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矢野朱莉①

 矢野(やの)朱莉(あかり)は、洋平(ようへい)の両親と彼の葬儀で初めてまともに会話することになった。


「こんな綺麗なお嬢さんとお付き合いしていたなんて……」


 青白い頬で弱々しく微笑む母親と――


「とんだご迷惑をおかけして、申し訳ありません」


 半ば以上白くなった頭を、三十近く年下の小娘に深々と下げた父親。もしかしたら、今回の心労で一気に白髪が増えたのかもしれない。喪服に身を包んだ長谷川夫婦は、年齢以上に老け込んで、身体は小さく縮んで見えた。若く健康だった息子の突然の訃報に接したのだから当然だ。


「いえ……私こそ、洋平さんにはお世話になって……」


 いずれは会うことになるのかもしれない、と漠然と思ってはいた。洋平とも、お互いの地元や家族について話すこともあった。でも、はっきりと彼と結婚する、一生を共にするだなんて決めていた訳じゃない。彼とは、そこまでの関係じゃなかった。まだ、と但し書きをつけなければならないだろう。これからもっと付き合いを重ねてお互いのことをもっと知り合えたら。思い出を積み重ねて妥協もして諦めて、喧嘩したり幻滅したりもして。それで、もう嫌だ、なんてことにならなかったら。それも、もしも、でしかないんだけど――彼とは、そういうことになっていたのかもしれなかった。


 でも、そうはならなかった。洋平とは少し前のデートでちょっと気まずい別れ方をしたきりになってしまった。彼の()というか趣味について朱莉は皮肉っぽいことを言ってしまって、洋平は多分気を悪くしていた。


(だって、ちょっと気持ち悪いと思ったし……)


 都市伝説とやらを追いかけるのも、他人のSNSアカウントにつきまとう、ストーカーのような行為も。しかも、それをブログの記事にする、なんて。だって、会社の同僚程度の付き合いの人ならともかく、彼氏のことなんだから。関係を損ねかねないことを承知であんなことを言ってしまったのも、彼との将来を意識していたから、だと思う。この人と結婚して一緒に暮らしたらどうか、と考えてしまって……だからもっとしっかりしてよ、と。勝手な期待を押し付けてしまったんだと思う。


「洋平を見つけていただいて……ありがとうございました」


 長谷川氏が、洋平の父が、また朱莉に深く頭を下げた。彼女にそんなことをしなくても良いのに。彼に苛立って棘のある言葉をかけてしまったのに。あんなことを言ってしまった結果がこれ、なんだろうか。彼女の言葉や態度に原因があるのかどうかは分からないし、そんなことは考えたくもないけれど。


 とにかく、現実はこうだ。洋平は冷たくなって棺に横たわっている。彼から話を聞くこともあった会社の同僚たちは、みんな黒いネクタイや黒いストッキングを身に着けて、目を伏せて低い声で囁き交わしている。彼の両親との顔合わせも、どこかのレストランの個室とかじゃなくて、病院で、になってしまった。ろくに化粧もせず、髪を乱した朱莉と、取るものも取りあえずといった感じで慌てて駆けつけた両親と。こんなはずじゃなかったのに、と三人ともが思っただろう。


(どうして、こんなことになっちゃったの……?)


 朱莉は、もう数え切れないほど頭の中で問い続けている。一体どうしてこうなったのか。洋平に何があったのか。彼女が何かしらをしたりしなかったりしたら、結果は変わっていたのか。洋平の部屋を訪ねて、合い鍵を使ってドアを開けて――そして彼を見つけた時からずっと。何度も、何度も。




 ――色々ごめん。好きだった。


 洋平から脈絡なく深夜に送られてきたそのメールを、朱莉は最初悪戯だと思った。だって、本気なはずがない。前日まで、次はいつ会おうとかどこに行こうとかいう話をしていたのに。万が一別れ話だったとしても、あまりにも言葉が少ない。お互い良い歳をした大人で、それなりの深さの付き合いなんだから、そういうことならもっとちゃんと、もっと真面目に話すはずだ。せめてメールなんかじゃなく、顔を合わせてするようなことだ。


 悪戯――というか、冗談や「ドッキリ」だったとしても、決して質の良いものではないと思ったけれど。本気にはしないとしても、一瞬どきりとすることには変わりない。送った洋平の方はともかく、朱莉の方は楽しくも何ともないんだから。

 だから朱莉は、あの夜「ネタばらし」を待って苛々しながら遅くまで待っていた。まさかあんなメールを送ったきりで放って置かれるとは思ってもみなかったし。多分、呆れるか怒るかするようなものだろうけど、洋平は何か言ってくるだろうと思ったのだ。彼としてはまた面白い()()のつもりで、滑っているとは思ってもみないで得意げにメールなり電話なりしてくるだろう、と。

 その内容によっては軽い喧嘩になるかもしれないし、不覚にも笑ってしまうかもしれなかった。どちらにしても、洋平の言い分を聞いてから反応を決めようと、そう思っていたのに。その後、彼からは何の連絡もなかった。


 あれは、金曜日の夜だった。翌日に仕事がある訳でもないから、本を読んだりテレビを見たりして時間を潰して、それでも、深夜二時を回っても何も起きないのに流石に疲れて、もやもやとした気分でベッドに入ることになった。その落ち着かない思いは日曜日の午後になっても解消されなくて、でも、朱莉の方から連絡するのも癪だからただ待ち続けて――そして寝る間際になってとうとう業を煮やして、やっと洋平に問い質すメールを送ったのだ。

 返信がいつ来るかと気にしながらの月曜日、朱莉の仕事ぶりは散々だった。スマートフォンが震えたら、すぐに取ってやろうと思って待ち構えていても、受信するのは彼以外からの連絡ばかり。それで初めて、朱莉の胸に不安が()ぎった。彼に何か起きたんじゃないか、彼女に連絡を取ることができない状態なのではないか、と。


 スポーツドリンクやゼリー飲料、冷却シートなんかを買って洋平の部屋を訪れたのは、ひどい風邪でもひいたんじゃないかと思ったからだった。何かと弄っているスマートフォンさえ手に取ることができないくらい具合が悪くて、だから連絡も取れないんじゃ、と急に不安になったからだった。そんなこと、滅多にあるものじゃないとは思ったけど、理由もなく連絡を途絶えさせることはしないだろう、と思う程度には朱莉は洋平を信用していた。


 会社帰りのスーツのまま、マンションの薄暗い共用廊下で、合い鍵をがちゃがちゃさせた記憶が妙にはっきりと残っている。合い鍵――それも、洋平との親密な関係を示すものだ。彼の留守中に上がり込んだり、まして勝手に掃除だとかをしたりするような真似をする気はなかったけど、万一の時のために、とお互いに交換していたものだった。彼に招かれることはもちろんよくあったから部屋自体は馴染みのものだったけど、本当に使う場面に遭遇するなんて、あの日まで思ってもみなかった。扉を開ける瞬間までは、朱莉も鍵を持っていて良かった、倒れているかもしれない可能性に気付いて良かった、と――安心のような気分さえあったのだけど。


 でも、部屋で起きていたことは朱莉の想像をはるかに越えた、最悪の事態だった。


 玄関の扉を開けた瞬間に、異臭に気付いた。洋平が吐いたり何か食材が傷んだりしたのを処理できていないのか、と思おうとしたけど、そういう類の臭いじゃないのが分かってしまった。嗅いだことはないけど、すごく厭で、不吉な臭い。嫌な予感に駆られて、朱莉はパンプスを脱ぎ捨て、1DKのキッチンを走り抜けた。その奥の寝室の扉を開けた瞬間、異臭はさらに強くなって――そして、朱莉は視覚でも確認してしまった。部屋の中で何が起きているか。玄関を開けても洋平が現れることも声を掛けてくることもなかったのはどうしてなのか。


 スーパーのビニール袋が床に落ちて、がさりと音を立てた。ペットボトルが床にぶつかる鈍い音も、朱莉の耳に蘇る。あの時のあの部屋のこと、彼女が見て触れて感じたことを、朱莉は何度も反芻してきた。洋平の変色した顔、異臭からくる吐き気を堪えるために抑えた呼吸と、脈打つ心臓の音が妙に大きく聞こえたこと。倒れる彼ににじり寄り、彼の名を呼びながら、答えが返ってこないことをもう確信していたこと。恐る恐る手を伸ばして触れた、彼の頬の冷たさと硬さ。


 彼が死んでいる、と。逃げることも言い訳もできないくらいに突きつけられた時、朱莉は泣いたり叫んだり、ドラマや映画で見るようなことはしなかった。できなかった。

 彼に触れた手を素早く――汚いものに触れでもしたかのように引っ込めると、素早くキッチンの方へ逃げ出したのだ。臭いを遮断しようと、扉までしっかり閉めて。110番や119番に連絡しなきゃ、と思ったのは、死臭と死体から扉一枚の距離を確保したからだった。


 あの時のことを、朱莉はもう何度も思い出している。そしてその度に、後悔と羞恥に苛まれている。

 洋平のことを好きだったはずなのに。どうしてあんな反応をしてしまったんだろう。もっと優しく丁寧に、しめやかに彼に触れてあげられれば良かったのに、と。

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