矢野朱莉⑦
パソコンと、念のためにルーターの電源も落としてから、朱莉はやっと息を吐いた。緊張の糸が切れると、途端に疲れが押し寄せてくる。急に重くなったように感じられる手足をだらりと弛緩させて、椅子に凭れる。昼間は洋平の部屋の片付けで身体を動かして、長谷川夫妻とのやり取りに気を遣って、そして帰ってからも休む間もなく洋平のパソコンを調べて――そして、さっきまでの一幕だ。のりこさんと、ネット上を徘徊する怪奇現象に遭遇して、襲われて。逃げるために、洋平のSNSアカウントを消した。彼の一部に、朱莉の手で止めを刺した。
疲れているのは肉体だけじゃない。朱莉の精神も、疲弊しきっているのだろう。恋人を亡くした悲しみに浸ることができればまだ楽だったのかもしれないけど、洋平の死を取り巻く状況は、あまりにも謎が多すぎる。
だから、危機を逃れた今も、週末の深夜近い時刻でも、朱莉の脳は冴えて高揚して、思考を続けている。のりこさんは何なのか。形のない相手に対して、朱莉は何をしたいのか。どうすれば良いのか。洋平のスマートフォンに遺されていたメールで、彼女はアカウントを消して欲しいと訴えていた。それを叶えてあげるのは、朱莉にとっては洋平の復讐ということになるのだろうか。白い手から朱莉を救ってくれたかもしれない彼女を、解き放つことになるのだろうか。
何ひとつ分からないけれど。ただ、パソコンの黒いモニターをぼんやりと眺めながら、朱莉の胸に浮かぶことがある。
(ネットは、駄目なんだ……)
のりこさんは、ネットを介してやってくる。SNSで繋がっているのでなくても、のりこさんに乗っ取られたアカウントを閲覧していただけで、朱莉の存在はあちらに気付かれてしまった。何かの本で読んだフレーズ、深淵を覗く者はあちらからも覗かれている、というやつだろうか。
norikoというアカウントがあって、しかもコミュニケーションが取れてしまうから質が悪い。情報を得るなら本人に聞くのが早い、と思ってしまうのだ。洋平がのりこさんへの接触を試みたのは、結果的には完全に裏目に出てしまった。何も、のりこさんが罠を張っていたつもりではないのかもしれないけれど、とにかく、ネット経由でのりこさんに近づくのはリスクが高すぎる。
(だから、こちらから……消す……!)
さっき、キーボードを叩いた感触が蘇って、朱莉は身体の脇に垂らした手の指先を引き攣らせた。他人のアカウントを無断で――断りようもないけど――削除するなんて、気持ちの良いものじゃない。しかも、死んでしまった洋平の、生前の言葉を丸ごと消してしまったのだと思えばなおさらだ。でも、そうすることで朱莉の部屋からは白い手も、のりこさんも消えた。洋平は、それによって救われたのかどうか。彼はそもそも朱莉のところに出て来てくれてはいないから、これもまた分からないことなのだけど。
でも、洋平のアカウントで、彼が選んで作ったアイコンで、別人のような発言を繰り返させられるよりは。彼の名前だけがネットの中で蠢き続けるよりは。朱莉の手で削除した方が良かった、のかもしれない。強がりや自己満足かもしれないけれど、そう思えるくらいに、のっとられた彼のアカウントを見た時の拒否感は大きかった。
(辻隆弘……さんも、同じように思うかな)
洋平のスマートフォンに送られてきた、のりこさんからのメール。そこに記載されていた人の名前を、朱莉はもう覚えてしまっている。アカウントを消して欲しいらしいのりこさんが、そのヒントとして送ってきたものだ。それはつまり、のりこさんが生前に設定していたパスワードを知っていてもおかしくない人ということになる。のりこさんの本名が武井法子ということなら、家族ではないのだろう。それなら、友人か――それとも、恋人か。norikoのアカウントが放置されたままなのは、SNSの存在には気付いていないのか、もしかしたら彼女の死さえ知らないということもあるのだろうか。
辻隆弘という人は、一体どういう人物なのか。すぐにもまたパソコンを立ち上げて、検索エンジンにその名前を入力したいと思ってしまう。
(でも、だめ……)
息を吐いてのろのろと立ち上がり、今日はもう寝る支度をしようと思いながら、朱莉は自分に言い聞かせる。恐らくは芸能人という訳でもない一般人の素性を調べるとしたら、SNSを頼るのが一番早いのだろうけど、それはもう怖い。のりこさんが回線の向こう側の相手をどう認識しているのかは分からない以上、朱莉はもう彼女と接触してしまっている以上、迂闊な行動はできなかった。洋平は、お札や水晶玉で自衛しようとしていた節があるけれど、その手のアイテムに意味がないのは、彼の末路が教えてくれている。
だから、アプローチするなら現実からだ。こちらの世界で動いて、のりこさんを追い詰めなければならない。具体的にどうすれば良いか――それはまた、明日のこと。今日はまず、心と身体を休めなくては。
またひとつ、深い息を吐くと、朱莉は立ち上がって風呂場へと向かった。
次の行動を起こす準備には、結局ネットの力に頼るしかなかった。現実で戦う覚悟を決めたのにいきなり躓いて、朱莉としては苦笑するほかない。もちろん、ネットに接続している間は、またあの手が現れるのではないかとずっとドキドキしていたのだけど。仕事上の業務や、私的なメールのやり取りでも、現代の生活でネットに全く触れないというのは不可能ではあるけれど、のりこさんに近づくため、という目的意識を持ってパソコンに向かうという状況に、特に緊張を感じてしまった。
そこまでして調べたのは、近場の探偵事務所とその評判だ。探偵といえば浮気調査、くらいのイメージでしかなかったけど、ホームページにアクセスしてみると、どこも明るくとっつきやすいデザインなのが意外だった。
「名前だけで人探し、ですか――」
「はい」
一番入り易そうで、かつ目立った悪い口コミもない事務所を選ぶのにまた何日か掛かった。それに、仕事があるから平日にそこへ足を運ぶことはできなかった。だから、朱莉が探偵事務所の扉を潜ったのは、洋平のアカウントを削除した日から更に次の週末だった。
「SNSで交流があった人なんですけど、突然アカウントを消してしまって連絡が取れなくなって――それで、また会えたらな、と……」
「そうですか。それは心配ですね」
一週間も時間があったから、依頼するさいにどう説明するかも考えてあった。ネットで調べたところによると、ストーカーなんかの犯罪目的の依頼だと見做されると拒否される場合もあるとか。朱莉の目的はそんなことではないにしても、真実ではないのは確かだった。
「やり取りとかも残していた訳じゃないので……ただ、名前だけ、教えてもらっていた状況なんですが」
だから、断られはしないか、本当の目的を詮索されないかと、内心では冷汗ものだったのだけど。でも、朱莉の対応をしてくれた男性は、あくまでもにこやかに爽やかに、適度な相槌を打ちながらメモを取っている。探偵職の人なのか事務員なのかは分からないけど、こういう仕事も客商売ではあるのだろう。
「……それだけで、見つかりますか?」
住んでいる場所は分からない。年齢は――のりこさんの見た目と、死後時間が経っているかもしれないことを考慮して――二十代から三十代くらい。交流といっても日常のやり取りばかりで、仕事や出身地も不明。その程度の相手をどうしてわざわざ探したいのかと聞かれたら返事に窮するし、かといってこれ以上嘘を重ねても、本物の辻隆弘に辿り着く妨げになりかねない。
「正直、難しいとは思います。同姓同名の方が見つかったとしても、ご本人かどうかは会ってみないと。住所や連絡先までお調べするのは、人数分の料金が加算されますが」
「……じゃあ、候補が出たところで連絡をいただくのは可能ですか? 追加で連絡先とかを調べてもらう場合は、候補を絞りたいです」
「可能です。念のため、追加調査を断念される場合でもそこまでに発生した費用はご請求させていただきますが」
「はい、それで構いません」
お金に糸目はつけない――と、断言はできなくても、予算はそれなりに潤沢だった。洋平とのデートや旅行に行く予定も、もうなくなったんだから。貯金ももちろん大事だけど、ここで何もしないで諦める方が、心に負債を抱えてしまいそうだった。
「では、こちらにご署名とご捺印をお願いします」
幾つかの常識的な注意事項を確認し合った後、探偵事務所の所員が差し出してきた契約書には、決して少額ではない調査の着手金が記載されていた。それを凝視して、緊張に軽く唇を噛みながら、朱莉はペンを、ついで持参していた印を手に取った。




