9
「……静か」
夢現の中で遠雷を数え、窓を揺らす風雨を聞いていたミーシャは、ふと目を覚ましてその静寂に首を傾げた。
あまりにも静かな空気は、ただ雨が止んだわけではない事を伝えてきているかのようだった。
隣のベッドがこんもりと盛り上がっているのを薄闇の中で確認したミーシャは、静かに体を起こした。
「……あぁ」
カーテンをそっと開けて、見つけた景色に小さく息を吐く。
窓の外は一面の銀世界が広がっていた。
「通りで、静かだと思った」
空からはいまだに白い欠片がひらひらと舞い降りている。
しんしんと降り積もる雪は、不思議なほど周囲から音を奪ってしまうのだ。
窓越しに外の冷気が伝わってきて、ミーシャはブルリと体を震わせた。
(このままじゃ、風邪ひいちゃいそう)
急いで布団の中に戻って、その温かさにもう一度ため息をついた。
「明日は出発、出来るかなぁ?」
窓の外はまだ暗く、夜明けはまだ遠そうだった。
この調子で降り続けば、山の方は結構な積雪になるだろう。
「まぁ、なるようにしかならないよね」
あくびを一つ落として、夜明けまでもうひと眠りしようとミーシャは瞳を閉じると、温もりに縋り付いた。
ヒューゴの育った家は古くて、補修しても補修してもどこからか隙間風が入り込んでくる。
それゆえに薄い布団じゃ冬の冷気は耐えがたく、子供達は布団を寄せ集め団子のように寄り添って眠るのがいつもの冬の過ごし方だった。
小さなミルはすぐ押しのけられて布団の外に転がりそうになるから、ヒューゴはいつだって大切にその腕の中に抱き込んでいた。
自分より体温の高いミルを抱きしめていることでヒューゴも温かいし、小さな寝息を聞いているとなんだか幸せな気持ちになれるから、ヒューゴは冬の日が嫌いではなかった。
だから、傍らににあった温もりを夢現のままうっかり抱き込んでしまったのは仕方ない。
ほんわかと幸せな気持ちのまま目を開けたヒューゴは、腕の中にいるはずの妹に挨拶しようと視線を落として、明らかに妹とは違う髪色をしたつむじにガチリと固まった。
(そうだよ、ミルと一緒に寝てたのなんか、ほんの小さな子供の頃じゃねぇか)
寝ぼけていた頭がようやくハッキリして、夢現の記憶が過去の事だと自覚する。
と、なると腕の中に大事に抱え込んでいるのは誰だという話なのだが……。 さらりと広がる茶色の髪には見覚えしか無かった。
なにしろ昨夜その髪を染めたのはヒューゴ自身だったのだから。
「お前、何でこっちのベッドにいるんだよ?」
人間動揺し過ぎると一周回って冷静になるものらしい。
抱き込んでいた腕からははばれないように速やかに開放して体を起こしたヒューゴは、一見何事もないような平常運転な声で問いかけた。
「……あれ?ヒューゴ?おはよう?」
寝起きの良いミーシャは、それだけでするりと目を覚ました。
そして、あまりにも近い彼我の距離にキョトンと首を傾げる。
隣にシーツが乱れた誰もいないベッドを見つけ、考えることしばし。
ミーシャはポンっと手を叩いた。
「そっか、夜中に外を見た後、寝ぼけて間違えちゃったのかも?」
ミーシャは一度寝たら朝まで目を覚ますことはほとんどない。
昨夜は、珍しく目が覚めたパターンだったのだが、起きたつもりでもやはり半分眠ったような状態だったのだろう。寒さも相まって、無意識に近いほうのベッドにもぐりこんでしまったのだ。
「寝ぼけた、じゃないんだよ。おまえは……」
あまりにものん気な答えに、ヒューゴは肩を落とした。
本来、赤の他人の男女が一つの部屋に泊まるのは褒められたことではない。
それでも、防犯上の理由や周囲への言い訳や懐具合など、もろもろも相まって同室となっていた。
ミーシャもそれに特に文句を言うわけでもなかったので流してしまっていたが、ヒューゴはもう少し危機管理をしっかりと教え込んだ方がいいかもしれないとチラリと考えた。
が、男の隣で目を覚ましたというのに、なんの動揺も見せずベッドから起きだすミーシャに、なんだかもやもやとしたものを感じて、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
ヒューゴは、自分の顔がいい自覚がある。
まだ色恋に興味もない年齢の頃にはすでに、周囲から艶を含んだ視線を投げかけられることが多く、自然に学習したところが大きい。
村中が知り合いのような小さな村だったからこそ間違いが起こらなかったけれど、王都などにすんでいれば人さらいに合うか悲惨な経験の一つはしていたのではないかと、長じて外に出てからしみじみと思ったものだ。
そのころには、対処する術も学んでいたし、むしろ相手の懐に入り込むために積極的に利用するしたたかさまで持ち合わせていたため、問題は起きなかったが……。
そんなヒューゴの美貌を見ても、ミーシャは何も変わらない。
最初の時こそ驚きに目を見張っていたが、それは花や美術品へ向けるものと何も変わらない、ただ、純粋に美しいものを見た時に向ける類の視線だった。
その視線は、嬉しいような悔しいような不思議な感情をヒューゴに与える。
(教育は肉親の仕事だよな)
警戒心を教えなかった家族が悪いとヒューゴは問題を棚上げすることに決めた。
別にヒューゴだって、ミーシャに対してそういう感情など微塵も持っていないし、今後もその予定はない。少しでもそんな感情があれば、さすがにヒューゴだってもう少し配慮して、もう少し金を出して二部屋とるか一部屋でも中で仕切りのある部屋を選んでいた。
護衛対象に浮ついた感情を持つなど、不毛以外の何物でもないと教育されているのだから。
しかし、この状況で注意をすれば、自分ばかりが意識していると取られそうで、なんだか悔しかったためである。
後に変な意地を張ってミーシャに警戒心を植え付けなかったことを後悔する日が来るのだが、今のヒューゴにそれを知る術はなかった。
「あ~、思ってたほどじゃないけど、やっぱり積もってるね。これって、馬車は出発できると思う?」
そんな事よりも、窓辺に立つミーシャの言葉に気をとられて、ヒューゴは自分もベッドから抜け出した。
「どうかな?冬装備には王都についてから変更するって言ってたから、山の方の状況次第じゃねぇかな?」
雪はすでに止んでいたが、道はうっすらと雪化粧をしていた。
一晩のうちに起こった変化にいち早く気づいた街の住人たちがすでに外に出てきて、家の周辺の雪をかき分け始めているのを眺め、ヒューゴは肩を竦めた。
「とりあえず、着替えて朝飯に行こうぜ。同じ宿に馭者のおっさんが泊まってたから、運が良ければそこでかち合うだろうし」
追加の毛布を取りに行くついでに食堂に顔を出していたヒューゴは、夕食時にはいなかった客の中に複数の知り合いを見つけていた。
それは費用節約のために馬車に泊まると言っていたが、荒れ始めた天気に危機感を覚えて避難してきた馭者と乗客達だった。幸い部屋に空きを見つける事ができたらしく、ついでに一杯酒を飲んでいたのだ。
「幌布が薄かったから、あのままだと寒くて眠れない夜を過ごす羽目になっただろうから、英断だったな。馬が凍えずにすんでよかった」
「なんだか心配の比率が馬の方に偏ってるように聞こえるんだけど……」
少し笑いながら朝の準備を始めたヒューゴに呆れた視線を向けながら、ミーシャも顔を洗おうと風呂場の方へと足を向けるのだった。
「やっぱり予定通りに出発はできなかったね」
無事に食堂で馭者を見つける事の出来た二人は、今度の予定を聞くことができた。
やはり平地よりも山の方が天気は荒れていたようで、雪がどれくらい積もっているか予想がつかないため、朝一番に降りてくるであろう旅人の情報を待つそうだ。
それによっては、馬車の車輪に細工をして雪道でも移動できるようにするため、出発は早くても昼すぎになると馭者の男は申し訳なさそうに言っていた。
急斜面の山道を無理して走行する方が危険なため、ミーシャ達は大人しく待機することに納得したのだが、道の状況によってはこの町でもう一泊する羽目になる可能性も出てきて、部屋を引き上げるか迷うところだ。
「今日は厳しいかもしれないな……」
空は晴れているものの窓から見える山の頂上は白く、簡単に溶けそうには見えなかった。
「とりあえず、昼まで延長できないか宿の方に交渉してくる。寒い中、外で待つのも嫌だしな」
肩を竦めて部屋を出ていくヒューゴを見送って代わりに窓辺に立ったミーシャは、不安そうな視線を山へと向けた。
昨夜の激しい雨風が嘘のように、空には太陽が見えていた。
道のわきによけられた雪も、この天気なら昼過ぎには消えているのではないかと思われるが、それゆえにミーシャの胸に不安が沸き上がる。
ミーシャの住む森にも冬場は雪が降り積もることがよくあった。
そのため、平地よりも雪が解けるのが遅い事も知っていた。
雪解けを待って会いに来る父親が「町の方ではずいぶん前に溶けているのに」と目を丸くしていたのを何度も見ていたからだ。
「だからもう少し待つように言ったのに」とあきれ顔の母親が、雪まみれになった父親に笑うのがいつもの風景だった。
雪道は滑りやすく、進むのには危険が伴うのは誰もが知るところだ。
だけど、急激な気温の変化は別の危険もはらんでいるのを、森暮らしのミーシャは知っていた。
「無理しないといいけれど」
ポツリとこぼれたつぶやきは、誰もいない部屋にやけに響いて聞こえた。
男達は雪の積もった山道を慎重に下っていった。
男たちは谷間にある温泉宿の主人とその丁稚であった。
本格的に雪が降る前の最後の物資補給とあいさつ回りに王都に出てきて、その帰り道、最後の野営地でひどい悪天候に遭遇してしまった。
嵐と呼んでも差し支えのないほどの突然の荒天は最終的には吹雪となり、例年より早い積雪を生み出していた。
寒さに震えながらどうにか夜を過ごし、雪が止んだのを見て、男達はその隙に山を下ることを決意したのだ。
幾度も通った慣れた道だったし、最後の野営地は山の中腹にある。
雪道でも慎重に進めば、宿場町まで二時間ほどで辿り着く距離だった。
きっと宿場町では山の上の情報を待ち構えている旅人がたくさんいるだろうと予想していた男は、宿の主人という責任感も相まって多少の無理は承知で下山を決めたのだ。
気休めにはなるだろうと滑り止めのために靴の裏に荒縄を巻き付け、まだ薄暗い道を出発する。
降り積もったばかりの雪は柔らかく男達の足をたやすく飲み込んだ。
とはいっても、予想よりは少なく深い所では足首が埋まる程度だ。
「これなら、少し待てば馬車も通れるかもな」
「初雪は溶けやすいですしね」
主従は少し安心したように頷きあうと、少し足を速めた。
「雨が降っていたせいか、雪も水分が多いように感じますね」
雪が入り込まないようにとクツに巻くついでに足首の方までグルグル巻きに縛ったが、じわじわと体温で溶けた雪がしみこんでくる事に丁稚が眉をしかめる。
「だから防水してあるズボンを一枚は持って来いと言っただろう」
「あれって、結構かさばるじゃないですか。荷物になるから嫌だったんですよ。まさかこの時期に積もるほど雪が降るなんて思わなかったし……」
呆れたような主人の言葉に、丁稚は肩を落とす。
「だいたい、旦那があそこで捕まらなかったら馬車と一緒に帰れてたし、こんな大変な思いもしなくてすんだんですよ」
「あぁ、あぁ。俺が悪かったよ。でも、おかげで春にはいい取引ができそうじゃないか」
ぐちぐちと文句を言い始めた丁稚に、男が困ったというように頭を掻いた。
本来なら昨日は早朝に荷物満載の馬車と共に出発するはずだったのだ。
それが、出発準備をしている最中に馴染みの木材問屋に声をかけられてしまった。
それは春に木材の切り出しに行く際の宿を探しているという相談で、少し話を聞くだけのつもりが、ついつい盛り上がってしまったのだ。
長くなりそうだと察知した時点で、頼まれもの急ぎの荷物を載せていた馬車だけを先に出発させたのは男の判断だった。
自分だけならのんびり歩いて帰るのもたまにはいいだろうと思っていたら、まさかのトラブルに遭遇である。巻き込まれた形になった丁稚は確かに被害者とも言えた。
「宿についたら特別手当をつけるから勘弁しとくれ」
「約束しましたよ?奮発してくださいね」
途端に機嫌を直してさらに調子に乗ったことを言う丁稚に苦笑いしながらも、二人の足は止まることなく山道を下っていく。
確かに、突然の荒天に驚いたけれど、宿場町で反省を過ごしてきた二人にとっては、「まぁ、ついてない日もあるよな」程度の事だった。
しかし、慣れた男たちの軽い足取りを見て、勘違いは産まれてしまうものだ。
他にも野営地に足止めを食らっていた人々は、何気ない調子で出発したように見えた男たちの背中を見送り、大したことはないのかもしれないと思ってしまった。
流石に馬車の車輪は滑りやすいからすぐには無理だろうけれど、もう少し雪が解ければ……。
自分たちの行動が、予想外の積雪に予定を狂わされた焦りと寒さによる消耗で判断を狂わせた者達のフライングを招いてしまうとは、気のいい主従には思いもよらない事であった。
山からの一報がもたらされたのは予想よりも早い時間だった。
どうやら、町から一番近い野営地にこの町の住人がいたらしく、町の人間がやきもきしているだろうと早めに下山してきたようだ。
多少くたびれていたものの元気そうな様子で、男たちは速やかに門番小屋に招き入れられ熱いお茶をふるまわれる。
そうして男達からもたらされた山道の状況は速やかに街に待機していた旅人達に周知された。
ヒューゴの交渉の元、無事昼の鐘が鳴るまでは確保することができた部屋で、ミーシャは前の町で買い足していた薬草を調薬をしていた。
酔い止めや痛み止めなど、ミーシャが薬師であると知った他の乗客たちに乞われてだいぶ在庫が減っていた。そのため、今回の足止めの時間もミーシャ的には丁度良いタイミングだったのだ。
もくもくと調薬するミーシャをしばらく眺めていたヒューゴは、いつの間にかいなくなっていたが、集中していたミーシャは気づくことはなかった。
ようやくひと段落して顔をあげた時には結構な時間が経過しており、同じような体勢で居続けた体は固まってしまったように強張っていた。
「ちょっと休憩~」
椅子から立ち上がり大きく伸びをして体をほぐしていると、丁度いいタイミングでヒューゴが戻ってきた。
その手に湯気の立つ大きなカップを見つけて、ミーシャがパッと顔を輝かせる。
「やっとこっちに戻ってきたみたいだな」
そんなミーシャに笑いながら、ヒューゴはカップを手渡した。
その中には、熱いお茶がたっぷりと入っていた。
「声かけても、全然気づいてなかったぞ。すごい集中してた」
「……あ~~。ごめんなさい。無視してたわけじゃないんだけど、集中し過ぎると周りが見えなくなっちゃうんだよね。時間も限られてるから、急がなきゃって焦ってたし」
気まずそうに肩を竦めてカップに口をつけるミーシャに、ヒューゴは気にしていないと首を横に振った。
「別に遊んでたわけでもないんだし、いいんじゃないか?自由時間をどう使おうと、本人の勝手だろう。ま、外でやられたら困るけど、安全な部屋の中だしな」
もう一つのカップを手にベッドに乗り上げたヒューゴは、ベッドヘッドに体を預けて足を延ばした。
「ヒューゴはなにを飲んでいるの?私のとは香りが違うみたい」
一瞬ベッドの上で飲み物を飲むのは行儀が悪いと注意しようかと思ったものの、今更かと言葉を飲み込んだミーシャは、別の質問を口にしてみた。
「ん?ここらの名物のお茶でヤギのミルクが入ってるやつ。冬の寒い時期に体を温めるために良く飲まれるんだってさ」
見せられたカップの中身はベージュ色の液体が入っていた。
「おいしい?」
甘い香りに興味を引かれて身を乗り出したミーシャに、ヒューゴはにやりと笑った。
「うまいけど、これは酒が入ってるからミーシャにはお勧めしない」
「え~~、なにそれ!」
期待させるだけさせておいてのお預けに、ミーシャは唇を尖らせた。
「これから雪道を下ってくるだろう旅人への振る舞いを味見がてらおすそ分けしてもらったんだよ」
不満そうなミーシャに笑いながら、ヒューゴは残っていたお茶を飲み干した。
「下ってくるって、道が通れるようになったの?」
思わぬ情報に目を丸くしたミーシャは、窓の外を見た。
山の頂上付近にはまだ白いものが残っているのが見える。
「この宿の主人が、徒歩で降りて来たんだってさ。町の住人でここいらの道には慣れているからできた芸当みたいで、他の人間はまだ野営地にいるみたいだ。でも、見かけよりは積もってないし天気もいいから昼には出発できるんじゃないかって話だな」
ちゃっかり話を聞いてきたヒューゴは、したり顔で肩を竦めて見せた。
「うちの馬車は雪道対策ができてないみたいだから、遅めに出発するんじゃないかな。宿場町の中は温泉の効果でもう雪はほとんど解けてるし、薬作り終わったなら少し観光してみるか?」
思わぬ誘いに、ミーシャの目が迷うように揺れる。
(どうせ移動できないんだし、部屋に閉じこもってももうできる事もないし、いいかな……)
ミーシャを探しているであろうライン達の事を思えばのん気に観光するのも気が引けるが、急ごうにも身動きできないのが現実だ。予想外にできた時間を有効活用しても責められることはないのではないか。
迷うミーシャを見透かしたように、ヒューゴが囁いた。
「少し歩くけど町はずれの方で源泉が噴き出てる場所があるんだってさ。蒸気を利用して料理したりもしてるらしい。珍しいよな」
「行きたいです!」
それは悪魔の誘惑にミーシャが陥落した瞬間だった。
読んでくださり、ありがとうございました。




