97 終わりへ向かって
どうしてこんなことになってしまったのだろう、とレンフィは自然と窓の外を見た。
春の陽気が心地よさそうだ。こんな日は花を愛で、甘い物を食べ、親しい者たちと楽しくお喋りをしたい。
戦場でそこまでの平穏を望むのは不可能だが、少しくらいは現実逃避をしても許されるだろうか。
「ちょっと顔が良くて強いからって調子に乗らないでいただきたいですね。女に困ってないでしょうに、何故わざわざレンフィ様に手を出す……無垢で清純な聖女様を騙して弄ぶクズですか? クズでしょうね。なんかチャラいし! 許せねぇっ!」
「はぁ? さっきから何言ってるのか分かんねぇけど、売られた喧嘩は買わねぇとな」
睨み合っているのは、フリージャとリオルである。
数日前の夜、アザミと一緒に聖人二人の説得に向かった。
フリージャはあっさりと教国から寝返り、グラジスはかなり迷っていたようだが、結局は停戦に合意した。前々から教国上層部には不満を募らせていたのだという。
心が動かした最も大きな要因は、リッシュア戦線での惨劇の真相である。リッシュア戦線には長年ともに戦った仲間がたくさん残っていたという。おそらくシンジュラはわざと教国兵が大量に死ぬように采配し、仲間の遺体を巨人の材料にした。
『白亜教徒として、兵を導く将として、シンジュラの暴虐は見過ごせん!』
しかし、無条件で協力することはできないと断言された。
グラジスは次のことを求めた。
何も知らない一般の教国兵や民に危害を加えないこと。
呪法や禁魔法のような大地を著しく汚すような戦法は使わないこと。
全てが終結した後、黒が白の管轄にむやみに干渉しないこと。
『白亜教国は大きくなり過ぎた。領土も組織の規模も縮小するのはいい。しかし! 決して白が黒に屈したわけではないからな!』
アザミはその条件をすぐに承諾した。前もってシダールから教国へ侵略する際の方針を伝えられていたようだ。
こうしてムドーラ軍は国境戦の回避に成功したのだった。
勝手に停戦に合意したことは、教国中央にはもちろん指揮下の教国兵にも秘密しなければならない。敵国と通じた将とみなされ、グラジスとフリージャが粛清される恐れがあった。
よって、開戦しないための建前が必要になった。
『僕が行方不明になったことにしましょう。少しは時間稼ぎになるでしょう』
フリージャが忽然と姿を消せば、様々な憶測が飛び交う。
敵前逃亡した、ムドーラに捕まった、極秘任務に就いた、などの可能性が考えられるため、教国中央に指示を仰いでもすぐに解答は得られない。その状態で「グラジス一人で全軍を指揮して敵と戦え」などという無茶な命令もしないはずだ。後任の聖人を選んで派遣するのも時間がかかるだろう。
これで自然に膠着状態を維持できるようになる。
少し前にレンフィとリオルが行方不明になって大騒ぎした際の混乱を思い出したのか、アザミはその案を支持した。
現在教国の目から隠れるため、フリージャはムドーラの砦の軍幹部しか立ち入りできない区域で寝泊まりしつつ、教国内部の情報を話してくれている。
驚くほど協力的なフリージャに、レンフィはその理由を尋ねた。
『当たり前です。覚えていらっしゃらないでしょうが、僕はレンフィ様に命を救っていただいたのです。その御恩を返したいですし、あなたの窮地を救えなかったことも謝りたいですし、教主リンデンとシンジュラには憎悪を覚えましたのでね……もちろん僕自身の私怨もありますよ。グラジスさんほどじゃなくても、リッシュア戦線で死んでいった部下の仇をとりたいと思います』
その後、フリージャから昔のレンフィについていろいろと教えてもらった。かなり美化されている気がしたので話半分に聞いていたが、それでも昔の自分の頑張りを見ていてくれた人がいるのは嬉しかった。
お礼にフリージャがこの砦で快適に過ごせるように気を遣い、仲良く喋っていたのがまずかったらしい。
『ええい、その娘にあまり気安くするな! 貴様もリオルというものがありながら、他の男に構うでない!』
なぜか元帥ガルガドが激しく怒った。
孫のように可愛がっているリオルの恋人が、他の男にデレデレされるのが気に食わなかったようだ。
レンフィは別室に連れ出され、ガルガドとお茶を飲みながら、どれだけ自分がリオルに夢中なのか一生懸命伝えた。フリージャのことは異性として見ていないことも。
途中からガルガドの孫の話に脱線しつつも、ようやく理解を得られて解放された。最終的にはガルガドはすっかりご機嫌になり、また今度お茶に付き合うことになった。
そしてレンフィが元の部屋に戻ると、リオルとフリージャが睨み合い、一触即発の状態になっていた。
レンフィがリオルと交際しているのがバレ、フリージャが負の感情を剝き出しにしていたのだ。
「弱ったレンフィ様の心に付け込んだんでしょう! 卑劣です!」
「普通に接しただけだけど」
「はぁあああ!? レンフィ様を簡単な女みたいに言わないでいただけます!?」
「そんなこと言ってないだろ。大体、お前に文句言われる筋合いもねぇよ。関係ねぇじゃん」
「関係ないですけど! 関係ないのは確かですけど! 心配する権利はありますよ!」
ガルガドを宥めるだけで本日の体力を使い果たしたレンフィは、どうやって仲裁しようか途方に暮れた。言葉が見つからない。
マリーがしたり顔で近づいてきた。
「先輩、ここは女が一生で一度は言ってみたいあのセリフの出番じゃないです?」
「え? なんて言えばいいの?」
「わたしのために争わないで! ですぅ」
あまり言いたくない。レンフィは周囲に助けを求めた。
結局、通りがかったアザミに報告して関係者一同が説教を受ける羽目になった。ガルガドにさえ臆せず意見できるアザミのことを本当に尊敬する。
時間を置いた後に、フリージャにはリオルにどれだけ助けられたかを語って聞かせた。
「心配して下さるのはありがたいのですが、リオルとのことを誤解しないでほしいです。今の私にとって一番大切な人なので……」
「ぐっ……分かりました……今のレンフィ様が幸せなら、僕は……!」
机に突っ伏し、それきり返事がなかったのでそっとしておいた。
「束縛はしたくねぇけど……でも、なんか……」
リオルも少し拗ねていたので、謝って一緒にご飯を食べた。食べ終わる頃にはいつものように笑ってくれた。
そんな風に過ごしていられたのは数日の間だけだった。
シダールがヘイズとマチスを連れて砦を訪れてすぐ、教国の中央で異変が起こったのだ。
あれからずっと、手の痛みが引かない。
シンジュラはリッシュアの塔で出会った無礼な剣士を思い出し、奥歯を噛みしめた。
治癒魔法も治癒術も効果がなかった。右手の甲は赤黒く変色し、少し動かしただけで激痛が走る。
かつて世界を滅ぼした“原初の炎”。あの剣士は、その火の粉が魂に入り込んだ稀有な人間に違いなかった。シンジュラにとっては天敵のような存在である。
次に会った時には必ず始末する。でなければ、この世界を灰色に塗りつぶせない。
「一体どういうことだ! 最初から我々を利用していたのか?」
「いつの間に禁魔法の準備を……」
「黒の悪魔め!」
耳障りな声にシンジュラはぼんやりと周囲を見渡した。
マイス白亜教国本部、大聖堂の会議場。取り囲んで非難してくるのは、今まで散々自分を賛美していた老聖人たちだ。
リッシュア戦線の惨状を伝え聞き、彼らは手の平を返した。帰還するなりシンジュラを拘束し、首に魔力封じの拘束具までつけた。
リッシュアゼル王家の王子を殺すか黒脈の姫を奪って帰れば、その功績で多少の被害は誤魔化せただろうが、巡り合わせが悪かった。あれだけの肉の巨人を戦場に放ったというのに、リッシュア側の被害があまりにも少なかったのだ。
「どいつもこいつも使えない……やはり自分以外を当てにしてはいけないな」
シンジュラは鼻で笑った。
あの戦いから半月経ってもオトギリが帰って来なかった。連絡一つない。死んだのか捕まったのか、あるいは裏切って逃げ出したのか。
どうでも良いことだ。どのみちあの男は無残に死ぬ。そういう仕掛けを体に施しておいた。
そう言えば、マリーにも同じ魔法構築を体に付与しておいた。
ムドーラ王国でのレンフィの捜索はどうなったのか。今のところ一度も報告がなかった。何も情報が集まっていないのだろう。
レンフィは十中八九リッシュア王国にいる。黒脈の姫が名前を漏らしたこと、戦場に虹色の癒しの雨が降ったことから考えて、ほぼ間違いない。どうやら見当違いの場所を捜させていたようだ。
「ああ、そうだ。レンフィならば、この傷も癒せる可能性が……」
ならば、やはりもう一度リッシュア王国に行く必要がある。
「何をぶつぶつと! 話を聞いているのか!」
「……本当に耳障りだ」
思考の邪魔をした枢機卿を睨みつける。もう従順な白亜教徒を演じる必要もない。シンジュラが本性を顕わにすると、老人たちは息を呑んだ。
「っ教主猊下のことも貴様の仕業だな!」
「さぁ? なんのことだ?」
「とぼけるな!」
枢機卿が声高らかに説明した。
あの閉ざされた部屋に侵入し、干からびた教主リンデンの遺体を発見したこと。そばには麻薬が散乱していたこと。世話係に話を聞いたところ、シンジュラの命令で病に倒れたリンデンを長年放置していたこと。
「実の父親になんと惨いことを! 人の心がないのか!」
「……そうか。ようやく死んだのか。それは良いことを聞いたな」
あの男とは確かに血が繋がっているかもしれないが、愛されていると感じたことは一度もない。お互いに便利な道具としか思っていなかったのだ。
親子の情を糾弾されても白けるだけだ。
「やはり黒脈は野蛮で邪悪な存在だ。このような者を生かしておけない。白の神の使徒として、死をもって裁きを!」
枢機卿の言葉に賛同の声が続く。処刑が決定し、万雷の拍手が鳴り響いた。
こんなにも明確に死を願われたことは、シンジュラにとって初めてのことだった。思わず笑みが零れた。
「下手な抵抗はしないことだ。大人しく処刑台に上がるのならば――」
「……馬鹿じゃないか」
自分を囲む三十人ほどの聖人を前に、シンジュラは笑った。
いくら黒脈と言えど、この数の聖人が相手では太刀打ちできない。白亜教は七百年の歴史の中で、何度も屈強な黒脈の王を討ち取って領土を拡大してきた。
そう、普通の黒脈の王ならば、束になった聖人には敵わない。魔力を封じられている状態ならばなおさらだ。
「あいにく僕は普通ではないんだ」
無傷の左手で首の拘束具に触れる。
灰色の靄が周囲に漏れ出す。魔力でも霊力でもない不気味な力が拘束具を破壊した。
「なっ!?」
「教主の次はお前たちだ。僕の糧になってもらおう」
自分の魔力に“灰色”の力を混ぜ合わせて増幅させる。
枢機卿が声を張り上げた。
「今すぐ殺すのだ! こいつは危険だ!」
それぞれの精霊術がシンジュラに殺到した。
戦場を離れ、精霊に報いることなく、今の地位を守ることだけに腐心してきた老人たちだ。その攻撃は鈍く、話にならなかった。
「やはり、別に楽しくはないな」
数十秒後、会議室には血が滴る音だけが残った。
長年殺したいと思っていた父と、欲深い老聖人たちが死んでも、あまり心が動かない。
「っ!」
右手がじくじくと痛み、シンジュラは深くため息を吐いた。
「疲れた……そうだ。僕の方から出向く必要なんてない。その方が、早く終わる」
自分の周りには何一つない。
特別に生まれたのに、普通の人間が当然のように持っているモノは与えられなかった。
特別に育てられたのに、愛も自由も友も夢も幸せも手に入らなかった。
虚しい。
滅びゆく世界を眺めていれば少しは楽しめるかと思っていたが、人々の絶叫も血の匂いも不愉快だ。
「灰色の世界の住人達に託そう。この世界を好きにしてくれていい」
聖人たちの霊力を“反転”させて魔力に変える。
膨大な魔力で一心不乱に魔法を構築した。
本当ならば自分の血を引く子に使うはずだった魔法を、シンジュラは自分自身に使った。
幼い頃からずっと聞こえていた不思議な声。
忘れられたことを恨む怨嗟の言葉。
白と黒の神を呪い、灰色の神の復活を望む祈り。
この世界の外側にある灰色の世界の怨霊を召喚し、体を明け渡した。
「うっ」
魂をすり潰されるような苦痛に喘ぎながら、シンジュラは顕現したそれを受け入れた。
【ありがとう】
【わたしたちはあなたを愛すから】
【一緒にこの妬ましい世界を塗り潰すから】
【白も黒もない灰色に】
【平等に壊れた世界に】
頭の中に恐ろしい声が響く。よりはっきり聞こえるようになった。
シンジュラは息も絶え絶えになりながら、微笑んだ。自分よりも強大な存在に出会い、認めてもらえたことが嬉しかった。
【地下に行きましょう】
【わたしたちと同じように忘れられたもの】
【破滅をもたらすもの】
【災厄の竜はわたしたちの糧になる】
この地は災いの中心となり、徐々に世界を灰色に染めていく。
あの剣士もレンフィもそれを食い止めるために必ずここに来る。そんな確信があった。
シンジュラは静かになった会議場を後にし、地下へ続く階段に向かった。




