ、あの……これ……」
もちろん、彼の記憶にある武井法子の声ではない。弱々しくか細いその声は、泥だらけの少女が発したものだった。彼女自身のものであろうスマートフォンを、隆弘に向って差し出している。ちらりとした目くばせで、武井法子を示しながら。
「この人からのメールです。えっと、声は出せないけど、メールは送れるみたいで……」
「君は……? 彼女の知り合いじゃないよな……?」
ほとんど意識の外に置いていた少女に突然話しかけられて、隆弘は目を瞠る。「のりこさん」はメールを送ることだってできる。長谷川氏のスマートフォンにもその履歴が残っていたというし。でも、そんなことができるなら、隆弘のところに送ってくれれば良いのに。年齢からして武井法子の知人だったという訳でもないだろうに、どうしてこんな子が、と。隆弘の声にも態度にも露骨に不審が滲んでしまう。それは相手の少女にも伝わたようで、ぱっちりとした目がおどおどと伏せられた。
「私……のりこさんをフォローしちゃったんで。フォロワーのところなら出られるって……だから、多分メールも」
「ああ……」
先ほどの隆弘と良い勝負の、しどろもどろの説明だった。でも、少し納得がいった。長谷川氏ものりこさんをフォローしていたはずだ。のりこさんにとってフォロワーが何か特別な存在であるのも、これまでのことで分かっている。フォロー関係にあることが何らかのトリガーになっているのは、むしろ当然のことだった。
少女のスマートフォンは隆弘のものとは違う機種だったけど、メールの閲覧くらいはさすがに直感的に操作できる。
受信フォルダを見ると、少女の友人らしい名前並ぶ上に、登録されていないアドレスからのメールが数件届いていた。少女のプライバシーを覗かないように気を付けながら、隆弘はnorikoという――彼も、見覚えがあるアドレスからのメールを開いた。
――皆をブロックしてたでしょ。ごめんね、心配しただろうし嫌な気分だよね
――あいつがやったことだけど、私のせい。隆弘を呼んだのも、ごめん
――でも、隆弘ならパスワード知ってると思ったから
パスワード、という単語がそこだけ浮き上がって見えるようだった。彼が――というか、そもそもは矢野氏が推理したのは間違っていなかったらしい、パスワードを使って武井法子のアカウントを消して欲しい、と。それこそが彼女の願いなのだ。でも、知りたいのはそこだけじゃない。画面の右上に表示される時刻を気にしながら、隆弘は再び口を開く。
「あいつは……のりこさんは、何なんだ……?」
スマートフォンが振動して、武井法子からの答えが届く。
――分からない。気付いたら、私のアカウントを使ってたの
――最初は気のせいかと思ったけど、知らないうちに投稿されてることが増えて
――それで、のっとられたの。その時に殺されたんだと思う
画面が放つ光に目を瞬かせながら、隆弘は短い文章を何度も読んだ。本人でさえも思う、と曖昧な言い方ではあるけれど、彼が気になっていたところは十分に明らかになったと言って良いだろう。のりこさんと武井法子は別の存在で、武井法子だってのっとられた被害者だった。ここまで騒ぎが大きくなった今になっても、その事実だけで隆弘は安堵の息を吐くことができる。
「それならお前は悪くない。お前は……助けてくれたりもしただろ。矢野さんって……分かる、か?」
矢野氏を覚えている、という意味だろう、武井法子は小さく頷いて――それから、大きく首を振った。私のせいだと、言葉によらず伝えようとするかのように。
――多分、あいつは私が生んだ
――フォロワーが欲しい、バズりたいって。リアルの友達が見えなくなるくらいハマっちゃって
――そういう気持ちから、あいつが出てきたんじゃないかと思う
「武井……」
のりこさんと矢野氏のやり取りを、隆弘はスマートフォン越しに見ていた。フォロワーを集めたい、注目されたい。そのために生まれてきたのだと、のりこさんは文字で吠えていた。
(それだけのために……?)
隆弘には信じがたい話だった。フォロワーと言ってもネットでの浅い付き合いだけ、顔も知らない相手ばかりだ。炎上するような形で注目されても嬉しいと思えない。そのため――たったそれだけのために、何人もの人が死んだのか。矢野氏の恋人だった、長谷川氏も。
バイブレーションの感覚が、立ち尽くす隆弘を我に返らせた。早く、と催促するようでもある。武井法子からの懇願だった。
――だから、私のアカウントを消して。お願い!
「分かった……」
スマートフォンの画面を隆弘に差し出している少女からは、メールの文面は全ては見えていないんだろう。見えていたとしても訳が分からないかもしれない。怯えたようなもの問いたげな視線を感じながら、少女のことを可哀想には思いながら。それでも隆弘は、説明で時間を無駄にすることなく自分のスマートフォンを操作した。何度も思い描いた瞬間が本当に訪れたのが、不思議な気がするほどだった。
「これで、合ってる、よな……?」
SNSのログイン画面に、武井法子のアドレスと、パスワードを入力する。練習してきたから数秒も掛からない。完了したところで、隆弘は画面を武井法子に向けた。




