矢野朱莉①
朱莉は、目の前に降って来た白い手を、身体を捻って辛うじて避けた。こいつに遭うのは二回目だから、だろうか。異常事態に驚き怯えて、泣き喚く間に掴まっていった他の人たちよりは、良い動きができたはずだ。
「っく……」
でも、前と違って、今夜は白い手は夜空を埋め尽くしそうな数が交錯して宙を漂っている。間髪入れずに襲ってくる第二波は立ったままでは躱し切れず、地面に転がることになった。
地についた片手に、ついで肩に痛みと衝撃。そのまま回転して、素早く立ち上がる。日頃運動なんてしない身だと、これだけでも息を切らしてしまう。触れられたら死ぬ存在と対峙しているという、緊張からでもあるんだろうけど。
激しく動いたことで乱れたのは呼吸だけじゃない。束ねていた髪も解け、被っていたニット帽も地面に落ちる。ニット帽――黒っぽい、男性ものの。サイズの大きいジャケットと、脚のラインを見せないパンツと相まって、遠目には彼女を小柄な男性のように見せてくれるはずの扮装の一部が、崩れ落ちたのだ。
一連の動きの間も手放さなかったスマートフォンに目をやると、のりこさんのメッセージが届いている。――TakahiroTsujiのアカウントに宛てて。
――なんで?隆弘じゃないの?なんでなんで?あんた誰?
「……やっぱり……!」
のりこさんの混乱を表してか、白い手も動きを鈍らせている。その隙に、朱莉は絡み合う何本もの腕から数メートルの距離を確保することに成功した。会心の笑みを浮かべながら。もう、辻氏の振りをしてSNSでやり取りをする必要もない。彼女自身の声で、言葉で、のりこさんに言ってやることができる。
「騙すのはあなただけじゃない。アイコンと同じ人が中身とは限らない、でしょ?」
のりこさんはSNSを通じてこちら側に――現実に、生きた人間に――干渉している。洋平が集めたネット上の体験談や、朱莉自身の経験から導き出した仮説は、かなり信憑性があると思われた。フォロワーからフォロワーへ、ウイルスが感染するように広がって忍び寄るのりこさんは、確かに怖い。洋平のアカウントを閲覧していただけの朱莉だって見つかってしまったくらいだから。
でも、裏を返せば、のりこさんはSNSを通じてしかこちら側を認識していない、ということではないだろうか。のりこさんにのっとられた洋平も、更に前の葉月千夏も、おかしいと思えたのは言動の不審さ、本人らしくなさがあればこそだ。辻氏の同意の上で、やり取りの内容も打ち合わせて。その上で朱莉が辻氏のアカウントにログインして操作すれば――のりこさんには、「中の人」の違いは分からないのではないだろうか。
「ねえ、どんな気分? 私を彼だと思ったんでしょ?」
辻氏は、公園の違う場所で待機している。SNSからはログアウトした状態のスマートフォンを持って。その状態でものりこさんとTakahiroTsujiのやり取りは確認できるし、アカウント削除のためのパスワードを入力するなら、ログアウトの手間が省ける分その方が早い。
朱莉は――のりこさんに視覚があることを警戒して――念のため男装して、指定されたそよ風の広場のすぐ傍まで来ていた。辻氏が、のりこさんを警戒して足を止めた、と思われそうな位置を狙って。
のりこさんをフォローしていないアカウントを持つ、男性……に、見える人影。そう見せかけた朱莉を、のりこさんは辻氏と誤認してくれたのだ。
――嘘つき嘘つき嘘つき!
辻氏のアカウントに宛てて、のりこさんの罵倒が次々に届く。その勢いと言葉の汚さに彼女の怒りと動揺が窺えて、朱莉の胸もすっと晴れる感じがした。洋平のアイコンが、彼ではあり得ない投稿を繰り返していたのを見た時に感じた違和感と不気味さ、死者の名を騙ることへの憤りは忘れられない。のりこさんにどこまで人間の感情が分かるのかは知らないけど――彼女の想いの一端でも良い、思い知らせてやりたかった。
――あいつはどこ?
「ここじゃないとこ。――武井法子さんと、会っているかも」
――どこで!教えろ!
「教えない。お前はもうすぐ、消える。辻さんが、消す」
――止めろ。その前に私が消す。どこだよ!?
傍から見れば、朱莉の独り言に見えただろうか。それとも、野次馬は皆逃げるか白い手に襲われて倒れてしまったから、見る人はいないだろうか。今さら他人にどう思われようと、どうでも良いけど。
油断なく白い手の動きを見張って、重心を低くして身構えながら、朱莉は辻氏とのやり取りを反芻していた。
朱莉がこの計画を提案した時、辻氏は真っ先に眉を顰めた。
『それは……危険です。貴女が囮に、なんて。パスワードをさっさと使えば良いと、ずっと仰ってたじゃないですか』
今夜のための最終的な打ち合わせの席でのこと。例によってカラオケボックスの一室で、タッチパネル式のリモコンを脇に置いて、この公園の地図を広げている時だった。自分のアカウントを他人に使わせることより、彼女の身を案じてくれたのは彼らしい、と。朱莉は密かに嬉しく微笑ましく思ったものだ。
『その方が気が楽だからです。より危険な役割を受け持つ方が』
『…………』
即答した朱莉に、返す言葉を失ったのも。辻氏は、のりこさんとの対決にこだわっている節が見えた。武井法子を殺した犯人と思えば当然だろう。でも、それなら、朱莉だって洋平を殺されている。危険な役目を辻氏だけに任せておくことなんてできなかった。それに――
『私が、のりこさんを引き付けている間に、武井法子さんと会えませんかね……?』
『武井と……?』
『はい。武井さんは、のりこさんが出たところに現れている。そして、のりこさんとは違う意思をもって動いている。辻さんがいることを知れば、出て来てくれないでしょうか』
声を低めて訴えたその部分こそ、この計画の最大のメリットだろうと、朱莉は考えていた。
辻氏は、武井法子の最期についてのりこさんに問い質すつもりだったらしい。でも、のりこさんがわざわざ教えてくれるとは限らない。できることなら本人に尋ねるのが、一番早い上に確実ではないだろうか、と。
『……武井が――というか、のりこさんと呼ばれてた幽霊が喋ったという話はなかったと思います。意思疎通ができるのかどうか……そもそも、現れてくれるのかどうかも分からない』
『それならそれで、最初に言っていた通りに。トライするだけしてみようって、辻さんも言ってたじゃないですか』
『それは、そうですが』
自分のことよりも、相手のことになるとより慎重になるのは朱莉も辻氏も同じだった。それがおかしくて、朱莉は少し笑った。余裕を見せることで、相手を納得させられれば良い、とも思いつつ。
『法子さんに、よろしく伝えてください。私も……助けてもらったので』
辻氏は今、せせらぎの小径にいる。公園の中でも、このそよ風の広場とは十分離れた場所だ。のりこさんの注意が朱莉に向いている今、武井法子は彼のもとに現れていてくれるだろうか。
――せせらぎの小径、だってさ。そっちから来てよ。
朱莉が、辻氏の振りをして送ったメッセージを、ちゃんと見てくれただろうか。
辻氏との最後のやり取りも思い出される。
『くれぐれも無理はしないで。……生きている人の方が、大事なんですから』
ふたりは、時間差をつけて公園に入った。のりこさんが、どの段階から周囲の人間を見ているのか分からなかったから。朱莉に先立って闇の中に消える前、辻氏はそう言い残していった。
武井法子が現れなかった時のため、ふたりのどちらでも、のりこさんに襲われた時のため。符丁と、タイムリミットは決めてある。メールでもSNSでも、このキーワードを発したら。あるいは、決めておいた時間になったら。迷わずにあのパスワードを使う。のりこさんを、武井法子のアカウントを消去する。辻氏とはそう、固く取り決めてあった。そうしないと、ふたりともが殺されてしまう恐れもあるから。
――教えないなら良いよ。みんなみんな消してやる。ここにいるヤツら、全部!
「私ものっとるの? させないよ、洋平みたいなことは!」
――誰だよそれ。何言ってんの?
のりこさんと、声と文字でのやり取りを交わしながら。彼女が殺した相手のことを覚えていないことに傷つき憤りながら。朱莉は何度となく白い手の攻撃を躱した。また転がって、というよりは転んで、全身砂まみれになりながら、立ち上がって、走って、跳んで。手が段々増えているような気がするのは――それだけ犠牲者が増えているから、なのだろうか。
(まだ……まだ……!)
のりこさんも殺意を露にしたこの状況は、まさにその時なのかもしれない。例のパスワード、見ないでも入力できるくらいに何度も練習して指に馴染ませてある。それを使って、アカウント削除の手続きを行うなら絶好のタイミングなのかも。会話で気を逸らすのも朱莉の体力も多分そろそろ限界で、いつ手や足を掴まれてしまうか分からない。
でも、朱莉はスマートフォンをぎゅっと握りしめるのにとどめた。パスワードを使うのは辻氏の方が良い。それも、武井法子に会った上で。この瞬間にも、ふたりは最後の別れを惜しんでいるかもしれないのだ。
(早く、消えろ……消えて!)
大きく転がって、絡み合う蛇のように塊になった腕から逃れる。せせらぎの小径の方、辻氏のいる方を見ようと顔を上げると、夜空はまだ白い手で覆われていた。




