川村陽菜子④
のりこさんではない幽霊の人――そうとしか呼べないので、そう認識することにした――は、陽菜子の前を滑るように進んでいる。陽菜子が息を乱して汗まみれになっているのとは裏腹に、その人の髪も服も、やっぱり少しも動かない。生きている人ではないのだと、一緒にいる時間が長くなるほど突きつけられる。でも、そんな存在のことが、陽菜子はあまり怖くなかった。不思議に、なんてことはない。だって、ただの幽霊なんかよりもよっぽど怖い存在が、そこら中を飛び回っているんだから。
(なに……何なの……!?)
息が上がって、肺が破れそうに痛むのも、どうでも良い。むしろ酸欠で頭も視界もぼんやりしてくれる方が良い。視界の端にちらつく白いアレを、意識しないでも済むのなら。白くて、細長い――黒い空に蠢くのが何なのか。考えてしまったら、はっきりと見てしまったら。きっと、足が竦んで動けなくなってしまう。恐怖に凍り付いて縮こまって、しゃがみ込んでしまうだろう。
だから、陽菜子は白く透ける背中だけに目線を集中させて足を動かすことだけに専念しようとした。右、左、右、左。足の裏で衝撃を受けて、膝のバネで次の一歩を踏み出して――でも、着地しようとした足が、ぐにゃりと揺らぐ。陽菜子の視界も、また。のりこさんではない人の背が横倒しになって、見てはいけない白い長いモノが、一瞬だけ視界を横切る。
「あ……っ!」
石でも落ちていたのか、段差でもあったのか、暗い中では分からない。とにかく、陽菜子の身体は地面に叩きつけられていた。今夜で二回目、走っていた勢いがある分、さっきより衝撃も痛みも強かった。
「はあ、はあ……っ」
捻った足が痛い。地面で擦った頬もずきずき、ひりひりとする。何より、陽菜子の心が限界だった。暗い中にたった一人取り残されて、辺りは変な怖いモノが飛び交っている。走っている間はまだ忘れられていた恐怖が、蘇ってしまう。
地面にへばりついた格好はきっとみっともなくて、でも、もう立ち上がりたくなんてなかった。ただ、荒い息をついて嗚咽を吐き出す。泣いてもどうにもならないかもしれないけど、とにかく怖くて不安で訳が分からなかった。
陽菜子の視界のほぼ半分を占めるのは、地面。舗装されていない土の道路は、アスファルトと比べて痛みやダメージがどれだけ違うんだろう。傷からばい菌が入っちゃうかなあ、とぼんやりと不安に思う。それから――白い足が、陽菜子の目の前にぬっと聳えている。のりこさんではない幽霊の人が、陽菜子を見下ろしている。
その人が言いたいことは分かる。早く立て、また走り出せ、ということだ。辻隆弘とかいう、見た目も年齢も分からない人を探して。それは、分かる。分かるけど――
「なんで、なの……? なんで私が行かなきゃなの!? もう、やだよお……っ」
駄々っ子のように、陽菜子は泣き喚いて手足で地面を叩いた。服が汚れるなんて心配はもう頭の外だった。どうしてこんなことになってしまったんだろう。のりこさんごっこをしたのが良くなかった、のかもしれないけど、やったのは陽菜子だけじゃなかったのに。ただの遊びだったはずなのに。
幽霊の人は多分怖い存在じゃなくて、意思疎通ができたと分かった瞬間は心強いくらいだった。でも、言葉が通じるからこそ泣き言を訴えたくなる。もう許して、と。しゃがみ込んで縮こまらせていて欲しい、と。
「怖いよ……何なの、あれ……」
涙が頬を伝って顎から落ちる。暗い夜の只中で、地面にうつ伏せになってしまえば、上空はとりあえず見えない。空を舞い――そして、時おり地上目掛けて襲い掛かってくるあれを見ないで済む。SNSに投稿されていたのが、どこか遠い場所のことではなくて、陽菜子に近い現実なのだと認めなくて済む。
風邪をひいても良いし、親とかに怒られても良い。だから、明るくなるまでここで突っ伏していたかった。
でも――
「っひゃ……」
ちら、と目を上げると視界が白で埋まっていて、陽菜子は心臓が口から飛び出るような思いを味わった。幽霊の人が、陽菜子の目の前にぐっと顔を近づけていた。闇に浮かび上がる、死体の顔だ。血の気も温かみもない唇が、音も呼吸もなく動く。ひとつひとつ、陽菜子に見せつけるかのように。
O、E、A、I――オ・ネ・ガ・イ。
「そんなこと、言われても……っ」
唇の動きは、これ以上ないほどはっきり読み取ることができた。この人は、のりこさんとは違って陽菜子を脅したりしない。お願いしてくれている。でも、だからこそ困る。こんなに怖いのに、こんなに心細いのに。陽菜子はただの女子高生でしかない。それも、同級生の中でも地味で目立たない、つまらない存在でしかないのに。
「私なんか、何もできないよ……!」
正面には白い顔。顔を背けようとしても、白い手が目に入ってしまう。何も見たくなくて、陽菜子が目を閉じた時――握りしめていたスマートフォンが震えた。のりこさんからのメッセージを思い出して、陽菜子は思わずスマートフォンを投げ捨てかける。でも、違う。画面に表示されたのは、メール受信の通知だった。さっきと同じ、norikoというアドレスからのものだ。
――フォロワーがいるとこじゃないと、行けない
「フォロワー……えっと、のりこさん……の?」
表示された文を読んで首を傾げていると、すぐにまた新しいメールが受信した。
――だから起きて。せせらぎの小径に行って
この人は無口な性格だったのか、それとも、送れる文字数に制限でもあるのか、何か大変なことなのか――短いメールの文章を汲み取ろうと陽菜子は必死に考えた。夜の闇や異様な光景の恐怖も忘れるくらい。
幽霊の人は、多分陽菜子の叫びに答えてくれた、んだろう。どうして私が、という。陽菜子はのりこさんのフォロワーだから、のりこさんと関係があるらしいこの人は、陽菜子がいるところにしか現れることができない、ということだろうか。だから、陽菜子はこの人が探している人のところに行かなければならない。幽霊だからって好きなところに現れることはできない。そういうことを、伝えようとしているのだろう。
そこまで考えたところで、陽菜子は身震いした。縮こまっていたい、なんて思っていられない。恐ろしいことに気付いてしまったから。のりこさんがフォロワーのところにしか出て来られないなら――
「私たちが来たから……あれ、が出てきちゃった……?」
――そう。他の沢山の人たちも
「そんな……」
ちらりと、一瞬にも満たない視線の動きで、陽菜子は白い手を示した。それにも、白い幽霊ははっきりと頷いてくれる。首の動きだけじゃなく、メールの文章によっても答えてくれた。
SNSでの炎上騒ぎは、ついさっきも見たばかりだ。投稿される白い手の画像。それに寄せられるコメントは、怖がりつつも面白がっているようだった。きっと、見に来ようとする人もいるだろう。のりこさんをフォローしてしまう人も。空を覆うほどの手の数は、そんな無責任な人たちの数でもあるのかもしれない。
「……放っておいたら、どうなるの……?」
とんでもないことをしてしまった、という恐怖が、じわじわと這い上がっていた。ただ震えるだけの怖さよりもずっと恐ろしい、罪悪感を伴う恐怖だった。
のりこさんごっこも、のりこさんをフォローしてしまったのも、大人に相談しないでこの公園に来てしまったのも。ひとつひとつは遊びだったり深く考えなかったり、それしかないと思ってのことだったけど。
微かに聞こえるサイレンや止まない悲鳴のことを、なるべく考えないようにしていた。でも、のりこさんに関係ないことのはずがない。この公園で起きている怖いことや痛いことやひどいこと。その責任の一端が、陽菜子にもあるのだとしたら。
――もっとフォロワーが増えたら、もっと犠牲者も増える
「――っ」
ほっといても大丈夫だよ、なんて言ってもらえると思ってた訳じゃない。でも、はっきりと突きつけるようなメールの文章が、陽菜子の心に突き刺さった。
棺の中で目を閉じた、美月の顔が蘇る。陽菜子たちは花を顔の周りに入れてあげたけど、誰も美月のことを悲しむことはできていなかったと思う。自分たちの恐怖と、のりこさんのことで頭がいっぱいで。あんな風に、冷たくなってしまう人が他にも出るのかもしれない。美月のご両親のように、訳が分からないまま悲しむ人も出るのかもしれない。
「わか、った……行く。走る……!」
それしかないと分かって、覚悟しても。陽菜子がそう答えて立ち上がるために、勇気をかき集めるために、顎が痛くなるほど歯を噛み締めなければいけなかった。でも、しっかりと地面を踏みしめた時には、何かが吹っ切れたような気分だった。これは、休憩のようなものだった。転んだ痛みは治まったし、息も少しは落ち着いている。だから、走れる。
もう、スマートフォンを覗くことはなかった。幽霊の人は、陽菜子の答えに安心してくれたんだろうか。SNSも、見なくて良い。怖くなったら足が鈍ってしまうから。ただ、ライト機能を使って時々分かれ道や看板を確認するのに使うだけだ。
(せせらぎの小径……!)
小さな滝から落ちる流れに、鯉が跳ねているイラストの看板に、陽菜子はひと際強く地面を蹴った。描かれている文字も、メールで教えられたのと同じもの。ここだ。この近くに、探している人がいる。
スマートフォンをかざすと、とても小さくか弱い光の輪がごく狭い範囲を照らす。のりこさんが指定したのはそよ風の広場だからだろう、この辺りでは人の気配はしない。でも、幽霊の人が教えてくれたのは確かにここだ。見落とすことがないよう、陽菜子はスマートフォンを高く掲げて腕を振り、顔を巡らせる。すると――いた。逆光で真っ黒になった人影が。陽菜子の足音と灯りに驚いたのか、慌てたように辺りを見渡すような仕草をしている。顔はよく分からないけど、体格は、確かに男性のものだ。
陽菜子はその人影に向かって最後の数歩を駆ける。同時に、叫ぶ。すっかり上がった息を、吐き出すように。
「辻、隆弘さんですか……!?」




