88 煩悶の夜
観劇の際はぴったりとくっついていた二人だが、今は微妙な距離を開けて立ち尽くしていた。
案内されたのは町でも上等な部類の宿だった。それでいて経営者の両親の人柄も良く、治安の良い大通りに面していて防犯上の心配もなさそうである。
「確かに、良い部屋だな……」
「う、うん」
調度品は上品で統一感があり、掃除も十分に行き届いている。仄かな花の香が焚かれており、間接照明には薄布がかけられている。部屋全体が赤紫色に染まっていて、とてもエキゾチックな雰囲気であった。
中でも一際目を惹くのは、中央に鎮座する天蓋付きの大きなベッド。
そして奥の扉の先は、天然温泉かけ流しの浴室である。
『若い恋人たちに一番人気のお部屋です! ごゆっくり!』
この宿の娘の声が頭にこだまし、レンフィは気が遠くなる思いがした。
「あー……俺さ、宿の主人にこの辺りの情勢とか聞いてくるから、レンフィは先に風呂に入って寝てろ」
「え」
「風呂の入り方は分かるか?」
「それは大丈夫……」
「そっか。鍵は持っていくから、中からちゃんと施錠しろよ。誰かが来ても絶対に入れるな。じゃあ」
リオルは荷物を下ろすと、少し不自然な態度で部屋から出て行った。
鍵をかけて一人になった部屋で、レンフィは身悶えした。なるべく考えないようにしてきたが、もはや意識しないのは不可能である。
「うぅ、お風呂……」
レンフィは既にのぼせたような状態で、ふらふらと浴室に向かった。初めての温泉をゆっくり堪能する余裕はなく、本当にのぼせる前に上がった。
プルメリスとアンズに用意してもらった寝間着は布地に光沢があり、とても肌触りが良い。おそらくかなり値の張るものだろう。いつかお返しがしたい、とレンフィは去ったリッシュアに思いを馳せた。
そのままベッドの縁に腰掛けて、物思いに耽る。
他にも空き部屋はあったのに、わざわざ二人で同じ部屋に泊るということは、リオルはそのつもりなのだろうか。いや、だったら部屋を出て行ったりしないはずだ。単純に離れた部屋に泊るのを心配したか、旅費を節約するために違いない。
恋人同士なのに手を出されないのも不安になるよね、とプルメリスがぼやいていたことを思い出す。
きっとリオルは何もしない。自分はまだ子ども扱いされているし、女性的な魅力が足りない自覚はある。
だけど、それ以外の理由だったら。
例えば、昔の自分とシンジュラとの関係を気にしていたら。
悪い方向に想像が膨らみ、レンフィは首を横に振った。過去の自分のことは、もう変えられない。考えても解決しないことで落ち込むのは良くない。
「どうしよう……」
このまま何も知らない振りをして、先に眠っていた方が良いのかもしれない。しかし、リオルが情報収集に行ったのに自分だけ休むのは申し訳がなかった。というか、横になったところで眠れる気がしない。
リッシュアの塔では上半身裸のリオルにくっついて一晩を明かしたというのに、今では同じベッドで眠ると考えただけで呼吸もできなくなりそうだ。
「レンフィ?」
「きゃ! び、びっくりした」
いつの間にかリオルが帰ってきていた。随分長い間ぼうっとしていたようだ。
「悪い。起こさないように、と思って……まだ寝てなかったんだな」
リオルの視線が湯上りの肌をちらりと撫で、気まずそうに逸らされた。
「今日はたくさん空間転移して疲れてるんだから、早く寝ないと。湯冷めしちまうぞ。ほら、布団に入って寝ろ」
「は、はい」
レンフィがベッドに入るのを見届けると、リオルは浴室へ向かった。
やはり彼にその気はなさそうだ。
一人であたふたしていたのが恥ずかしく、頬が体温で溶けてしまいそうだった。目を閉じてみても、やはりなかなか眠気が訪れない。
やがて水音が止み、リオルが戻ってくる。
「レンフィ、まだ寝てないだろ?」
「……うん」
布団で顔の下半分を隠して目を開けると、湯上りのリオルが苦笑していた。髪が濡れていて、いつもと違う雰囲気に胸の高鳴りがさらに大きくなる。
そのままリオルはベッドの縁に腰掛けた。
「なんか最近のお前、俺のことめちゃくちゃ意識してないか?」
「わ、分かるの?」
「そりゃな。最初は嫌われたのかと思ったけど」
レンフィは慌てて起き上がった。
「違うの。ごめんなさい、変な態度を取っちゃって……き、緊張していただけ。その、男の人は密室で二人きりになると狼になるって、でも恋人同士なら、えっと、なんだっけ」
もじもじと縮こまっていると、リオルは意外そうに目を瞬かせた。
「レンフィ……お前、もしかして、そういうこと分かるようになったのか? いつの間に?」
「! 内緒っ」
両手で顔を覆っている間に、リオルはベッドに上がり、隣に身を寄せて座った。
「嫌な感じするか?」
「……ううん。ドキドキする」
「本当だ。すげー早鐘打ってるな。俺にも伝染しそうだ」
確かに肌から感じるリオルの脈もいつもよりも早かった。
「でも、良かった。そういう理由で避けられたのなら、まぁ、納得できる」
「え?」
「……黙っていようかと思ったけどこの際だから言う。俺はさ、この数日別の意味でドキドキしてたんだ。レンフィは、本当にムドーラに一緒に帰ってくれるのかなって」
リオルは軽い調子で言った。
「空の精霊術があれば、どこまでも逃げられるだろ? 今の俺じゃお前を止められないし、一人が嫌なら俺ごと攫うこともできる。リッシュアに来てたイベリスさんだっけ? あの人みたいに聖人の使命を放り出したいとか、俺と普通に暮らしたいって思わないのか? 本当にムドーラに帰りたい? また不自由な生活をすることになるし、戦場で怖い思いをするかもしれないのに」
レンフィは目から鱗が落ちる思いだった。戦うか城に残る、今ならばそれ以外の選択肢もある。このままムドーラの庇護下から離れることだってできるのだ。
「でも、リオルが――」
「俺のことはいい。お前の希望を教えてくれ。本気で世界のことを背負い込んで、俺と一緒に戦場に立つつもりか?」
改めて言葉にされると重い。
空の精霊にも、プルメリスにも、「頑張る」と約束した。嘘偽りなく「頑張りたい」と思った。できるだけ世界を良い方向に導きたい。自分のように、記憶を捧げる儀式の生贄になる者が出ないようになればいいと願っている。
これは傲慢な考えかもしれない。しかし、世界を変えられるほどの力を自分は持ってしまっている。無自覚では使えない。
「……イベリスさんは、苦しそうだった。隠れて暮らしていても、何もしない罪悪感があるんだと思う。逃げるのも勇気が必要なんだね」
隠れ住むことを選んだイベリスの選択を責められはしない。自分の力の影響で世界が悪い方向に傾くのではないか。その恐怖も理解できた。
「人が死ぬのを見るのは怖いし、逃げるのは苦しい。でも……怖いのはリオルがいれば我慢できるから」
リオルが戦場で力を発揮する人間だからこそ、この選択肢を選べた。
逃げる苦しみは二人でいれば倍増するが、戦場で誰かを傷つけるかもしれない恐怖はリオルを守るためならば克服できると思う。
「一緒に帰る。リオルについて行きたい」
レンフィは拙い言葉で意志を伝えた。
「……そっか。分かった」
リオルの指先がレンフィの頬に優しく触れた。
「もし辛くなったら言えよ」
「うん」
「絶対に無理はするな」
「分かった」
「じゃあ、このまま押し倒しちまいたいって言ったら、どうする?」
「……!」
不意打ちにレンフィの頭の中は真っ白になり、頷くことも首を横に振ることもできず、身動き一つとれなくなった。
長い沈黙の末、レンフィは涙声で呟いた。
「…………い、いいよ」
「それ、本気で言ってるのか?」
ぎゅっと目を瞑って頷くが、体が強張って震えた。
怖くないと言えば嘘になる。しかしレンフィはリオルともっと強い絆が欲しかった。誰よりも特別な存在になりたいと思う。
しばらくして、リオルは大きなため息を吐いた。
「ありがとな。でも……今夜は襲ったりしねぇよ」
「え」
今夜は、という言葉が引っかかったものの、レンフィはぎこちなく顔を上げた。リオルはどこか照れた様子で笑っていた。
「付き合いたてだし、まだ早すぎるだろ。俺はお前を大切にするって決めてるんだ。もっともっと仲良くなってからにしようぜ。正直しんどいけど、俺は我慢できる」
「リオル……」
「それにほら、明日にはムドーラに帰れそうだろ? 陛下は勘が鋭いからさ。バレたらさすがに恥ずかしい。俺だけレンフィといちゃついてたら、戦場にいる軍のみんなにも悪いしな!」
確かに、今夜一線を越えてしまったら、平然とした顔でムドーラに帰る自信はなかった。シダールやマグノリアたちに勘繰られるに違いない。リオルも軍で決まりの悪い思いをするだろう。
「そ、そうだね。うん、そうだった」
「今夜は何もしないし、今後も無理矢理どうこうしないから安心しろ。いや、ちょっとは男として意識してほしいんだけど、俺、お前にビクビクされる方が嫌だ。不安になる」
「ごめんなさい」
リオルはいつものように朗らかに笑った。
「謝らなくてもいいけどな。もういい加減寝るぞ」
レンフィは頷きを返し、すっぽりと頭まで布団を被った。
部屋の照明が消え、リオルが隣に横たわる。触れそうで触れられない、絶妙な距離だった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
刺激的な会話をしたことで、レンフィの心臓は相変わらずうるさく脈打っていた。室内にはどこか緊張感が漂い、もう迂闊なことは口にできない。
だからレンフィは心の中で何度も感謝と愛の言葉を告げた。
リオルは優しい。いつも思い遣ってくれる。もうこれ以上ないほど好きなのに、もっともっと愛しくなっていく。
大切にされていることを実感し、その幸せを噛みしめているうちに、レンフィは静かに眠りに落ちていった。
「…………」
隣から健やかな寝息が聞こえ出して、リオルは叫び出したくなった。
レンフィに知識が増え、意識されて嬉しくないわけではないが、その分理性との戦いは熾烈を極めた。
あの柔らかで滑らかな肌に思い切り触れられたら、どれだけ満たされるだろう。今夜のレンフィはかつてないほど可愛くて色っぽかった。
どうしてこんな素晴らしい機会をふいにしなければならないのか。恋人なのだからいいではないか。お互い合意の上なら、何も問題はない。
今のレンフィは本気で迫られたら断らないし、何をしても許してくれそうだ。それだけ愛されているという自惚れがリオルにはあった。少々心配なくらい精神的に依存されているが、それは嬉しいので指摘しなかったくらいだ。
リオルは伸ばしかけた手を引っ込めて、布団の端を握り締める。
もしもリッシュアでの一件がなければ、明日のことなど考えず、遠慮なく押し倒していたかもしれない。
リッシュアの戦場で、リオルはレンフィに命を救われた。
あれだけ「塔の外に出るな、俺に任せておけ」と言ったにもかかわらず、結局彼女に助けられてしまったのだ。思い返せば思い返すほど、情けなくなる。
今のこの時間は、不甲斐ない自分への罰だ。褒美を受け取るわけにはいかない。
シンジュラの存在もある。
今のレンフィには全く関係のないこととはいえ、もしも昔のレンフィがシンジュラに好き勝手触れられていたとしたら。
上書きしたいというのが正直な想いだが、シンジュラに対抗して事に及ぶのは間違っている。
今理性を手放したら、心の中の黒い感情をレンフィにぶつけてしまうかもしれない。それは絶対にダメだ。
レンフィを大切にする。その言葉に嘘はない。
怯えられたくないし、泣かせたくない。寄る辺のないレンフィが安心して甘えられる唯一の男でいたい。幸せな記憶をたくさん作ってやりたい。
だから己の欲望を満たすことよりも、レンフィの安息を選ぶ。
「……くそ」
しばらく悶えていたものの、程よく疲れた体がリオルを眠りに誘ってくれた。昼間のうちにしっかり鍛錬をしておいて良かったと心の底から思った。
夢の中でリオルは誓った。
いつの日か必ず今夜の自分の無念を晴らす、と。




