93 国境へ
皆の説得を退け、レンフィは辛くも城を出立した。
怒られたり、呆れられたり、心配されたり、反応は様々だったが、誰もが無事の帰還を祈ってくれた。
帰ってきたら必ずお詫びと恩返しをしよう、とレンフィは胸に誓った。
三国同盟締結のため王同士の会談が行われることが正式に決まり、本格的に対白亜教国の体勢が整いつつある。
レンフィは今日まで自分にできることを考えてきた。その結果、ただリオルと離れたくないという理由以外にも、戦場に向かう目的ができた。
本当ならばシダールに相談して協力を仰ぎたかったのだが、マリーの一件もあって独断で動かざるを得なくなってしまった。
全ての行動に責任を負わなければならないと考えると気が重い。今まで指示を受けて流されることで楽をしていたのだと改めて思い知らされた。
「はぁ、良かったですぅ。こんなに楽に移動ができて……三指の聖人になっていたなんて、さすがレンフィ先輩ですね! 快適ー!」
一度目の空間転移の後、マリーが声を弾ませて言った。
朝食の時と比べ、随分と機嫌が良い。刺々した態度を取られるよりはいいが、急に懐かれてレンフィは戸惑った。
おそらく、朝食後に二度目の治癒術を施したことが原因である。「心身ともに衰弱した人間には念入りに治癒術を施すように」というサフランの教えに従っただけなのだが、結果的に肌荒れまで治ったことで、心を開いてくれたらしい。マリーは何度も指先を眺め、ご満悦であった。
「態度がコロコロ変わって信用できねぇんだよな、こいつ。やっぱり砦に連れて行きたくない」
呆れるリオルを、マリーが鼻で笑う。
「はぁ? 記憶喪失の捕虜に手を出す男に言われたくないですぅ」
「うるせぇ。真剣に付き合ってるんだから何も問題ねぇよ」
「それもどうかと思いますけどね。いくら先輩が可愛いからって、命の取り合いをしていた女に本気で惚れます? フツー」
「仕方ねぇだろ、めちゃくちゃ可愛いんだから」
レンフィが「恥ずかしい」と抗議するまで、二人の小競り合いは続いた。
リオルはマリーにあまり良い印象を持っていなかった。マリーがムドーラに捕まった時の言動を聞き及んでおり、さらに昨夜レンフィに対して八つ当たりの暴言を吐いたのを目撃しているからだ。ただ、オトギリと違って殺してやりたいとまでは思わない。
転移先はまだ雪の残る森の中だった。休憩のためにリオルが焚火の用意を始めると、マリーが擦り寄り、レンフィに耳打ちした。
「レンフィ先輩。本っ当にあの人が彼氏でいいんですか?」
「どういう意味?」
「だって、先輩ならもっと良い男狙えると思います」
思えば、リオルを恋人だと紹介した時から、マリーは何か言いたげな顔をしていた。レンフィには不思議でならない。
「え? リオルはものすごく素敵な人だよ。分からない?」
「……そうですか。惚気、ありがとうございますぅ」
とんでもなく渋い表情でマリーはため息を吐いた。
「顔も悪くないし、良い体してそうだし、あの年齢で将軍なら将来性もあります。でもあの人、明るくさっぱりした性格に見えて、絶対束縛が激しいタイプです。多分苦労しますよー?」
「そくばく?」
「独占欲が強い面倒臭い男です。何かしようとすると頭ごなしに『ダメ』って言われたり、必要ないのにべたべた触られたり、やたら人前で付き合ってることを公言されたりしてません? そうやって周りに牽制して――」
レンフィが首を傾げた途端、マリーは背後からリオルに首根っこを掴まれた。悪戯して叱られる猫のようだ。
「全部聞こえてる。レンフィに変なこと吹き込むな」
「ひどいですぅ。図星だからって女の子にこんな仕打ち」
「ああ、こんなに女にイラっとしたの初めてだ」
リオルはぞんざいにマリーを地面に降ろし、打って変わって優しい動作でレンフィを抱き上げ、焚火の近くの石に腰掛けた。
最近のリオルは、レンフィを膝の上に乗せるのがお気に入りのようだった。抵抗を試みるが、見上げた先にある明るい笑顔を見て動きが鈍くなる。レンフィもまた、この体勢が満更でもなかった。
「まぁ、こいつの言ってることに思い当たる節はあるけど、心配すんな。俺はレンフィを縛り付けたりしないからな。伸び伸びと付き合う」
「とか言いつつ、早速レンフィ先輩を物理的に拘束してるじゃないですか。ドン引きですぅ」
「これはただのスキンシップだ。砦に入ったら、もうこんな時間ないかもしれねぇし」
目算ではあと二回の空間転移で国境に到着する。軍に合流したらもう遊んではいられない。特にリオルは戦況を把握し、すぐに将軍として動かねばならないだろう。
こうしてゆっくり話すこともしばらくはできなくなる。そう思ったら、離れがたくなってしまった。
「うん。私が一緒にいたいって言ったの。束縛、嫌じゃない」
素直にもたれかかると、リオルがご機嫌に笑った。マリーはげんなりと首を横に振る。
「先輩、男ができるとこうなるんですね……まぁ、前の冷たい無表情よりはマシですし、先輩がフリーだと目ぼしい男たちを根こそぎ誘引しそうなので、素直に祝福しておきますけど」
「ありがとう、マリー」
「でも、わたしの前でいちゃつかないでほしいです。ただでさえ、目当ての男を諦めたばかりなのに……見せつけられると悲しい……ぐす」
ぼんやりと焚火に見入るマリーが煤けて見え、レンフィは慌ててリオルの膝から降りた。
「ご、ごめんなさい。やっぱり、教国に大切な人が――」
「いいえ? ただ最上級に良い男だったので、手を引くのが惜しいなって話です。でもよく考えれば、シンジュラ様も性格は悪かったですし……」
その名前に、レンフィよりも先にリオルが反応した。
「お前、そいつと親しかったのか?」
「残念ながらあんまり。聞いてませんか? シンジュラ様についてはあの不気味な魔法士に話しましたけど――」
シンジュラは教主リンデンと亡国の黒脈の姫の子どもで、魔法に関しては並ぶ者のいない天才と断言できる。
教国上層部の大半はシンジュラのことを敬虔な白亜教徒だと信じているが、実は彼には野望があった。
「シンジュラ様は、残りの黒脈の血族を滅ぼして、その後は教主猊下も殺して教国を乗っ取るつもりだと思います。つまり、大陸統一ですねっ」
「ああ、その辺りはヘイズさんから聞いた」
「むぅ……あと、シンジュラ様の野望のためには子どもが必要って言ってました。だからレンフィ先輩の代わりに妻となる黒脈の姫を攫いに、今はリッシュア王国に行ってるはずです。わたしは立候補したのに無視されました。確かに霊力は釣り合わないですけど、愛してさえくれれば――」
レンフィたちが数日前までリッシュア王国に滞在し、シンジュラと一悶着起こしたことは、マリーにはまだ伝えていない。言う機会を逃してしまった。
「黒脈の男って性格悪いですぅ。顔が良いからなんとか許せますけどー」
マリーがぶつくさと愚痴をこぼす間、リオルと密かに相談した。
「子どもに自分の国を継がせたい、ってことか? そういう人間には見えなかったぜ」
「うん。そういう理由なら、すぐ子どもが必要にはならないよね。他に理由があると思う」
今の段階で危険を冒して他国から黒脈の姫を攫おうとするなら、できるだけ早く血の繋がった子どもを必要としているということ。
シンジュラは禁忌に触れる魔法を平然と使い、屍で肉の巨人を創り出す男だ。血の繋がった子どもをどうするつもりなのか、嫌な方向に想像が膨らむ。
二人が深刻な表情をしているのを見てか、マリーがやれやれと言った様子で肩をすくめた。
「やっぱり昔の男のことは気になるんですねー。大サービスで教えてあげますぅ。シンジュラ様は、レンフィ先輩に手を出していません!」
全く見当違いな発言だったが、レンフィとリオルにとっては不意の朗報だった。
「それ、嘘じゃねぇだろうな?」
「本当ですよ。シンジュラ様ってちょっと潔癖っぽい感じでしたし、先輩も全く可愛げがなかったですし、接触は皆無でした。信用できないなら別にいいですけど?」
このようなことでマリーが嘘を吐く理由はない。
レンフィは大きく息を吐いた。シンジュラとの関係についてはできるだけ考えないようにしていたが、思いのほか心の負担になっていたようだ。モヤモヤが晴れて清々しい気持ちになった。
リオルにいたっては目を輝かせて喜んでいる。
「そっかそっか、安心した! よし、マリー。良いこと教えてもらったし、これからお前のことは邪険にしないでおく。ただし、レンフィを傷つけたら絶対に許さねぇからな」
「き、肝に銘じますぅ」
浮かれながら魔力をたぎらせるリオルを見て、マリーは引き攣った笑みを浮かべた。
「あ、そうだ。俺も良いこと教えてやるよ。ヘイズさんに聞いたけど、お前の体に魔法が仕込んであったらしいぞ。多分シンジュラの仕業だろ」
「えっ?」
ヘイズは、ただマリーを実験台にしていたわけではなく、その体に魔法の痕跡がないか隈なく調べていたらしい。レンフィの心臓に魔法がかけられていたのだから、その懸念は当然のものだった。
結果、とある魔法構築がマリーの腕の辺りに見つかったのだという。
「確か、合図一つでお前の霊力を魔力に反転する魔法らしい」
「な、ななななんですか、それ。わたし、どうなるんです!?」
「詳しい原理は分かんねぇけど、無理に力を反転されると大抵の人間は耐えられなくて死ぬらしい」
「へっ!? わたし死んじゃうんですか!?」
「……そのはずだったんだけど、ヘイズさんがいろいろ実験しつつ、その魔法を無効化してくれたってさ。良かったな。多分、めちゃくちゃ高度な技だぞ。ヘイズさんじゃなきゃできない芸当だと思う。そういうわけだからさ、もうシンジュラに執着するのやめとけ」
マリーはすっかり顔色が悪くなっていた。しきりに両腕を抱きしめてさすっている。
「シンジュラ様、いつの間に……ああ、あの時? いつもより長く腕を組ませてもらえた……」
レンフィはなんと声をかければ良いのか分からなかった。
片想いをしていた男性に、死んでもおかしくないような魔法を仕掛けられていたのだ。そのショックは計り知れない。
「……ことごとくコケにしてくれますね。もういいです。そっちがその気なら、こっちだってヤる気出しちゃいますから」
焚火の中で薪が爆ぜるのと同時に、マリーが勢いよく顔を上げた。その瞳にはギラギラとした光が宿っていた。
「さぁ、レンフィ先輩! あの性悪黒王子をその野望ごと粉々にしてやりましょ! まずは国境戦ですよね! 秒で蹴散らして中央に行きますよ!」
その勢いに気圧されつつ、レンフィは躊躇いがちに述べた。
「えっと、そのことなんだけど、あの……私、向こうの聖人に会いに行ってみようと思っていて――」




