92 姉妹で朝食
マリーは静かに混乱していた。
「どうぞ。ゆっくり食べてくださいね」
早朝、塔の部屋のベッドの上で目を覚ましてから、レンフィにあれこれ世話を焼かれ、今は机を挟んで座り、湯気の立つスープとふっくらとしたパンを勧められたところである。久しぶりの食事を見て、口一杯によだれが滲み出た。
「……何のつもりですか?」
なけなしの矜持で空腹を堪え、レンフィに問う。
脱走した以上、殺されて当然。しかし牢にすら戻されていない。
やはり夢ではなかった。途中で意識を失ってしまったものの、昨夜の会話は覚えていた。レンフィはシダール王からマリーを庇ったのだ。
マリーには、その理由が分からない。直前にたくさん暴言を吐いた。かつてのレンフィが苦しんでいた頃、自分も加害者側にいたとはっきり分かったはずなのに。
どうして今も、レンフィはおどおどしながら微笑んでいるのだろう。頭の中がお花畑なのか。
「朝ご飯です。食欲、ありませんか?」
「そんなわけないです。わたしが言いたいのはそういうことじゃないんですけど」
「あ、私が一緒だと食べづらいですか? ごめんなさい。でも、まだあなたを一人にするわけにはいかないので……」
申し訳なさそうに目を伏せたレンフィを見て、マリーは説明が面倒になった。全てを話し終える前にまた力尽きて気を失いそうだ。
どのみち、これから生き延びるためにはレンフィの庇護下に入るしかない。完全に信用されたわけではないらしく、霊力封じの枷は装着されたままだ。枷が外されるまでは大人しくしていよう。
マリーは矜持をさっさと放り投げ、生存本能に従うことにした。
しかし本性がバレている以上、どのように振舞うべきか悩む。迷った末、特に媚びを売ることもなく、素っ気なく歩み寄って見せた。
「別にいいです。先輩が一緒でも気になりません。いただきます」
朝食に手を付ける。レンフィが用意したものならば毒は入っていないだろう。第三者の悪意で何かが混入していても、治癒術ですぐ浄化してもらえる。
マリーは黙々と食べ勧めた。薄味だが、弱った体には染み渡るような優しい味の野菜スープだった。パンも今朝焼いたものだ。素直に美味しいと感じる。
「お口に合いますか?」
「まぁまぁ美味しいです。久しぶりにまともなものを食べたせいかもしれないですけど」
「そ、そうですか」
レンフィはぎこちなく頬を緩めた。
マリーは密かにレンフィのあまりの変わり様に驚いていた。数か月前までの彼女は何が起きても人形のように眉一つ動かさず、その眼差しは凍りついているかのように冷たかった。それが今、こちらの一挙手一投足を好意と興味に染まった瞳で見つめている。
「良かったら、こちらも食べてください」
「……いいんですか?」
「はい」
レンフィが快くパンを譲ってくれた。
この状況にマリーは既視感を覚えた。記憶が蘇ってくる。
『マリー、これ食べて』
まだ教会で暮らしていた頃、マリーは幼くして闇の加護を得た。
寵愛と違い、加護は授かる時に精霊は顕現してくれないため、どうして自分に力が与えられたのか理由は分からない。おそらく、毎日の祈りを熱心に行っていたからだろう。この世に苦しい想いをする人がいなくなるよう、早く安らかな時が訪れるように願っていた。
そんな純真な心を持っていた時代がマリーにもあったのだ。
しかし、闇の加護のことが周囲に知られてから、一緒に暮らしていた“姉妹”たちの態度が一変した。話しかけても無視され、泥団子を投げつけられ、しまいには食事を配ってもらえなくなった。
多数に歯向かう勇気はなく、泣き寝入りするしかなかった。大人たちは気づいていても、面倒を嫌って見て見ぬふりをした。
そんな中、助けてくれたのはレンフィだけだった。
教会の中で飛び抜けて霊力の強いレンフィには、誰も手出ししようとしなかった。当時から教主リンデンが目をかけているという噂もあったのでなおさらだ。
マリーにとってレンフィは安全地帯に他ならない。慈愛に満ちた微笑みを浮かべる姿はまさしく聖女そのもので、眩しくてたまらなかった。
『みんな、マリーの力がよく分からなくて怖がっているだけだよ。私が一緒にいて大丈夫だって分かれば、きっと元に戻るから』
マリーとしては、自分を疎外した連中に一泡吹かせてほしかったが、レンフィは事を荒立てるようなことをしなかった。ただマリーの隣にいて、さりげなく庇ってくれるだけ。
争いを避ける精神性は、白の神の申し子と言われるだけのことはある。
記憶を失くして、かつての彼女は見る影もなくなった。しかしそれでも、重なる部分はある。もう誰も覚えていないだろう、悲劇の聖女になる前のレンフィをマリーは知っていた。
「やっぱり、根本は変わってないんですね……」
「え?」
「なんでもないですぅ。では、ありがたくいただきますね」
受け取ったパンをマリーはちびちびと食べた。
「マリーさん、実は今日、この後――」
「その呼び方は止めてください。なんか、気持ち悪いです」
「気持ち悪い……」
軽くショックを受けるレンフィに対し、マリーは咳払いをした。
「呼び方、マリーでいいです。敬語もなしで。前と同じが良いんです」
「わ、分かった。えっと、マリー……」
もじもじと恥ずかしそうに自分を呼ぶレンフィを見て、「この人が男だったらな」としんみりと思った。そうであれば、お互いに良い想いができただろう。
だんだんと、レンフィと張り合っていたのが馬鹿らしくなってきた。今のレンフィはあまりにも幼くて、毒気を抜かれる。
「実は、今日はこの後、リオルと一緒に国境の砦に行くの。それで、マリーを置いて行くわけにはいかないから、一緒についてきてもらわないといけなくて……」
いろいろと聞き捨てならない話だった。
パンをちぎる手を止め、まじまじとレンフィを見る。
「リオルって、聞き覚えがあります。もしかして、先輩が殺し損ねていたムドーラの将軍ですか?」
「う、うん。そう。昨夜もこの部屋に来てた人」
「ああ、そう言えば知らない男が一人いましたね。それどころじゃなかったのでよく覚えてないですけど……敵同士だったのに、今ではすっかり“仲良し”なんですね?」
レンフィの顔がぽっと赤くなる。ただの嫌味のつもりだったのに、なんだか信じられないことが起きていそうで、マリーは別方面に話を切り替えた。
「そうそう。昨日も戦場に行く行かないで、王様と揉めていたような……先輩は、ムドーラ側として参戦するつもりなんですか?」
「……うん。人を直接手にかけたりは多分できないと思うけど、お城でじっとしていられないから」
歯切れの悪い返事に、マリーの心がざらりとした。覚悟が定まっているようには見えない。
「レンフィ先輩は、もう完全に教国を裏切っちゃうんですね。まぁ、教国を恨む気持ちは分かりますよ。過去の自分が何をされたか、知ってるんですもんね」
「……裏切るとか恨むというよりも、教国がしようとしていることを止めたいの。マリーがどこまで知っているのか分からないけど、このままだと人間にも世界にも、良くないことになるみたい」
レンフィ曰く、黒の神が弱っている状態で白の神と融合するのは、人間にとってとても都合の悪いことらしい。これ以上教国が力をつけ、黒脈の血族が絶えていくのはまずい。だからレンフィは黒の王国に与して、白と黒の調整を手伝うことにしたという。
「ふぅん。なんだか大変そうな話です」
「あまり驚いてない? それに、信じてくれるの?」
「先輩の話を全部信じはしませんけど、わたし、そこまで熱心な白亜教徒じゃないんで。教国上層部のお爺ちゃんたちの頭が腐りきってるのは知ってますし、先輩が犠牲になった儀式だって怪しさ満点でしたもん。悪いことしてるっていう自覚はありましたよ。こんな世界規模で悪影響があるなんて、さすがに思っていませんでしたけど」
マリーが淡々と述べると、レンフィは目を瞬かせた。
「えっと、じゃあ、あの、マリーも手伝ってくれる?」
「…………」
レンフィくらいの力があれば、「自分がなんとかしなきゃ」と思うのだろう。しかしマリーを含めた大抵の人間は悪いことが起きると分かっていても、「なんとかしてくれ」としか思わない。
この大陸で最も強く豊かなのは間違いなくマイス白亜教国だ。
そこでの恵まれた生活を捨て、強者に楯突く気にはなれない。そんな正義感はマリーにはなかった。
「ちなみに、手伝わないっていう選択はあるんですか?」
「それは、その……強制はできないよ。私と違ってマリーには記憶があるから、大切な人がいる故郷を不利にするようなこと、簡単にはできないよね……」
また、マリーの心がざわついた。その理由を思い知って、静かに奥歯を噛みしめる。
大切な人など誰もいない。同じように、自分を大切に想ってくれる存在もいない。
マリーが敵国に囚われていると知って心を痛めてくれる人も、助けに来てくれる人も。
血の繋がった家族のことは何も知らない。友達も、恋人もいない。
贅沢をさせてくれた教国上層部の男たちも、同じように地位のある男に取り入ろうとしていたライバルの女たちも、この先自分の存在を思い出すかも怪しい。
唯一執着している相手と言えば、シンジュラだ。
しかし、魅力的な男だから尽くしてきたが、自分の命を懸けるほどの忠誠を捧げているわけではなかった。何よりシンジュラ自身が、マリーのことを必要としていない。
今この瞬間、誰よりもマリーのことを案じてくれているのはレンフィだった。そしてマリーが信じられる相手もレンフィしかいないのだ。
これ以上ない皮肉に、握り締めたスプーンを持つ手が震えた。
よくよく考えてみれば、マリーが教国を裏切っても何も問題がなかった。置いてきた財産や男たちからの高価な貢ぎ物は惜しいが、危険を冒してまで守りたいモノではない。
『やり直す機会があれば、きっと』
昨夜のレンフィの言葉を思い出し、マリーは心境の変化に戸惑っていた。
尻尾を振って油断させ、レンフィの隙を突いて逃げ出そうと思っていたのに、教国に帰ろうという気持ちがほとんどなくなっていた。
今までの生き方を後悔していないつもりだったが、心のどこかで「やり直したい」と思っていたのかもしれない。
それは簡単なことではない。レンフィのように記憶喪失ならともかく……。
裏を返せば、目の前にいる彼女との関係はやり直せる。否、ゼロから構築していけるだろう。
「大丈夫? 顔色が悪いけど」
心配そうなレンフィを見て、マリーは諦めのため息を吐いた。
彼女の側にいれば、少なくとも安全と最低限の生活は保障されそうだ。
それに、彼女には借りを作りすぎた。さすがにこれ以上騙したり陥れるのは良心が咎める。
無性に悔しい。しかし、腸が煮えくり返るような気分ではない。どこかくすぐったくて、恥ずかしかった。
唇を尖らせ、マリーはレンフィに答えた。
「仕方ないですね。教国を裏切ってあげてもいいですけど?」
次の更新までまた時間がかかりそうです。
申し訳ありません。




