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覚えてなくて、ごめんなさい〜囚われ聖女の第二の人生〜  作者: 緑名紺
第六章 聖女と忘れられたモノたち

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95 密談

 

 夜、一人きりの指令室でこの戦場の地図を見ながらも、フリージャは別の土地に想いを馳せていた。

 数日前、リッシュア戦線の情報が伝わってきた。教国上層部からの正規の連絡と、あの地に残してきたかつての部下から独自のルートでもたらされた報告は、ものの見事に食い違っていた。


 リッシュア側の卑劣な魔法作戦により一時撤退を余儀なくされた。そんな根拠もなければ詳細も分からない教国上層部の話は信じるに値しない。

 しかし、部下が伝えてきた恐怖と奇跡に塗れた体験談もまた信じがたいものだった。


「どうする……って、どうしようもないか。はぁ……」


 去った戦場のことも気になるが、今はムドーラ軍への対策を考えなければならない。

 敵の主力となる軍が砦入りしているにもかかわらず、未だに攻撃を仕掛けてこない。好戦的で狡猾と聞いていたムドーラ軍らしくない動きだ。こちらの様子を窺っているのか、はたまた何かを待っているのか。


 それ自体は悪くない。

 フリージャとしては、一日でも長く開戦を遅らせたかった。まだこの戦場の地形を理解できていないし、敵の戦力も測りかねている。今は昨年までの記録を頭に入れ、情報収集に徹していたいのだ。

 しかし相方のグラジスは痺れを切らしつつある。いつも戦略についてはフリージャに一任してくれているが、そろそろ進軍を提案するだろう。リッシュアの情報を聞いて以来、日増しに機嫌が悪くなっている。鬱憤をムドーラ軍にぶつけたくて仕方がない様子だ。


 フリージャは大きく息を吐き、ソファにだらしなく倒れる。

 もう嫌だ。考えることが多すぎる割に、できることが少なすぎる。その上何も楽しみがない。やる気がごりごりとすり減っていく。

 目を閉じて、辛い現実からの逃避を試みる。


「あの、すみません。“星砂の聖人”フリージャ様でしょうか?」


 すぐ近くで聞こえた声に、フリージャは短い悲鳴とともに飛び上がった。

 頼りない蝋燭の光が侵入者を照らす。一体どこから現れたのか、黒い外套を纏った人物が二人、フリージャを見下ろしていた。

 気を抜いていたとはいえ、部屋への侵入に気づかないはずがない。わけのわからない状況に一気に冷や汗が全身を覆う。


「一体何者――」


 臨戦態勢に入り、ソファから飛び降りようとしたフリージャは、侵入者の顔を見て動きを止めた。

 薄闇の中に浮かぶ、潤んだ淡いブルーの瞳と目が合う。

 見間違うはずがない。目の前の神秘的な美貌が、何度も夢に見た憧れの人の姿と重なる。


「れ、れれれ、レンフィ様……っ?」

「はい。レンフィと申します。勝手に入ってしまってごめんなさい。あなたはフリージャ様であっていますか?」


 白虹の聖女レンフィ。ほんの数か月前に教国上層部から死亡の発表があったばかりだ。

 フリージャの思考は停止した。


「外見的特徴は、あの娘の証言と一致する。霊力も強い。この男が聖人フリージャで間違いないだろう」


 もう一人の侵入者の男が断言し、少女はほっとしたように頬を緩めた。

 重なったはずの面影がブレた。聖女レンフィは決してこのような気の抜けた表情を見せない。

 ほんの少し冷静さを取り戻し、フリージャは尋ねた。


「なんなんだ、一体……あなたは本物? それとも偽物?」


 少女は真摯な礼をして告げた。


「私はあなたが知っているレンフィ・スイではありませんが、偽物でもありません。その……記憶がなくて」

「え」

「信じてもらえないかもしれませんが、本当のことです。何も覚えていないのです。なので、ごめんなさい。私は、あなたのことを何も知りません。きっと面識があったのでしょうが……」


 申し訳なさそうな声に、フリージャは何も言葉を返せなかった。

 聖女レンフィが記憶喪失。本当だとしたら、ますます意味が分からない。


「どうか、お話を聞いていただけませんか? できればグラジス様も一緒に……あ、でも、他の方には私たちのことを秘密にしていただきたくて……勝手なお願いばかりでごめんなさい」


 フリージャは少女と男をまじまじと観察し、選択肢がないことを思い知る。

 ここで応戦したり、大声を出して部下を呼んだところで、侵入者に逃げられるか殺されるだけだ。それほど自称レンフィの霊力は強い。雰囲気は全く異なるが、やはり本物の聖女レンフィと判断すべきである。ならば、何をどう頑張っても勝てるはずがない。

 男の方からは魔力を感じた。強さはよく分からないが、立ち振る舞いに隙がない。こちらも相当な手練れだろう。


 大人しく話を聞くしかない。

 ただ、グラジスを呼ぶべきか迷う。人数の上では呼んだ方が安心だが、理不尽な要求をされたり、最悪二人とも殺されてしまう可能性がある。


 フリージャはじっとレンフィを見つめた。

 目が合った瞬間、彼女が戸惑いながらも小さく微笑んだ。体温が瞬間的に急上昇する。


「かわいい……」

「え?」

「な、何でもないです。失礼。すぐグラジスさんを呼んできます……!」


 崇拝する聖女が自分に微笑みかけた記念日だ。なんでも言うことを聞こう。

 話し合いが始まる前から、フリージャは陥落していた。






「急に呼び出されて来てみれば……」


 それきりグラジスは絶句した。フリージャは何も説明せずに連れてきたようだ。

 レンフィは空間認識でフリージャの動きを観察していたが、他の人間とは一切接触していなかった。


『一人で呼びに行ってもらって大丈夫でしょうか? 他の人を連れてきたら』

『 “星砂の聖人”は切れ者だと聞いている。今の時点では迂闊なことはしないだろう』


 アザミの言った通りだった。教国上層部が発表した聖女レンフィの死が虚偽だと判明すれば、一般兵は大いに混乱し、不信感を募らせる。精霊が嘘を嫌うことから、白亜教でも嘘を吐くことは罪深い行為だとしているのだ。フリージャは適切な判断をした。


 この部屋の近くには今、誰もいない。

 レンフィは安心し、改めて切り出した。


「夜分にすみません。私はレンフィ・スイと申します。今夜はお二人にお話したいことがあって参りました」

「なぜ生きてる。それに、その男は黒の王国の者だろう。何者だ?」


 グラジスの鋭い眼光がアザミに向けられ、室内にピリピリとした緊張感が満ちる。しかしレンフィが何かを言う前に、フリージャがグラジスを宥めた。


「それも説明して下さるはず。さぁ、とりあえず座りましょう。お二人もどうぞこちらへ」

「ええい! フリージャ! 貴様、何を考えている! 砦に侵入されたのだぞ! 話なら牢で聞けばいい!」

「大声出さないでください……現状、このお二人を牢に入れるよりも、僕らが墓場に入る可能性が高いんじゃないですかね」

「何を――」

「教国の名の下に死亡が発表された聖女が、生きて目の前にいらっしゃるのです。気になるでしょう、気になりますよね。グラジスさんの大切な教国の威信にかかわる問題ですよ、これは」

「くっ」


 フリージャが生き生きと仕切り、室内の四人は向かい合わせのソファに腰かけた。

 長い前髪の隙間から送られる熱視線に、レンフィは感謝の意を込めてぎこちなく笑みを返した。すると、フリージャがふらりと体を揺らし、両手で顔を覆ってしまった。

 挙動が変わっているけれど、悪い人ではなさそうだ。マリーに聞いた通り、本当に聖女レンフィに並々ならぬ感情を持っているらしい。


「で? 何の用だ」


 グラジスの敵意むき出しの視線を受け、レンフィは怯み、代わりにアザミが口を開いた。


「礼を欠いた訪問については謝罪する。しかし、正面からではお互いに話し合いの席に着くことすらできないことを、まずご理解いただきたい。私は、ムドーラ王国国王直属軍第二の将アザミ・フーリエ」


 落ち着いたアザミとは対照的に、グラジスが即座に立ち上がる。


「ムドーラの将軍だと!?  完全に敵ではないか! レンフィ、貴様、裏切ったのか!」

「グラジスさん静かに。すみませんね、頭に血が上りやすい人で」

「何を悠長にしている! 敵将が目の前にいるのだぞ!」

「まぁ、彼の正体については予想の範囲内なのでそこまでの驚きはないです。疑問は山ほどありますけどね。レンフィ様とムドーラ軍は敵対関係にあった。それがどうして、二人揃って僕らに会いに来たのか……」


 冷静なフリージャに話の続きを促され、アザミが頷く。


「こちらには、疑問の全てに答える用意がある。まずは彼女の身に何が起きたのか順を追って話す」


 アザミの視線に背中を押され、レンフィは気合を入れて語り始めた。


 約四か月前、ムドーラ王国に保護された時、既に記憶を失い、何も覚えていなかったこと。時の聖人ウツロギから記憶喪失の真相を教えてもらったこと。

 このまま教国が黒脈の一族を滅ぼせば世界が危ないこと。

 つい先日まで空の精霊の試練でリッシュア王国に滞在していたことと。

 戦場で教主リンデンの息子であるシンジュラが禁魔法を用いたこと。

 空の精霊から寵愛を授かったこと。


 アザミに補足してもらいながら、丁寧に説明する。三国同盟についての言及だけは避け、それ以外の全てを語り聞かせた。


「白と黒の神々に誓って、嘘偽りは一つもありません」


 何度もイメージしていたおかげか、緊張していた割に上手く話せた。グラジスが口を挟もうとする度にフリージャが押さえ込んでくれたことも大きい。フリージャも、レンフィが教主から受けた仕打ちについて知ると顔色を変えたが、最後まで黙って話を聞いてくれた。


「信じられん!」


 グラジスは吐き捨てるように言い、頭を抱えた。

 やはり受け入れてもらえないのか、と肩を落とすレンフィに対し、フリージャが力なく笑った。


「確かに信じられない話です。しかし作り話にしては細かい部分までしっかり説明できていますし、僕らの持つ情報とも整合性が取れてしまう……ああ、もう、本当に嫌になります。反証を思いつかない……」


 だらりと背もたれに体を預け、フリージャは唸った。

 室内に気まずい沈黙が漂う。

 この空気の中、どうやって助力を請おうかレンフィが言葉を探していると、アザミが淡々と述べた。


「開示できる情報は全て出した。心中察するに余りある状況だが、猶予は与えられない。この場で相談して決めていただきたい」


 視線で促され、レンフィは両指を絡めて祈るように告げた。


「白亜教国の野望を止めるため、力をお貸しください。お願いします」


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