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「……ひび割れが見られる部分は皮膚が厚く固くなっているのですね。触れられている感覚はありますか?それに……それ以外の皮膚も全体的に乾いているみたい。昔から、肌はこんなふうにカサカサしていることが多かったですか?」
小さなランプの明かりだけが頼りの薄暗い洞窟の中、ミーシャはさらされたミルの背中をゆっくりと指先でなぞった。繰り返される確認と質問に、ミルも言葉少なに答えていく。
遠目にまるで鱗のように見えた肌は、間近に見ればその異様さを如実に伝えてくる。
背中全体がガサガサとした質感で皮膚が薄く幾重にもめくれるようになっていた。
ひどい所では、皮膚が厚みを増しひび割れている。肌の色も変質しているため陰影が付き、さらに鱗のような見た目になっているのだ。
(……うーん、薬箱が欲しい)
祭りのさなかに連れてこられたため、ミーシャは手ぶらであった。
借り物の晴れ着のため、いつもは下げているちょっとした薬なんかを入れているポシェットも、隠しポケットにいろいろ仕込まれているマントもない。
「痛みがあったら、教えてくださいね」
一声かけてから、ミーシャは指先でめくれている皮膚をそっとはがしてみた。
薄い皮膚片が、あっさりと剥がれ落ちる。
「何か分かるか?」
指先に残るそれを光にかざしてまじまじと観察していたミーシャに、ヒューゴが何かを期待するように声をかけた。
「残念だけど、今のところは何も。全体的に皮膚の乾燥が激しい事ぐらいで……ただ………」
ミーシャは、クンッと鼻を鳴らす。
「トンブの香りがするけれど、肌に何か塗っていますか?」
初めてエラと採取に出た時、社の奥から風に乗って流れてきた薬草のような香り。
海巫女の一人が体調を崩していると聞いたからそのためかとも思ったけれど、ミルの肌からも同じような香りがしたのだ。
その時は何の薬草かは分からなかったけれど、ここ数日何かと手にしていた為に、今ではミーシャにはその正体がはっきりと分かった。
この村で初めて出会った海草、トンブ。
一年を通して良く採れるため、効果は弱いものの村では痛み止めとしてよく使われると教えられた。
「肌のかゆみを抑えるための軟膏を渡されているので、それを塗っています」
小さく首を傾げながら、ミルが答えた。
物心つくころにはお世話になっていた軟膏で常に塗っていたため体臭の一部となっており、ミルは香りを意識することがなくなっていた。
それは、ミルだけでなくヒューゴやカシュールも同じだったようで、それがどうしたのかという顔をしている。
「それは海巫女になってから塗るようになった薬ですか?」
ミーシャの質問に、ミルとヒューゴは顔を見合わせた。
「それって薄い緑色の薬の事だよな?」
確認するヒューゴに、ミルがコクリと頷く。
「それなら、多分生まれた直ぐから塗ってると思うぜ?ミルは昔から肌が弱かったから、ババ様に定期的にもらってた。少し大きくなったら肌が強くなったのか、毎日は塗らなくなったけど……」
「……生まれた時から」
ミーシャは小さくつぶやくと口をつぐんだ。
ミルは産み月より早く母体から出て、育たないのではないかと危ぶまれるほど体が弱かった。
長じてからも虚弱体質は続いていたようだが、少しづつ体は強くなっているからと、積極的に外に出るようになっていた。
それは、家族と本人の意思ではあったが、ババ様に許可は貰っていた。
正確には、家の中から出したがらない両親の許可を、ババ様の威光を盾にヒューゴがもぎ取ったのだ。
くるくるとミーシャの脳裏で、聞き取った情報と実際に診察したミルの症状がまわる。
「もしかして、海巫女に認定されたという時期は塗るのをやめていましたか?」
「いや……どうだったかな?」
黙り込んでいたミーシャがふいにポツリとつぶやいた言葉に、ミルとヒューゴは再び顔を見合わせる。
「……あまり、塗ってなかったと思います。その年に妹が産まれて、母さんたちはそちらにかかりきりになっていたし……。かゆかったけど、忙しくて薬をもらいに行く暇がないから少し待ってね、って言われたから我慢してました」
ミルが昔を思い出すように少し遠い目をしながらつぶやいた。
家族と共に過ごした日々を、寂しい生活の中で何度も反芻していたミルにとって、数年前のこととはいえ自分の運命が変わった最後の冬の記憶は特に鮮明に残っていた。
ミルの言葉に記憶を刺激されたのか、ヒューゴもハッと目を見張る。
「あぁ、思い出した。ミルの肌の異常に気づいて、薬を塗ろうとしたらなかったんだ。いつも同じ場所に置いてあったのに……。それで親に聞いたら、丁度切らしててもらいに行く暇がなかったっていうから、俺がババ様の所に行ったんだよ。そしたら、そっちでも材料が切れてるからちょっと待てって言われて……」
少しずつ、みんなの表情が険しくなっていく。
「トンブは一年中採取可能な薬草だと聞いています。冬の終わりで備蓄が乏しい時期だっただろうから、他の材料がなくて作れなかったって事もあるかもしれないけれど……」
ここ数日でトンブのほかにも村周辺で採れる薬草はいろいろと教えてもらったし、薬草棚の備蓄も見せてもらっていた。
村の医療を一手に担っているだけあり、かなりの量の薬草が備蓄されていて、よほどの病が村全体で流行しない限り一冬で使い果たすとは考えられなかった。さらに、長く勤めているマヤが、備蓄の必要量を見誤るとも考えにくい。閉ざされた村の中、流行り病でもでて手元に薬がなければ、村全体の命に係わるのだから、慎重すぎるほどに慎重になるはずだ。
ミーシャは、自分ならどんなふうに処方するかと考える。
(肌の乾燥とかゆみ。掻き傷があれば痛みや化膿止めも入れるかしら?)
この村で使われている薬のすべてを教えられたわけではないが、ミーシャの知る知識でも蓄えられていた薬草を使って必要な薬を作り出すことはできそうだった。
(もしかしたら彼女の症状に合わせた特殊な薬草が必要だったのかもしれないけれど、それならなおの事そんな大事な薬を切らしたりするかしら?)
導き出される答えは非常に不穏なもので、ミーシャは口に出していいものか分からず瞳を揺らした。
「……つまり、ミルは嵌められたって事か?」
重苦しい沈黙を破ったのは、ヒューゴだった。
「ミルの肌の印は意図して作られたもので、村の奴らの思惑でミルは海巫女に仕立て上げられた?」
その瞳に、徐々に怒りの色が浮かび上がってくる。
「それはわかりません」
その怒りが決壊しようとした瞬間、ミーシャはきっぱりと首を横に振った。
「ミルの肌の症状は、何らかの病だと私は思いました。そして、代々の海巫女も同じだったのではないかとも」
何を考える間もなくとっさに口をついて出た否定をミーシャはゆっくりと肉付けしていく。
怒りの炎が揺らめく黒い瞳を見つめながら……。
どうにかしてこの炎を消さなければ、ヒューゴが爆発してしまいそうな危うさを感じ取っていたからだ。
「だけど、それがどんな病であるか?どんな症状が起き、これから進行して行くのかも分からない。治すための薬があるのかも不明です。でも……」
ミーシャは、これまで過ごしてきたマヤとの時間を思い出す。
深くしわの刻まれた顔。
長い年月を過ごしてきたことを如実に感じさせる老齢の薬師の瞳は、穏やかに誠実にミーシャを見つめていた。
それと共に語られる言葉は、ミーシャにマヤが尊敬するべき薬師であると思わせるだけの確かな英知が潜んでいた。
(あの人が、村の損得のためだけに患者を不利益に追い込むかしら?)
自問自答の果て、ミーシャはゆっくりと首を横に振った。
「ババ様が意味のない事をするとは思えません。きっとその病に対処するために、これまでの海巫女達がこの社にいる事に意味があるのだと思います」
「意味ってなんだよ?!」
「それはまだ分かりません。だから、少しだけ私に時間をください」
言い切ったミーシャの言葉に、怒り狂っていたヒューゴにも戸惑いが生まれる。
真っ直ぐに見つめるミーシャの瞳には、マヤに対する深い信頼が見えた。
まだ出会って数日しか経たないミーシャが、マヤに対してそれほどの思いを抱く意味が分からずヒューゴは混乱する。
そして大切な妹をこの窮状に陥れたかもしれない村人たちへの怒りが、混乱に飲み込まれてしぼんでいくのを感じた。
「私も、ババ様を信じたい」
そんなヒューゴの耳が、ポツリとこぼれる小さな声を拾った。
「ババ様はいつもみんなが寝静まる夜中に薬をもって社に来ては、私達の痛みを取り除いてくれたわ。私や先代海巫女のノア様の肌に、恐れる事なく触れて薬を塗ってくれた。あの手を嘘だと思えないの」
少し潤んだ目でつぶやくミルに、ヒューゴは何か言いたそうに口を開きかけ、結局唇を噛んで黙り込んだ。
「深刻な空気をぶった切って悪いが、時間だ。潮が満ちてきた」
再び満ちた沈黙を破ったのは、困り顔のカシュールで、ミーシャはこの時間に制限があった事を思い出した。ふと見ると陸地の部分が少しだけ狭まり、打ち寄せる波が迫ってきていた。
「おっと、やばいな。ミーシャを濡らしたら言い訳が効かない」
ヒューゴも我に返ったようで、さっと立ち上がると椅子を片付け始める。
「カシュール、俺はミルを送ってから泳いで帰るから、先に行っていいぞ。後からいつもの場所で落ちあおう」
「わかった」
バタバタと動き出した二人に急き立てられるように舟に乗り込んで、ミーシャは、はっとしたようにミルへと顔を向けた。
「ごめんなさい。最後に!ここで生活している中で、気を付ける事をババ様に何か言われていない?」
「ババ様に?」
突然に問いかけられて、ミルは驚いたように目を瞬いた。
それでも、少しだけ考えこんだ後答えを返す。
「あまり日に当たらないようにすること。日に一度は禊をすること。禊の後は薬を塗って静かに過ごす事。後は……あ、食事に必ずジュルの干物とキキの実を食べるように、とか?」
つらつらとあげて、ミルは何かに気づいたように少し笑う。
「ババ様というか、ノア様にも言われている事ですけど……。他にもいろいろあるから、海巫女の決まりなのかもしれないですね」
少しくすぐったそうな表情は今まで見たミルの笑顔の中で一番かわいくて、ミーシャはつられて笑顔を浮かべた。
「分かったわ。ありがとう。またお話させてくださいね」
手を振るミーシャに、少し戸惑ったような顔をした後、ミルもそっと手を振り返す。
そうして、小さなランプの明かりが遠ざかっていくのを、ミルは見えなくなるまで見送った。
「にぎやかな人だね」
ポツリとつぶやいて、ミルは無意識に振り続けていた手をそっと下した。
まるで幼い頃のように手を振りあった事が何か面映ゆく感じ少し落ち着かないが、なぜか胸がほっこりと温かかった。
「村の外の人だからかなぁ」
ヒューゴと二人になった途端、幼い口調で話すミルに、ヒューゴも気が抜けたように笑って肩を竦めた。
「さてな。オレも今日会ったばかりだから良く分からんが、邪気がないのは確かだろうな」
冬ごもり前の最後の買い出しから帰ると、それとわかるくらい村の空気が浮足立っていた。
そして、自分たちがいない間に漂流者が来たことと、その漂流者が若い薬師の娘でババ様の眼を治して見せたと聞いた。
村一番の知恵者と言われるババ様も知らない、薬の知識を持つ幼い薬師。
ヒューゴが興味を示すのは直ぐで、さらにその娘を拾ったのが協力者であるカシュールと知った時は妙に運命めいたものを感じたほどだ。
妹を閉じ込める原因になった海の神など信じていなかったけれど……。
「とりあえず、居住区まで送る。もう遅いから、早く休まないと」
「うん」
向けた背中に大人しくおぶさるミルの体は小さく軽い。
もともと小柄だったけれど、海巫女に選ばれてからもあまり成長できず、とても年相応には見えない事が切ない。
「薬があるといいな」
「……うん」
思わずこぼれた言葉には、小さな小さな声が返ってきた。
ギィギィと、静かな海に櫂を動かす音だけが流れていく。
洞窟から外に出ても、相変わらずの穏やかな夜が広がっていた。
見上げた月や星がその位置を変えている事だけが、あの時間が本当にあった事なのだと知らしめているようだった。
「ミルはどうだった?」
「かわいい子だったね。歌声だけじゃなく、話している声も素敵だった」
唐突につぶやかれた言葉に、ミーシャは少し微笑んで答える。
「そういうのじゃなく」
ムッとしたような声に、ミーシャは少し肩を竦める。
「あれくらいじゃ、なんとも。私はただの薬師で、物語の魔法使いや賢者様じゃないもの」
「……そうかもしれないけどさ」
今度はしょんぼりとしたような声に、ミーシャは夜空を見上げていた顔をカシュールの方に向けた。
「ただ、ミルちゃんのあれは神様の印なんかじゃなくて、何らかの皮膚病なのは確かだと思う。そして、ババ様はそれに対する知識もあるはずよ」
「なんで分かる?」
言い聞かすようなミーシャの言葉に、カシュールは目を見張った。
「肌の乾燥には潤いを持たせることが大切なの。ミルちゃんは、物心つく前からそのための軟膏を処方されてた。小さな子供の肌が乾燥しやすいのはよくあることだけど、痛み止めであるトンブが最初から配合されているのはおかしいわ。それに、数々の注意点。日に当たらない、禊をすること、特定の食べ物を積極的に摂取する事。やけに具体的だと思わない?」
「そう言われてみれば……」
一つ二つと指折り数えるミーシャに、カシュールは驚きながらも頷いた。
「それに……」
ミーシャはそこで口をつぐんで、視線を再び空へとむける。
夜空には相変わらず美しい月と星がきらめいていたが、ミーシャの翠の瞳はそれを見ていなかった。
「あのまるで鱗のようにひび割れた肌のこと、どこかで似たような話を聞いた覚えがあるのよね。……どこだったかしら?」
自分の記憶を探っているミーシャの瞳が、不思議な色を宿して煌めく。
(ミーシャの眼って、翠だったよな?)
月明かりではよく見えなかったけれど、翠の中にいろいろな色の欠片が煌めいているように見えて、カシュールは目を瞬いた。
何となく見てはいけないものを見てしまったような気がして、カシュールは無言のままぎこちなくミーシャから視線を外した。
静かな夜の海に、規則的な櫂のギイギイと言いうきしむ音だけが響いていった。
読んでくださり、ありがとうございました。
ミルちゃんの病のモデルは魚鱗癬です。
あくまでモデルでしかないため、この後オリジナルの設定も出てきますが、不快に感じる方がいらっしゃったら申し訳ありません。
今さらですが、ババ様の眼は白内障がモデルです。
目薬で完治する病ではありませんが、こちらもまあ、ファンタジーのご都合主義と流してくださると助かります。




