86 聖人たちの愚痴
まだ雪が残る街道を、豪華な馬車がゆっくりと進んでいた。車内には、教国の祭服を身に纏った二人の男。
一人は四十代半ばの険しい表情の男である。胸の前で腕をがっしりと組み、馬車の振動よりも激しく貧乏ゆすりをしていた。
もう一人は前髪を長く伸ばした瘦身の青年。だらりと腰掛け、定期的にため息で窓ガラスを曇らせていた。
「はぁ……」
「フリージャ。いい加減、鬱陶しいぞ」
「すみません。でも、鬱々しちゃって当然だと思いません? だって僕たち、今から死地に行くようなもんですよね?」
フリージャと呼ばれた若者は、覇気のない早口で述べた。
「嫌だな、嫌だなー……よりにもよってムドーラ戦線ってあり得ないですよ。あのレンフィ様ですら殺せなかった男がいるんでしょう? そんなの僕なんかにどう押さえ込めっていうんです? しかもやたらと策に強い将軍もいるって話ですよね。少しも気が抜けないじゃないですか。配置を変えるなら、せめて半年前に言ってくれないと作戦の練りようがないですよ。地形を覚えるだけで精一杯の状態で、どうやって砦を守れと? レンフィ様に頼りきりだった現地の兵たちは使いものにならないでしょうし、きっと士気も低いですよ。普通だったら、気を利かせて演習する時間くらい作ってくれてもいいですよね? なのにリッシュア戦線の引継ぎ優先っておかしくないですか? 僕らの命は安く見積もられたって判断していいですよね。今までどれだけ教国のために働いてきたか知らないんですかね? もう本当に無能。上層部のジジイども、全員寿命で今日中に逝ってくれないかな……ねぇ、グラジスさんもそう思いません?」
同意を求められたグラジスは、肺一杯に空気を吸い込み、苛立ちとともに吐き出した。
「うるさい! 私まで気が滅入るだろうがっ!」
怒号に馬たちが驚いて足並みを乱したが、フリージャは顔色一つ変えなかった。
「はい、すみません、すみません。じゃあ戦いも指揮も全部グラジスさんに任せちゃっていいですか? 僕は後方支援に徹するので」
グラジスは間髪入れず、フリージャの頭を叩いた。
「良いわけないだろうが! 聖人が逃げ腰になるな! 白亜教の威信が傾く!」
「痛っ、割とどうでもいいですね、威信なんて。命の方が大切です」
二人は昨年までリッシュア戦線で活躍していた聖人である。
烈風の聖人グラジスと星砂の聖人フリージャ。
グラジスは長年様々な戦場で功績を挙げてきた歴戦の将であり、フリージャは聖人になってから短期間で名を知らしめた天才肌の将である。
二人とも、聖女レンフィの死亡を受けて、急遽ムドーラ戦線への参戦が決まった。今は移動の最中である。
「特に僕の命は、レンフィ様に救っていただいたものですから。大切にしなければ罰が当たります」
フリージャは聖人になる前、一般兵として白虹の聖女レンフィの指揮下にいたことがあった。
早くに両親を亡くして貧しさに喘ぎ、泥水をすすって生きてきたフリージャは、白亜教の教義など欠片も信じてはいなかったが、食い扶持を稼ぐために仕方なく戦争に参加した。
もちろん命懸けで戦う気なんてなかった。
しかし、戦場を離れてサボっていたところを運悪く敵の伏兵に見つかり、瀕死の重傷を負った。
それをレンフィの治癒術で奇跡的に生還したのだ。
以来、心を入れ替えて修行を積み、土の精霊の寵愛を得たことで、食うに困ることもなくなった。レンフィに出会ってから、フリージャの人生は劇的に好転したのだ。ゆえに彼女に対して崇拝に近い念を抱くようになっていた。
「ならば、なおさら真面目に戦え。今のお前を見て、神々の御許に召されたレンフィが呆れているかもしれんぞ」
「……それを今言っちゃいますか」
フリージャはがっくりと肩を落とした。哀しみがぶり返してくる。
「レンフィ様の敵討ちというのなら、ムドーラが相手でもやる気になったんですけどね。戦争に関係のないところ、オークィとかいうクズ聖人のせいでもう彼女に会えないなんて……信じられません。この世界は終わった……」
「会ったところで、挨拶一つできなかったではないか。年下の小娘相手に情けない」
「は、僕なんかがレンフィ様に話しかけられるはずないです。万が一無視されたら、死ぬしかないですし」
そもそもレンフィは同僚と交流することを好まず、露骨に避けていた。一部の聖人からは「お高く留まっている」「生意気だ」と非難されていたが、フリージャは「孤高の聖女、かっこいい」と思っていた。
たまにレンフィと大聖堂ですれ違うだけで、フリージャは十分幸せを感じられていたのだった。同じ聖人になった自分を全力で褒め称えたいくらいであった。
もちろん親しくなりたいという下心はあったが、声をかけるなど以ての外。手の届かない存在であったし、そう在り続けてほしかった。
しかし今、フリージャは玉砕覚悟で声をかけなかったことを、猛烈に後悔していた。冷たい一瞥でも良いので、自分の存在を認識してもらいたかった。レンフィが自分より先に死ぬなど思いもしなかったのだ。
「戦いで僕が死んだら、火葬して遺灰を風で流してください。レンフィ様と同じ弔い方法でお願いしますね……」
「ああ、辛気臭い! レンフィのことはもう忘れろ! 大体、死ぬと決めつけるな! 戦ってみなければ分からないだろうが!」
「……でも、かなり不利なことは確かですよ。グラジスさんには申し訳ないですが、僕ら二人ではレンフィ様の抜けた穴を埋められません」
フリージャは冷静に述べた。
霊力の多寡も、精霊術の技量も、兵からの人望も、何もかもレンフィには敵わない。何よりあの治癒術の恩恵が失われたことが大きい。
ムドーラ戦線の兵たちは重傷を負ってもレンフィに治してもらえるから、勢いよく敵陣に飛び込んで行けたのだ。
代わりの聖人二人が治癒術を使えないとなれば、途端に士気が下がるだろう。
「分かっている。私とて、戦況の見極めくらいできるぞ。しかし、向こうにも不測の事態が起こっているかもしれない。我々の力を警戒して動かない可能性もある」
「相手頼りじゃダメじゃないですか」
グラジスが普段ならばここまで苛立ったりしないことを、フリージャは長年の付き合いで把握していた。
「実は、グラジスさんも焦ってますよね? このままじゃまずいって。というか、ムドーラのことよりも気になることがあるご様子」
最近のグラジスは考え込むことが増えている。その原因をフリージャは察していた。
「焦ってなどいない。ただ、腹は立っている。できればあのままリッシュアと戦いたかったし、あの者たちの動向が気になって仕方がない。なんなんだ、あのシンジュラという小僧は……」
「どう見ても黒脈でしたよね。そこはかとなく教主猊下に似ていましたし、そういうことなんでしょうね」
想像は容易い。
教主リンデンが黒脈の女を囲い、密かに子どもを産ませていた。おそらくは最後の黒脈として生き残らせ、至高の王にするために。
これまでもマイス白亜教国は黒脈の王の選別に干渉してきたが、リンデンと教国上層部が独断で黒脈の王を擁立したというのは看過できない。白の範疇を越える欲深い行為だ。
シンジュラのことを隠されていた聖人たちは当然面白くないし、一般教徒に広まれば、反発する者が多く出てくるだろう。
シンジュラの初陣を飾るためリッシュア戦線を譲り渡すことになったのだと分かり、グラジスもフリージャも教国上層部への不信感を募らせていた。
「あのガキ、絶対に良からぬことを企んでいる。そういう目をしていた」
「同感です。大量の魔石を用意していましたよね。嫌な予感しかしません」
「部下の中にオトギリもいただろう。あの風の聖人の恥晒しが!」
「ああ、端的に言ってクズですよね、あいつ。僕も大嫌いです。いっそリッシュアの王子たちに殺されればいいのに……」
「そうだな! あのガキに比べたら、リッシュアの王太子の方がよほどまともだと思うぞ!」
高貴な聖人にふさわしくない罵詈雑言を吐く二人。
馬車はムドーラ王国との国境を目指し、ゆっくりと北上を続けていた。
それは、リッシュア戦線で巨人が暴れる数日前のことであった。




