82 幕間 悪の王国への潜入
春が近づいたとはいえ、ムドーラ王国は寒い。
マリーは服の隙間に入り込む冷気に辟易とし、怒りすら覚えていた。どうして自分がこのような思いをしなければならないのか。
「はぁ、高級毛皮のコートが欲しい……」
その声は虚しく響いた。
野暮ったいコートにゴワゴワの襟巻。この国では標準の品質でも、マリーから見たら地味でダサくて貧乏くさい。温かく豊かな教国に生まれ、散々高級品を貢がせてきたマリーには色々な意味で耐えがたい服装だった。
おまけに、あかぎれ一つなかった綺麗な手がかじかんで荒れている。一刻も早く帰ってケアをしたい。
「うん? マリーさん。どうしたんだい?」
「何でもないですぅ。それより早く向かいましょ! お城へ!」
明るく可憐な笑顔で答えると、同行者の男は頬をだらしなく緩めた。
マリーは今、とある商人の手伝いをしていた。
全てはムドーラ王国に潜入し、聖女レンフィの生死を確認するための偽装工作だ。
教国と繋がりのある大商人に金を積んで便宜を図らせ、なんとかムドーラの王城に出入りしている地元商人の懐に潜り込めた。この商人はマリーの正体と目的も知らない。ただ利用されているだけである。
「はは、そんなに慌てなくても、お城は逃げないよ。何度だって連れてきてあげるから。マリーさんは可愛らしいし、気も利くから、きっとお城の皆さんの覚えもいいだろうね」
「きゃあ、嬉しい! わたし頑張りますぅ!」
ここ数週間は真面目に働いただけあって、商人の信頼は厚い。働き始めて間もないにもかかわらず、愛想が良くやる気のあるマリーを気に入り、「お城への憧れ」をさりげなく口にしただけでこうして同伴を許してくれた。
多少の色目は使ったが、いとも容易く篭絡できたため、マリーは商人を侮り、内心ほくそ笑んでいた。
商店で働きながら「城に聖女がいる」という噂がないかも調べた。
これは全くの空振りに終わった。城下町で暮らす民は教国が発表したレンフィの死を鵜呑みにし、今年の戦争は有利だと喜んでいた。
それどころか、長く病に伏せていた王妃が快復し、公務に戻ったというめでたい話題ばかりで、「聖女レンフィが国王の妃になる」などという話はホラ話としても成立しない有様である。
ストロベリーブロンドの新入り侍女がめちゃくちゃ可愛いらしい、とか、今年の巡回は将軍たちが自ら寒村に足を運んだ、とか、国王のペットの猫が元気な子猫をたくさん産んだ、とかどうでもいい情報ばかり手に入れてしまった。
やはり、オトギリが入手してきた「聖女レンフィがムドーラの城にいて、シダール王の妃になるかもしれない」という情報には無理がある。
レンフィが最も恨まれているムドーラ王国に逃げ込むはずがないし、王妃が城に帰還したタイミングで新しい妃を迎えるとは思えない。
それでも、城の内部に潜り込んで真相を確かめなければ、任務完了とは言えない。
マリーは己の主人の美しい顔を思い浮かべる。
今までシンジュラがマリーに命じてきたのは、簡単なお使いや国内での情報収集くらいだった。信用されていないどころか、煙たがれているのはさすがに気づいている。
シンジュラの美貌に目が眩み、積極的に誘惑しすぎた自覚はあった。
そんな中、シンジュラから初めて国外での重要任務を一任されたのだ。張り切らずにはいられない。完璧な報告をして、評価を改めてもらい、労いの言葉をもらわなければ。
シンジュラの気を惹くためだと思えば、多少の苦労は我慢できる。
あのシンジュラという少年は、間違いなくマリーの人生で出会える最上級の男である。
美しく聡明で強い。その上まだまだ若いのだ。教主の息子という立場も魅力的だった。
振り向かせてモノにしたい。自分を見下ろすシンジュラの冷たい瞳が、情愛の色に染まったら、さぞ気分が良いだろう。考えただけで体が熱くなる。
一方で、レンフィの生死について、マリーはほとんど興味がなかった。
彼女は同じ教会で育った姉であり、可愛がってもらった恩もある。
しかし、彼女のせいで命の危機に晒されたのも事実。あのまま姉のように慕っていたら、間違いなく儀式のために殺されていた。
黒の神を弱らせるための生贄に選ばれたレンフィのことは、可哀想だとは思う。しかし、彼女に絶望の記憶を刻むために殺された妹たちは、もっと可哀想で惨めだろう。
マリーはレンフィを裏切って加害者に回ることで、残酷な死を免れた。もちろん、無傷ではいられなかったけれど。
『マリー……お願い。このままじゃ、みんな殺されて――』
妹たちが殺されると聞いて、レンフィが縋るような目で手を伸ばしてきた。妹たちを連れて逃げて欲しい、と懇願されたのだ。
『えぇ? 何言ってるんですか。わたしは殺されませんよ。すっごく頑張って命を買ったんです。たくさんたくさん体を売って』
『マリー……そんな……』
『全部ぜーんぶ、レンフィ先輩のせいです。あんたさえいなければ、わたし、綺麗な体のままでいられたのに。大嫌い。さっさと壊れちゃえ!』
そう言ってマリーがその手を振り払った時、レンフィの人形のような無表情が崩れた。しかし、泣き顔さえも絵になるほど美しいのが癪に障った。
全て、リンデンに命じられて言ったセリフだ。そこまで強い憎悪をレンフィに抱いていたわけではない。彼女だって被害者であることは重々承知している。
しかしあの時、マリーの心はさほど痛まなかった。オトギリのように愉悦を覚えるほど性格は悪くはないが、マリーにとってレンフィは目障りな存在だったのだ。
近くにいれば、嫌でも比べられた。
レンフィは何もかもを持っている。美しい容姿、あり余るほどの霊力、精霊の寵愛、国内での名声。
民草に愛される選ばれし存在。たくさんの人間が彼女のことを記憶に残し、これから先もその名を口にするだろう。
その上、儀式で記憶を失った後、レンフィはシンジュラの妻になる予定だった。それも気に食わない。
不公平だと、マリーは常々思っていた。
人より恵まれて生まれてきた者は、過酷な人生を歩むか、壮絶に死んでもらわないと釣り合いが取れない。だからレンフィの境遇に同情などしない。
オークィに逃がされた先でレンフィが死んだと聞いて、ようやくすっきりした。彼女のせいで体を売る羽目になったことも許せそうだし、彼女に対する劣等感も消えた。もう自分より優れた女がいたことなど忘れ、人生を謳歌するつもりだった。
何より、シンジュラが別の女を妻として必要とする。自分の付け入る隙ができたことを素直に喜んでいたのに……。
万が一レンフィが生きていたら、非常に面倒だ。
シンジュラは「生死を確認し、生きていたら連れ戻せ」と命じたが、敵国の城から人間を攫うのがどれだけ大変か。不可能に近い。
改めて、レンフィが死んでいることを強く祈る。
そもそもシンジュラの魔法でレンフィの死が示されたのだから、生きている可能性は限りなく低い。
しかし、死んでいると証明するのも難儀である。遺体など残っていないだろう。
マリーは馬車の荷台に腰掛け、憂鬱な気分でムドーラ城の門をくぐった。
これから商人とともに厨房に向かい、食材を届けに行く。口の軽そうな者がいるといい。若くて顔の整った男ならなお良い。篭絡して情報収集をするのだ。
「はぁ……」
ムドーラ王国は“残酷な魔王”が治める“悪の王国”だ。
教国の使者を真っ二つにしたり、監獄を襲撃して犯罪者を自国の兵にしたり、やることが過激で容赦がないのだ。
教国の密偵だとバレたら命はないだろう。慎重に行動しなければならないが、その分教国に帰る日は遅くなる。
本当に、レンフィには人生をかき乱されっぱなしだ。
アザミはとても疲れていた。
リオルとレンフィが出かけたまま行方不明になった。
アザミはあらゆる可能性を考えて夜通し寝ずに二人を案じていたし、戦争への影響を考えると頭が痛くて仕方がなかった。
しかし、一昨日になってあっさりと行方が判明した。空の精霊によってリッシュア王国に空間転移し、向こうの戦争に巻き込まれそうになっているらしい。
とても信じられない話だが、空間転移で手紙が届いたことが何よりの証拠だった。
教国に攫われるよりはマシだが、厄介な事態には違いない。よりにもよって、三国同盟を持ち掛ける前というのが悩ましかった。下手に動けない。
もちろん最も優先すべきは二人が生きてムドーラに帰ることだが、二国の関係が悪くならないことも切に祈る。
リオルは決して愚鈍ではないが、交渉事に強いとは言えない。リッシュアゼルの王族の機嫌を損ねていなければ良いが。
レンフィに至っては囲われてしまいそうで心配だった。
リッシュア王国は水源が乏しい国だ。水の聖人の弱みを握ったなら、その能力を手に入れたくなるだろう。リオルと引き離されて心細い思いをしていたら……。
そこまで考えて、アザミは自嘲する。
自分がレンフィの心配をするなど、少し前まで考えられなかった。
大体、精霊が絡んでいる以上、二人の失踪の大本の原因はレンフィだろう。リオルを連れて行かれたせいで、仕事の負担が数倍に膨れ上がったのだから、本来レンフィに対して怒るべきなのだが、全くその気が起きなかった。
あの娘は、あるいはリオルもだが、運命に翻弄される気質らしい。いっそ気の毒だ。
一緒に遭難し、オンガ村の記憶を視てから、すっかり絆されてしまったようだ。アザミの心の平穏のためにも、レンフィには無事でいてもらいたい。
アザミは息を吐き、思考を切り替えた。
今後の外交に関しては、シダールや宰相に任せるしかない。
アザミにできることは、リオルが不在の間、第三軍を適切に運用することだ。既に元帥ガルガドには、第三軍の指揮に干渉する権限を与えられている。
リオルの所在について詳しく明かしていないが、無事が確認されたことは兵たちに伝えた。副官のブライダはアザミに負けず劣らず疲れ切った顔をしていたが、新兵たちはなんだか盛り上がっていた。
『さすがリオルさん! 巻き込まれるトラブルのスケールがでかい!』
『うん。レンフィちゃんと一緒なら大丈夫だよね。あの二人って最強だもん』
暢気なものだが、士気が下がっていないようで何よりだ。
もちろんリオルの不在を不安がっている者も多くいた。その辺りのフォローをしなければ、とアザミは第二軍と第三軍の配置と戦略の見直しをしていた。
出陣までもう幾ばくも無い。
「アザミ様、実は――」
そんな中、部下からもたらされた情報に、アザミは目の色を変えた。
マリーは立派な鉄格子で守られた、窓一つない石造りの部屋で目を覚ました。ようするに地下牢である。
「な……!?」
慌てて記憶を遡る。
厨房に納品に行き、商人が料理人たちと世間話をしている時に、犬の散歩をしていた若い男に声をかけられた。
ふんわりした雰囲気の美男子だったので、マリーは犬の可愛さに釣られた振りをしてついて行った。もちろん男の身なりが良く、この城でそれなりの地位にいるのを感じ取ったというのもある。
それから、温室でお茶を振る舞われた。最初は警戒して口をつけなかったが、あまりにも男が緩い言動を繰り返していたので、マリーの気まで緩んでしまった。
楽しくお喋りしながらティーカップに口をつけたところで、意識が途切れている。薬を盛られたに違いない。
「あいつ……!」
あんな頭の悪そうな男に騙されるとは、不覚である。
「目が覚めたか。ちょうどいい」
「ふふふ……」
鉄格子の向こう側に、二人の男が現れた。
一人は軍服を纏った冷たい目の男。まだ若く軍人にしては細身だが、随分と貫禄があった。
もう一人は長いローブを羽織った顔色の悪い男。おそらくは魔法士だろう。不気味な笑みを浮かべている。
二人とも顔は悪くないな、と頭の隅で考えながら、マリーは牢の隅に身を寄せる。手には鈍色の枷がつけられていて、重くて動きづらかった。
「あ、あの……ここはどこですかぁ? あなたたちは一体」
「お前に質問する権利はない。こちらの問いに簡潔に答えろ。お前は教国の手先だな?」
軍服の男がぴしゃりと告げる。
イラっとしたが、顔には出さない。マリーは怯えた少女を演じる。
「ち、違います」
「違いません……霊力の有無を調べることくらい造作のないこと。あなたはなかなかの霊力をお持ちです。白亜教国の精霊術士なのは確実……」
魔法士の男が滔々と述べた。
「あなたのことは城下町に来た辺りから気づいていましたよ。町の要所に“目”や“耳”を仕掛けてあるんです。霊力を持つ人間がこの地を訪れれば、すぐに分かります……おまけに、いろいろと城の噂を求めて嗅ぎまわっていましたよね……そんなに気になるなら、と商人に命じてご招待した次第です」
ぞっとした。
どこまで本当のことを言っているのかは分からないが、おびき出されたのは間違いない。どうりであの商人があっさりと城での仕事に同伴させてくれたはずだ。またも男に騙されたと知り、マリーは奥歯を噛みしめた。
「今は霊力を封じさせてもらっていますが……ご気分はいかがです?」
全身が怠くて仕方がなかった。気分は最悪だ。
魔法士が牢の鍵を開けると、軍人が中に入ってきた。その手は剣の柄に添えられている。
隙がない。かなりの手練れと見て、マリーは身震いした。
「開戦間近に時間を浪費したくない。さっさと教国での所属と、我が王国に潜入した目的を言え。さもなくば……」
男の目には冷たい憎悪の光が宿っていた。たとえ女子どもでも白亜教徒に容赦はしない、と言わんばかりの迫力にマリーは竦み上がる。
この手の男に色仕掛けは通じない。このままでは拷問される。
折檻されるレンフィの様子を思い出し、首を横に振る。痛い目に遭うのは嫌だ。ならば情報を吐けばいいのだろうが、全て喋っても生かしてもらえる保証はない。
マリーは必死に思考を巡らせる。密偵だと認めたら、おそらく死は避けられない。しかし城の内部やレンフィについて調べていたことはバレているらしい。下手に誤魔化すのは危険だ。
ならば、と目頭に力を込め、瞳に涙を溜めた。
「っごめんなさい……わたしは、マリーって言います。白亜教国の人間というのは確かです。猊下たちのお世話係をしていたこともあります。でも、あなたたちが考えているようなものではなくて……個人的に、姉を捜しているんです」
「姉?」
「はい。ご存知でしょう? この城にいると噂を聞いて……」
ぽろぽろと涙の粒を落としながら、ちらりと軍人を見上げる。何かを思案するような顔つきに、マリーは手応えを感じて畳みかける。
「約三か月前に、突然行方不明になって……死亡が発表されても信じられなくて……だって、姉様は誰よりも強いから……っ」
「勿体つけるな。その姉の名は?」
これは、マリーにとって賭けだった。しかし他に拷問を免れる方法を思い浮かばない。
「レンフィ・スイ……白虹の聖女です。血の繋がりはありませんが、同じ教会で育った姉妹なんですぅ……」
軍人がすぅっと目を細めた。
次の瞬間、マリーの頬に鋭い痛みが走った。髪が一束ばさりと落ちる。
「痛……いやっ、血が……!」
「聖女レンフィの妹ならば、何をされても文句は言えないだろう。あの女がどれだけムドーラの人間を殺したか」
いつの間にか鞘から抜かれた剣が、マリーの首筋に突きつけられる。
レンフィがムドーラに恨みを買っているのは重々承知だ。しかし、だからこそ妹の存在に価値が生まれる。全く興味を惹かれないということはあるまい。
マリーは顔を傷つけられたことへの怒りを必死で抑える。
大丈夫。薄皮を斬られただけだ。傷は残らない。それより今は命を守ることが大切だ。マリーはか弱い少女を演じ、軍人の足に縋った。
「姉様は、可哀想な人なんですぅ。わたしたちを守るために、仕方がなく戦争に参加させられていただけで……」
「だからなんだ」
「わたし、教国上層部が憎いんです。わたしやレンフィ姉様に酷いことをして……大嫌い」
共通の敵を持つことをアピールし、仲間意識を持ってもらおう、という作戦である。
「もしこのお城に姉様が囚われているのなら、一目で良いので会わせてください。そうしたら、わたしの知っている教国のことを全てお話ししますから! ものすごい陰謀があるんです!」
どさくさに紛れて、レンフィの安否を確認する。
レンフィが生きている可能性は低く、もし生きてこの城に囚われているとしても、記憶喪失の状態だ。彼女から教国の情報は得られていないだろう。マリーの言葉は魅力的に思えるはず。
レンフィがそもそもムドーラの城にいないのなら、少々まずいことになるが、すぐ殺すには惜しいと思わせるくらいの情報ならば吐いてもいい。
軍人の男は静かにマリーを見下ろした。この反応、交渉の余地はありそうだ。
「先に一つ確認したい。お前はオトギリという男を知っているか?」
マリーは息を呑んだ。
オトギリは白亜教徒にあるまじき残虐な人間性を問題視され、最近の戦場にはほとんど出ていないと聞いている。専ら暗殺や襲撃などの特殊任務をこなしている。敵国に彼の名前が知られているとは思わなかった。
迷った末に、マリーは何度も頷く。
「知ってますぅ。よくレンフィ姉様を虐めていた男です」
「どんな男だ?」
「え? えっと……背が高くていつもニヤニヤしていて、風の精霊術が得意。人殺しが趣味の二十代後半の男です!」
「……そうか。なるほど、確かにお前は教国の中枢について詳しいらしい」
軍人が魔法士の男を振り返り、視線で相談した。
「そうですね。陛下に採決を委ねましょう。面白いものが見られるかもしれない……」
数時間後、マリーは謁見の間に引き立てられた。
霊力を封じる枷をされた上、目隠しをされた状態だ。先ほどの軍人――アザミと名乗った男に引っ張られ、絨毯の上に放り出された。雑な扱いに殺意が湧くが、今は怯える演技に集中した。
「きゃっ……ぐす、痛いですぅ……」
「うるさい。陛下の御前だ」
アザミが手荒に目隠しを取る。
玉座に腰掛ける男を、マリーは呼吸も忘れて見入った。
シンジュラと同じ赤い艶を持つ黒髪と、魔性の赤を帯びた黒い瞳。それでいて彼にはまだない大人の魅力があった。この世の者とは思えない絶美である。
眼福。抱かれてみたい。思わず頬が緩みかけた。
「この忙しい時に、わざわざ我が時間を割くのだ。少しは楽しめると良いが」
シダール・ブラッド・ムドラグナ。
王の冷淡な声に我に返り、マリーは気を引き締めた。
体を縮こまらせて、ぶるぶると震えて見せても、この場にいる誰一人として眉一つ動かさなかった。
マリーを除けば、王と軍人と魔法士、それと宰相を名乗る男しかいない。広い謁見の間には寒々しい空気が漂っていた。
「教国の手先にしては随分とお粗末なようですねぇ。前に来た方々は、もう少し骨がありましたよ」
王の傍らに立つ宰相が肩をすくめた。
「さて、本当に時間がないので、さっさと本題に入ります。あなたが白虹の聖女の妹というのは本当ですか?」
「は、はい……血の繋がりはありませんけれど」
「それで、この城に聖女がいるという噂を聞いて、個人的に捜しに来たと。その噂はどこから?」
マリーはオトギリから教わった情報源をそのまま伝える。
城の侍女が恋人に「聖女が国王の妃になるかもしれない」と愚痴を漏らしているところを見た商人がおり、たまたま教国までその話が届いたのだ。
「迂闊ですねぇ。その侍女を探しますか?」
「ああ。ちょうど我が妃を蔑ろにする者を処分しようと思っていたところだ。せっかくだ。この件はマグノリアに一任してみるか」
「かしこまりました」
彼らのやり取りを聞いて、マリーは確信した。
「やっぱり姉様のことを知っているんですね! お願いします! どうか姉様に会わせてください!」
シダールは、マリーがうっとりするほど邪悪な笑みを浮かべた。
「ああ。その通り。確かに聖女レンフィはこの城にいた。しかし、今はもういない」
「え」
「空に召された。……仕方がなかろう。あの娘は我が妃にふさわしくなかった」
その言葉に全てを悟ったフリをして、マリーは俯いた。
やはりレンフィは殺されていたらしい。シンジュラの魔法は正しかった。しかし、証拠は必要だ。
「そんな……姉様が……信じられません。何か遺品は? 遺体は残っていないんですか?」
宰相が呆れたように言った。
「なるほど、あなたは聖女の生死を確認しにきたのですねぇ。ご愁傷様でした」
「あの魔法だけでは、確信できなかったのですね……まぁ、目で確認することは大切だと思いますよ」
魔法士の男も苦笑を浮かべる。
「え? そんな、なんのことですか。わたしはただ――」
アザミもため息を吐いた。
「姉が死んだと聞かされて、死因を確認しない。殺したのかと怒りもしない。随分と薄情な妹だ。お前は一度も姉を案ずる言葉を口にしなかった。聖女の死を半ば確信していたようだな?」
「え……違いますぅ、わたし……」
マリーはしどろもどろになりながらも、ぽろぽろと涙をこぼす。
「ね、姉様が、この国の方々に恨まれているのは知っています。実際、姉様は憎まれて殺されてもおかしくないことをしていました……だから」
「もう良い。中身はあの娘より面白味がありそうだが、その下手な演技は見ていられぬ」
シダールが視線で指示を出すと、魔法士の男がマリーの目の前に小瓶を置いた。中には透明な液体が満ちている。
「こちら、致死毒です……かの聖女が飲み干したのと同じものです」
「な!?」
毒薬を差し出され、マリーは血の気の引く思いがした。
「と言っても、仮死状態になる特別製です。聖女は、レンフィ様は、まだ生きていますよ……今は少々外出しているだけです」
魔法士の言葉にマリーは混乱した。
しかし思い返してみれば、誰もレンフィが死んだとははっきり口にしていない。
「お前もそれを飲んで、証明して見せよ」
王の言葉に耳を疑う。
「我らの言葉を信じてその毒を飲み干すというのなら、我らもお前の言い分を信じてやる。手っ取り早くて良かろう?」
マリーは慄いた。こんな不自由な二択はない。
毒と言われて口にする勇気はない。仮死状態になると言われても信じられない。仮死状態になったとしても、蘇生処置を施してもらえなければどうなるのか。
しかし、飲まなければ信じてもらえない。密偵だと断定されて、拷問され、どっちみち死ぬ。
震える手で瓶を手に取り、マリーは荒い呼吸を整えようと意識する。
「陛下、いつの間に聖女殿に毒を飲ませたのです。聞いていませんよ」
「あっさりとレンフィの生存をお許しになったのは、それが理由ですか?」
人が一世一代の覚悟を決めようという時に、臣下が王を問い詰め出した。
「ああ。あの娘にも死の苦痛を味わわせてやらねば、戦死した者たちに顔向けできぬだろう。レンフィは全く好みの女ではないが、あの時ばかりは愛しさを覚えた。ほとんど躊躇いもなく一気に飲み干し、血を吐いてもがき苦しみながらも、治癒術を使わずに死んでいったのだ。実に見事だった」
「…………」
宰相とアザミは苦々しい表情をしつつ、もう何も言わなかった。魔法士だけが「私も見たかった……」と羨望の眼差しをシダールに向けている。
「リオルには言うなよ」
「言えません、とても」
マリーは毒薬から目が離せなかった。
本当に飲んでも死なないのだろうか。やはり信じられない。レンフィはあっさりとやってのけたというが……やはり苦しみはしたようだ。
記憶喪失がどのような状態か、マリーには想像もできない。しかし以前のレンフィならば躊躇いなく毒を飲んだだろうと思う。
レンフィは自分の命に価値を見出していなかった。いつでも捨てられると言わんばかりの態度が、殊更マリーの癪に障った。
自分の身可愛さに体を売っていることを、馬鹿にされているような気がしたのだ。
ふつふつと怒りが込み上げてくる。なぜ自分がここまでしなければならないのか。
「まだ飲んでいなかったのか。早くしろ」
その物言いに、マリーはカッとなって小瓶を投げ捨てた。ガラスが割れる音とともに、マリーの取り繕っていた仮面も木っ端微塵に砕けた。
「できるわけないでしょ! こんなこと!」
マリーは感情のままに叫んだ。
「わたしをあの女と一緒にしないで! わたしは違う! 言いなりの人形なんかじゃない! あんなの、気高さなんかじゃない!」
数秒の沈黙の後、シダールは酷薄な笑みを浮かべた。
「そうか。やはり中身はお前の方が数段面白いな。人間らしくて良い」
玉座の背もたれに体を預け、ゆったりと宣言する。
「ヘイズ。この娘を牢に戻し、情報を搾り取れ。どのような手を使っても構わぬ。ああ、実験台にしてもよいぞ。役に立たないのなら殺してもいい」
「は、仰せのままに……」
「離して! 変なところ触らないでよ!」
アザミに強引に腕を引かれ、マリーは強く抵抗した。すると容赦なく首を圧迫され、意識がかすんでいく。
「もしレンフィが戻るまで生きていたら――」
王の言葉は、最後まで聞き取れなかった。
すみません、
第六章開始までもう少し時間がかかりそうです。




