90 正反対
カルナ姫のお茶会から塔の部屋に帰り、レンフィは荷造りを始めた。
リオルがシダールを説得できれば、明日には一緒に出立することになる。もしダメなら「移動の時間がもったいない」と言って、自分が空間転移でリオルを送り届け、そのまま国境の砦に居座るというのはどうだろう。
「……迷惑だよね、それは。うーん」
ブライダとアザミにとても怒られそうだし、今度こそガルガドに真っ二つにされるかもしれない。やはりシダールの許可がほしい。
そんなことを考えて手を止めていたところ、扉をノックされる音で我に返った。
「はい?」
「すみません、レンフィさんですか?」
扉越しに聞こえたのは知らない少女の声だった。新しい侍女だろうか、とレンフィは首を傾げつつも肯定する。
「そうですが、何か御用ですか?」
「今、お部屋の中に一人でしょうか?」
「? ……はい」
その瞬間、弾けるように扉が開いた。
「助けてください! レンフィ先輩!」
飛び込んできたのは、粗末な服に身を包んだ少女だった。レンフィよりも少し年下で、随分顔色が悪かった。
「え、先輩? あの、大丈夫ですか? あなたは一体」
「わたし、あなたの妹のマリーですぅ!」
「妹?」
レンフィは息を呑む。縋りついてきたマリーからは霊力を感じ取れた。
自分に“妹”たちがいたことは聞いている。彼女たちを人質に取られていたからこそ、聖女レンフィは教主リンデンに従わざるを得なかった。
そして、“妹”たちは記憶を奪われる儀式の前に全員惨殺されたはずだ。
「わたしのこと、まだ城の人に聞いてないんですか?」
おずおずとレンフィが、頷くとマリーはなぜか目を輝かせた。
「本当に記憶喪失になってしまったんですね。でも、わたしは間違いなく同じ教会で育った妹で、一緒に教国のために働いていた後輩なんですよ! 信じてくださいっ!」
「……どうして、ここに?」
レンフィが呆然としたまま尋ねると、マリーは瞳に涙を溜めた。
「この城に先輩がいるって聞いて、わたし、捜しに来たんです。でも見つかって捕まってしまって……今までずっと地下牢に……ぐすっ」
マリーは涙をこぼしながら喚いた。
「この国の人たち、全然話を聞いてくれなくて、酷いこといっぱいされて、このままじゃ殺されちゃいます! 助けてください、レンフィ先輩!」
「…………」
とりあえずレンフィはマリーの体に治癒術を施した。目立った外傷はないが、体の内側は確かに衰弱している。
最初は怯えていたマリーだが、柔らかい白と虹色の光を浴び、ほっと息を吐いた。そして室内を見渡し、憐れむようにレンフィを見上げた。
「ありがとうございます。先輩もきっと、連中にめちゃくちゃにされたんですよね。この部屋、どう見ても……」
「え」
「魔王や臣下の男たちに毎晩好きにされているんでしょう? それとも殴られて痛めつけられますか? 可哀想……敵国の聖女だからってあんまりです」
「あ、あの、私は平気です。そんなにひどいことはされていません。皆さん、今は優し――」
「ああ、暴力男がよく使う手です! 騙されてます! 顔の良い男に徐々に甘い言葉を囁かれて、洗脳されているんですよ!」
何か誤解を生む物言いをしてしまったようだ。
レンフィは慌てて訂正しようとしたが、マリーは聞く耳を持たなかった。
「わたしと一緒に逃げて、白亜教国に帰りましょ!」
ぎゅっと両手を掴まれ、レンフィは困惑した。
マリーについては分からないことだらけだ。しかし、教国に帰ろうと言われた以上、はっきりさせておかねばならないことがある。
そっとマリーの手を握り返す。
「マリーさん。教えてください。あなたは、私がなぜ記憶を失ったのか知っていますか?」
「え? えっと、それは……」
「私は知っています。黒の神を弱らせる儀式の生贄にされたことを」
マリーは目を見開き、口をパクパクと動かした。
この反応は「知らなかった」というものではない。「どうしてお前が儀式のことを知っているのか」と驚き、焦っているのだ。
過去のレンフィの身に起こったことを知っているのなら、帰ろうなどと提案するはずがない。マリーは、過去の自分を慕っていた存在ではないのだ。
レンフィは少し悲しくなった。
「ごめんなさい。私は教国には帰れません」
マリーは乱暴に手を振り解き、態度を豹変させた。
「じゃあ、わたしは!? このまま殺されても良いって言うのっ?」
問われてから、レンフィは胸を痛めた。
マリーを逃がすことはできない。ならば、今ここで自分が彼女を捕らえて牢に戻ってもらうしかない。そうしたらやはり、殺されてしまうに違いなかった。
「えっと、マリーさん。私を捜しに来たのは本当ですか? そのためだけにムドーラに?」
「はぁ? そうですけど? 生きてるならもっと上手に隠れてくださいよ。変な噂が教国に届くから、わたしが派遣される羽目になったんですよ! 連れ戻せなんて、やっぱり無茶です……なんでわたしばっかり貧乏くじを――」
不貞腐れるあまり、マリーは失言に気づいていなかった。
自分に会いたくてきたわけではなく、誰かに命じられてやってきたのだと分かり、レンフィはさらに苦々しい気持ちになった。
「……あの、今の私の立場でシダール様たちに何かをお願いすることは難しいんですが、相談してみます。あなたが死ななくて済む方法がないか」
例えば、ムドーラ王国にとって有益だと分かれば、生かしてもらえるはずだ。自分もそうだった。
相手は教国の密偵だ。過去の自分はマリーに傷つけられたかもしれないし、手酷く裏切られた可能性だってある。
そんな相手を助けようなど、甘い考えかもしれない。しかし仮にも相手は“妹”と名乗る存在で、自分よりも年下の少女だ。
自分に関わったせいで死んでほしくない。それがレンフィの素直な気持ちだった。
レンフィは彼女のことを何も知らない。だからこそ簡単に見捨てることができなかった。
「馬鹿じゃないですか? 無理ですよ、そんなの」
マリーはレンフィの提案を鼻で笑った。
それができるのなら、もうやっている。尋問に耐えかねて、自分が知っている教国の情報はほとんど話した。どれも既に知られているか、興味を惹かない内容だったらしい。
唯一、ヘイズはマリーの精霊術に関心を示したが、それはそれで問題だった。限界まで実験台にされるのは目に見えている。色仕掛けも当然のように通用しなかった。
もう処分されるのも時間の問題だ。
謁見の間で毒薬を飲まされそうになってから、マリーはすっかりムドーラに取り入る気力を失くしていた。やはり“悪の王国”と呼ばれるだけのことはある。
レンフィの態度には虫唾が走った。
教国にいた頃とは随分と雰囲気が違うが、根本は同じだ。記憶を失い、立場を失い、社会的に殺されてもなお、彼女の方が上の立場にいる。
不公平にも程がある。マリーは明確な悪意をレンフィに向けた。
「というか、どういうつもりですか? わたしは先輩を騙そうとしたのに、助けようだなんて……記憶を失くしてるんだから今が初対面ですよね? そのわたしに同情? それとも自分のせいでわたしが殺されると知って、目覚めが悪いですか? レンフィ先輩、記憶を失っても偽善者なんですね」
「……やっぱりあなたは、私のことが嫌いだったんですね」
レンフィの言葉に、マリーは即座に満面の笑顔を返す。
「過去形じゃないです、今も嫌いですぅ。当たり前じゃないですか。先輩と同じ教会で育ったというだけで、殺されるところだったんですよ? 他の子たちとは違って、わたしは頑張って生き延びる道を見つけましたけど……我慢に我慢を重ねてきたんです」
マリーの口からは不満がとめどなく溢れてくる。レンフィは息苦しさを感じ、思わず胸元を押さえた。
「ずるいんですよ。自分だけ悲劇の聖女気取りで……今もそうでしょう? 記憶がないからって、けろりとしている。ああ、分かりました。この王国の男たちにも『可哀想』って思わせて可愛がられているんでしょう? そういう取り入り方、わたしもするのでよく分かります。先輩は武器がたくさんあっていいですよねぇ。顔も霊力も精霊の寵愛も、それだけたくさん恵まれているくせに不幸ぶらないでください。ものすごく嫌味ですから」
レンフィの心に、斬りつけられたような激しい痛みが走った。体が重く、頭の奥で鈍痛がする。
「っ!」
マリーの言っていることは間違ってない。彼女の境遇を考えれば恨まれて当然だ。自分が今幸せを感じている分、マリーに対して猛烈に罪悪感を覚えてしまう。
怖い、許して、もう何も言わないで。
喉の奥から苦しみがせり上がってきて、レンフィの視界は滲んでいった。
その時、違和感に気づいた。
どうしてこんなに胸が痛むのだろう。悪意のある言葉をぶつけられるのは初めてではない。この城で目覚めてすぐの頃は、散々言葉で嬲られた。
その時よりも味方が増え、いろいろなことを経験し、様々な人たちの心に触れ、少しは精神的に強くなったはずだ。にもかかわらず、どうして今経験したことがないほどの絶望に襲われ、死にたくなっているのだろう。
嫌な気配を感じ取り、レンフィは咄嗟に自らの霊力に意識を集中した。
「気づかれた……!」
マリーが舌打ちした瞬間、視界が真っ暗になった。部屋の中の何一つ視認できない。
闇の精霊術。そう直感したレンフィは、怯えることなく即座に手を伸ばした。
「きゃっ、何するんですかっ! 離して!」
逃げようとしたマリーの腕を掴む。空間認識ができる今、レンフィにとって暗闇は恐れるものではなかった。
「ごめんなさい」
マリーが霊力で生み出した闇を祓うため、レンフィは光の精霊術を用いた。その時、心身を蝕んでいた闇も波が引くように消えていった。
「あ」
闇と光、二つの属性に染まった霊力が触れて反発した。霊力の量が圧倒的に勝っていたせいだろう、マリーの記憶と感情の断片がレンフィの中に流れ込んできた。
彼女が今までどのような手を使って生き延びてきたか。どれだけ聖女レンフィと比較され、妬み、嫌ってきたのか。
しかし、伝わってきたのは負の感情ばかりではなかった。
「マリーさん……」
また「ごめんなさい」と言いかけて、レンフィは口を噤む。謝罪の言葉はマリーの神経を逆撫でるだけだと直感した。
「なんですか、その顔。驚きました? 闇の精霊術ってすごく珍しいんですよ。闇って怖くて不快でしょ? 忌み嫌われる力ですから、寵愛や加護を授かってもみんな隠してしまうんです。問答無用で殺される、なんて時代もあったそうですよ」
闇の精霊術は光とは真逆の存在。人間に向かって使えば、体を蝕み、心にすら影を落とす。死を想起させるものだ。
吐き捨てるようにマリーは言った。
「使いどころが少ないし、役に立つこともほとんどない。しかもわたしが授かったのはただの加護……光の寵愛持ちの先輩に敵うはずがなかったですね。無駄な抵抗をしちゃいました……何も持っていないどころか、こんな役立たずな加護を背負わされて……わたしばっかり、どうしてこんな目に……先輩は本当にずるいですよね……最悪」
徐々にマリーの声から元気が消え、湿っていく。
「あの、私は確かに恵まれていると思います。でも、私よりもマリーさんの方がずっと――」




