「wolf moon」
「信じすぎると裏切られるかもしれない。だが信じないと、自分が苦しむことになる」
フランク・クレイン
キッチンは異様な雰囲気が張り詰めていた。
そもそもは雛阪の一人暮らしの家だったので台所はたいして大きくはない。
ただ食事にこだわりがある雛阪がキッチンを重視して決めただけはあって、単身者が住むには十分立派なほうなのだが。
そこを雛阪を殺したがっている天使と、アリスに殺されるのに怯える雛阪がお互いに避けながらそんなスペースを使っている。
紅茶だけなら同時にやれるだろうという赤ずきんの判断で、あとのデザート対決は交代制になったのだった。
が、アリスは不満がある。
悪魔の雛阪の料理のスペックのほどは知らないが、そいつの家なのだから悪魔有利ではないかというものと、食料を軽視しているアリスは見たことがあっても実践はほぼない。
「赤ずきんさま、この低級悪魔に有利にしてるなんてことはないですよね?」
「あら、付き合いの長さなら、アリスのほうがうーんと長いはずでしょ、私の好みくらいわかってるわよね。あなた有利じゃないの?」
正論を返されて、アリスは並べられた茶葉を前に困惑する。
ちなみにチェシャ猫はやや落ち着いたものの危険であることには変わらないので、狼が羽交い締めにして待機だ。
傍からみると何事かと思うシチュエーションであるが、悪魔の生死をわけた勝負に見えないことは確かである。
「じゃ、じゃあ僕は『アンジェリーナ』で……」
「はあ!?それってあのココ・シャネルが愛用したフランスの名店のブレンド茶葉じゃないの!最初から味付けが加えられてるものなんて卑怯なわけ!」
「あら、ブレンドものはそれを活かすか殺すか難易度高いわよ。別にブレンドものを選ぶのはポンコツの自由だわ」
「あ、あたしはやっぱり正統派のセイロン使います!あんな邪道に負けてたまるもんですか!」
しかし、お湯を沸かすのすらアリスは見よう見まねだ。
雛阪はビビりつつも手際よく、下準備をしていく。
とりあえずおいしいものならば、とミネラルウォーターの蓋をあけると雛阪が何か言いたそうな顔でアリスを見ている。
「なんなわけ!?真似しないでよ」
「いえ、日本茶の場合は塩素が少ないほうがいいのでミネラルウォーターでもいいんですけど、紅茶の場合は空気が多い水道水のほうが向いてますよ……?」
敵から思わぬ塩を送られて、アリスが歯噛みをすると、狼がチェシャ猫を押さえたままニヤニヤしているのが見えた。
ますます不愉快極まる。
沸かしたお湯で雛阪がティーポットを一旦温めているのが見えるが、何故そんなことをするのかも分からない。
真似をするのが嫌で、アリスはミネラルウォーターのまま続行した。
雛阪はティーコージーをかぶせて蒸らし作業に入ると、バニラビーンズからバニラをだし、赤ワインやオレンジジュースなども取り出している。
紅茶のカップはアイスティー用だ。
タイマーが鳴って、アリスはそこで雛阪が蒸らし時間を図っていたことに気づくが今更遅い。
何分蒸らせばいいのかまずわかっていないのだ。
試しにポットを覗くと、中は見事な真っ黒になっている。
「あ、すいません、僕はアイスティーだったので蒸らす時間が長くって……つられちゃいましたよ、ね?」
「そんなわけないわけ!!いちいちこっち気にしないでよ、気が散るわけ!!」
アリスが噛み付いたときには、雛阪のグラスには見事な香りの紅茶ができあがっている。
これはまずい。
濃くなったものをお湯で薄めてみたが、試しに飲むと苦味が見事に広がっていた。
慌ててミルクなどを足してみるが、ぬるくなってしまい、そもそも紅茶のカップを温めていないことも思い出す。
「ええと、僕のほうはバニラで香りつけをしてワインとオレンジジュースで味を引き立てたアンジェリーナのバニラクラレットティーです」
「セイロンのミルクティーですわ……その、見た目ほどまずくはないはずです、赤ずきんさま!愛情はたくさん入ってますもの!!」
審査員・赤ずきんはまずアリスの紅茶をとった。
ホットなものからせめて先にとってくれるのが、お情けなことはアリスでもわかる。
「……次」
赤ずきんの無表情からは何の感情も伺えない。
雛阪の紅茶に口をつけて、その頬がわずかに緩んだ。
「合格ね、ポンコツの勝ちよ」
ほら、と赤ずきんがアリスに紅茶を差し向ける。
赤ずきんに押されれば、断れるわけがなく、アリスは雛阪の紅茶を一口だけ飲む。
はずが、それが二口になる。
「な、なにこれ!?なんか不正でもしたんじゃないの!!なんでこんな美味しいものができるわけ!?」
「おいおい、おまえさんの目の前で、つうか横で作業してたろうがよ、カイト・ボーイが。不正してたとしたらお前が気がつかないってこったか?それにいま自分で『美味しい』って認めたよな?」
「うるさい、バカ狼!!茶々いれないでよっ!」
「茶ぁ入れてたのはてめえらだろうが。なにぬかす」
雛阪はウロウロしていた。
殺伐としているのに耐えられないらしい。
「ほら、紅茶対決はポンコツ。次はデザート対決よ。どっちが先にやるか、コイントスでもなんでも好きにしなさい」
「あ、あたしが先よ!文句あるわけ?」
「ないです、ないです!!どうぞ、どうぞ!!ただ、その、下準備だけ隅っこで作業してていいデスカ……?」
「ふん、勝手にすれば」
デザートはアリスの興味にはない。
しかし、相棒のチェシャ猫が甘党のせいで、嫌というほど買ったり見たりはしているのだ。
ようは、チョコレートかなにかで甘くすればいいのだ。
砂糖を多くいれて、型に流し込めばいいはず。
既に雛阪は奥でボウルに何か入れて泡立て器を回している。
とりあえずチョコレートを持ち上げて、それが板チョコでもなんでもない謎の丸い形なことが未知だが、チョコレートには変わりがない。
目分量で火のかけた鍋に放り込むと、たちまち焦げ付く匂いが立ち上る。
悲鳴を上げたのはなぜか雛阪だ。
バンホーテンのココアパウダーを手にしたまま、アリスの手元の火を勝手に止める。
「まず、まず、湯煎しましょう!!チョコレートは直火はアウトです。それとこれはカカオが80%なので大量だと苦いので、こっちの方がいいですよ!!」
「……アンタ、さっきからなんで余計なことするワケ?全然わかんない。あたしが勝てばあんたは加護も減るしあの変態かガチ真面目女のところ行かされるのよ?なんであたしにかまうわけ??まさかあたしの加護なんか狙ってるほど厚かましいわけ?」
「まず、コレ、あの有名な『プラリュ』のクーベルチュールなんですよ!けっこう貴重な、っていうか高い素材だし、勿体無いかなって。勝ち負けとかより、おいしいものを作りたいじゃないですか!それに加護は分相応に貰ってるのはかぐやさんに聞いてるし、そんな高望してませんよぉ」
「……あんた、バカ?」
まるで人間と人間の料理対決以下だ。
しかし料理教室的に上から言っているわけでもなく、さっきまでアリスに怯えていたとは思えない真顔で材料愛を語る悪魔は、どうも打算の色もない。
「……アンタ先にやりなさいよ」
「へ?順番は……」
「いいから!!先にするわけ!!」
「は、はい!!」
狼は肘をついて赤ずきんの横で未だニヤついている。
チェシャ猫のほうは甘い匂いに、一旦悪魔の存在を忘れたようで床に座っていた。
雛阪は見事な手つきでココアのスポンジを焼き上げると、チョコレートのカラメルクリームソースを作る。
この間40分もかかっていない。
焼けたスポンジを切り分けて、ブランデーとシロップの入ったボウルから刷毛でスポンジに塗り、先程のクリームソースを鮮やかな手際で塗りながらミルフィーユのように薄く重ねることを繰り返すこと3回。
冷凍庫から解凍されたブルベリーとクランベリーが、出来上がった生地の上にカラフルに彩られる。
「ええと、おまたせしました。チョコラータです。ラム酒で漬けたレーズンだと色合いが寂しいので、アレンジしてベリーにしたんですけど。けっこうチョコレートが濃厚でバターも入ってるので、サッパリする酸味を足しました」
「切り分けて、ポンコツ」
「じゃあ、人数分……」
「私とアリスは一人分、狼はその半分。残りはチェシャ猫に切って」
「え!!それって半ホール以上!?僕の分とかっていうのは」
「あると思うの?」
「で、ですよねー……」
切り分ける手際まで洗練されている。
おまけにイタリア菓子だからか、エスプレッソ付きだ。
赤ずきんだけは紅茶だが。
「……美味しい……」
悔しいことに、味も文句つけようがない。
形だけしか人間の食べ物を食べないアリスでさえ、この味のレベルがわかる。
チェシャ猫は猛然とフォークでチョコラータを攻略しだして、数分かからず半ホール以上のケーキを食べ終わった。
「……おかわり」
「おい、チェシャ猫。もうねぇわ。見てただろーが、ほんの少しだけど食ってない俺のやつやるからもう諦めろや。まあ、あとついでにいっとくが、少年の得意レパートリーは菓子よりメインディッシュだかんな。贔屓はねぇぞ」
後半はアリスに向けられていて、アリスはふてくされるしかない。
狼の皿を舐めるほど綺麗に平らげて、チェシャ猫は雛阪の方へ一歩踏み出す。
雛阪は、逃走できるようにか逃げ腰になった。
「……他には?」
「え?」
「何か、作って……」
「い、急ぎならチェンチとか。トスカーナの揚げ菓子で、オレンジが入るので、チョコソースとかかけてみましょうか?」
「それ、いい」
相棒は完全にお菓子に釣られて、雛阪を悪魔として排除解除するのをやめたらしい。
粉をこね始めた雛阪のすぐ傍に座って甘い匂いを堪能している様子は、人見知りのチェシャ猫とは思えないほどだ。
「完敗なわけ……ちょっと、アンタ、ヒナサカ!私にも教えるわけ!!赤ずきん様の前でもう恥をかけないわけ!!」
「え、ええー、はい……いいんですけど、勝負は??」
これには赤ずきんが僅かに笑みを浮かべかけて、慌ててパーカーをかぶった。
雛阪が狼を見ると、指でOKサインをして人の悪い笑みをちらつかせている。
「中々策士だよなぁ、ハニー。あの凶暴アリスと滅多になつかねぇネコを、少年がこうなること見越してたろ」
「別に、身内で血で血を洗うわけにいかないだけだわ。それに私はお茶が飲みたかっただけだもの」
「よく云うぜ、スイート。あんな笑顔を俺は数百年お目にかかってねぇんだがなー」
とはいえ、身内という発言で、赤ずきんの内心は十分出ている。
狼は大きく伸びをして、悪魔による天使のためのお菓子教室が始まったキッチンを眺めながら平和なあくびをした。
アリスの弱点(?)が明らかにwしかして半分以上知人の実話であることは否めない。
雛阪のお菓子作りはもう、先生してた親のおかげです。小麦粉からバターまで業者もの。クーベルチュールは母はドイツの有名なやつでしたが、雛阪は紅茶のときにフランスのものを使ってたので併せました。あそこもチョコの国。そもそもカカオを導入普及させたのはかのリシュリューだとか。普通は業務用の丸いやつは見ないと思うのだ・・・作者は甘いの駄目なんですけどね。レシピではレーズンでしたがベリーは個人判断です。すんごいサクサクかけた平和な回。次回辺りからきな臭くなってきます。
アリスの台詞が某弐号機のひとを彷彿と・・・たまたまです、ほんとうに。
雛阪ってなんで天使ハーレムになってるの?解せぬ。




