81 灰色の世界
レンフィは灰色の世界に立ち尽くしていた。
空は分厚い雲と煙に覆われ、昼か夜かも分からない。仄かに周囲を照らす光は行き場を失くした魂の残り火だ。この世界にはもう誰も生きていない。
巨大な建造物が倒れ、原型を留めているものは一つもなかった。全てが灰かぶりになっており、昔の名残が感じられない。しかし朽ちて消えることなく静止している。ここは時間の流れすら失ってしまっていた。
寂しくて悲しい世界だった。
たった一人、泣きそうな気持ちを抱え、レンフィは崩壊した世界を眺める。
『ここは、世界の外側。忘れられた時空。一度目の世界の成れの果て』
空の精霊の声が聞こえた。
神は人間を慈しみ、世界を深く愛した。
人間も神を敬愛し、世界を大切にした。し続けるはずだった。
それが世界を守る約束だったから。
しかし愚かな人間は約束を忘れ、神に背いた。争い、奪い合い、傷つけあった。戦いを重ねて世界を血と憎悪で汚した。
神は人間に失望し、怒った。誰も止められる者はいなかった。
地上は神の怒りから具現化した滅びの炎に焼き尽くされた。そして、悲しみから具現化した癒しの雨が降った頃には、全てが息絶えていた。
神は灰に埋もれて嘆いた。慰めてくれる者もいなかった。
しかし、神は時の記憶を再生して失った世界を懐かしむうちに、己の過ちを知った。
全ての人間が神との約束を忘れていたわけではないことを。祈りも愛も存在していたことを。
神は、己の体を二つに裂いた。
一人では分からない。止まらない。愛し合えない。
二人ならば、あるいは間違えずにいられるかもしれない。
こうして白と黒の神が誕生した。同一であり正反対、そして、対等の神。
『神々は相談して、灰色の世界の中に新しい世界を創ることにした。神の力を半分にした分、二度目の世界は一度目よりも小さくなった。今度こそ愛に満ちた世界を守るのだと、切なる祈りを込めて』
空の精霊の言葉を、レンフィは黙って聞いた。
『しかし、二度目の世界でもまた戦いは繰り返された。神々は待っている。人間が神と対等になってくれることを、大地が色とりどりの輝きで溢れることを。己が一つに戻っても、間違わないように』
白と黒の神は一つになって力を取り戻し、この灰色の外側の世界も救いたいと思っている。
しかし二度目の世界が不安定では、空間の区切りを外した途端に灰色に侵食されかねない。
まだまだ時間がかかりそうだった。
『汝は、力を示した。資格はある。しかし、あえて問おう。我が寵愛を求めるか。愚かで虚ろな内側の世界を愛せるか』
レンフィはすぐには答えられなかった。
空の精霊術は、途方もない力を秘めている。それもこれも全て、内側と外側の世界を等しく救うためにある。
その責任の重さに、息が詰まった。
せっかくやり直した内側の世界は、迷走を始めている。放置された外側の世界のことを知ってしまった以上、少しでも良い方向に導かなければならない。
しかし、残酷で理不尽な出来事が溢れる世界を、どうやって。
「私は……」
レンフィはリオルのことを想った。
この世界に彼がいる限り、自分の愛は消えない。心の真ん中に根付いている。
同じように他者を愛して慈しむ者たちは大勢いる。ならば、希望はあるように思えた。
「やっぱり世界のためには生きられません。力の使い方を間違えない自信もないです……でも、私は一人じゃない。愛しい人たちがいるこの世界を愛していたい。力の届く限り、守りたいです。だから――」
空の精霊が頷いた。
『ならば、我も愛そう。その尊い想いを。いつか全ての区切りが解き放たれ、真なる自由がもたらされることを信じている』
新しい力が精神の芯に馴染んでいく。
「ありがとうございます。頑張ります」
『愛し子よ、気をつけよ。愛と同じく、憎しみもまた、世界に根深く残るのだ……』
「え?」
抽象的過ぎて、何に気をつければ良いのか分からなかった。
問いかける前に、灰色の景色が遠ざかっていった。
深い眠りから覚め、レンフィはぼんやりと目を開けた。
「おはよう」
「あ……おはようございます」
にこにこと時の聖人ウツロギがレンフィの顔を覗き込んでいた。
つい数週間前に別れたばかりだが、こんなに早く再会するとは思っていなかった。
「無理に起きなくていいよ。体調は悪くない? 大丈夫?」
「はい。ありがとうございます。えっと……ここは」
レンフィはふかふかの大きなベッドに横たわっていた。見覚えのない豪華で広い部屋には、ウツロギの他に誰もいない。
覚醒した脳が慌てて眠る前の状況を思い出す。
麦畑でオトギリを捕縛した後、急ぎ塔に転移した。
本当に襲撃があったらしく、塔の周囲は騒然としていた。既に敵の姿はなかったが、リオルたちから説明を聞く間もなくレンフィは治療に駆り出された。特に、スグリとレドウの部下たちが瀕死の重傷を負っており、一刻を争う事態だった。残っていた霊力の全てを注ぎ込み、治癒術を施した。
そこまでは覚えている。
「ここは、リッシュア王国の王都のお城だよ。ボクも昨日到着したばかり。確か、レンフィが気を失ってから五日経ってるんだって」
「え!?」
「何度か起きていたみたいだけど、ずっと寝ぼけてたらしいよ。よほど反動が大きかったんだろうね」
ウツロギは労うように優しく微笑んだ。
「空の寵愛を受けたなら、あちら側のことも知った?」
「……はい。見ました」
この世界の外側に広がる灰色の壊れた世界。夢ではなかったのだと改めて実感した。
ウツロギは人差し指を自らの唇に当て、穏やかに言う。
「あちら側のことは、時と空の聖人しか教えてもらえないんだ。皆には内緒だよ」
「どうしてですか?」
「この世界の人間があちら側を意識すると、眠っているモノを起こしてしまうから。できるだけ刺激しないようにしないと」
「眠っているモノ……」
「一部は目覚めてこの世界に侵入している。もしかしたらレンフィにも擦り寄ってくるかもしれない。気をつけてね」
判然としなかったが、レンフィはそれ以上尋ねるのを躊躇い、素直に頷いた。
確かに、あの世界のことを誰かに話しても仕方がないことだと思う。現時点では何もできないのだ。
「ああ、でも、リオルにならこっそり教えてあげてもいいよ。彼がそばにいれば、近寄ってこられないと思うから」
「? そうなんですか?」
「うん。無色の人間にしては、力を持ちすぎていると思っていたんだよね。只者じゃなかったみたい」
何があったのか詳しくは本人に聞いて、とウツロギは話を打ち切った。
「先に話せて良かった。じゃあ、誰か呼んでくるよ」
「すみません。あの、これだけ……皆さんは無事なんでしょうか? リオルは」
自分にできる限界まで治療を行ってしまい、見届けることができなかった。
ウツロギは難しい表情をした。
「リオルは元気だよ。それに、レンフィの知り合いで死んだ人はいないと聞いてる。でも、無事と言っていいのかは微妙かな」
「微妙なんですか」
「うーん……そのことについては、レンフィがちゃんと回復してから相談させてほしい。いざとなったらボクも頑張るから、あまり気にしないようにね」
ウツロギは手を振って部屋を出て行った。
それから女性の医療官に診察してもらい、侍女たちに湯浴みや食事の世話を焼いてもらった。どうも体に力が入らず、幼い子どもみたいに全てされるがままになってしまった。
「では、もうしばしお休みください」
「あ、ありがとうございました……ああ、でも、リオルに」
「かしこまりました。あの方、ずっと心配されていましたから、お呼びいたしますね」
「ごめんなさい。よろしくお願いします」
侍女が退室し、一人になったレンフィは大きくため息を吐いた。
この待遇の良さから考えて、それほど悪い状況にはなっていなさそうだ。しかしまだ情報が足りなくて安心できない。早くリオルの顔を見たかった。
「…………」
広い部屋にぽつんとたった一人。先ほど見た灰色の世界のこともあって、かなり心細くなっていた。
待っている時間が辛い。
体の疲れは抜けきっていないが、霊力はだいぶ回復している。いっそのこと、空間転移で探しに行ってしまおうか。
思わずそんなことを考えてしまった自分を慌てて戒めた。空の精霊術は便利すぎて、傲り昂ってしまいそうになる。軽々しく使わないように制約を設けたほうが良さそうだ。
「レンフィ! 目が覚めたんだって?」
「あ、リオル……!」
ノックもなしに、リオルが部屋に入ってきた。
レンフィが腕を伸ばすと、そのまま抱き起してくれる。
「ごめんな。目が覚めた時にそばにいなくて。心細くなかったか?」
「う……少しだけ。でももう大丈夫」
「そっか」
しばし抱き合い、お互いの体温を感じる。戦場では慌ただしく話しただけで、こうやってゆっくり過ごすのは久しぶりだった。
少しの躊躇いもなく抱きしめてもらえるのが嬉しくて、レンフィは心の底から安心した。
「良かった。リオル、なんともなさそうで」
「ああ、おかげさまですっかり元気だ。一晩寝たらもう回復してた」
異常な回復力にレンフィは力なく笑った。
「他の皆も……まぁ、今のところ命に別状はない。詳しいことはレンフィが全快したら話すから」
「う、うん」
何か問題があった、と感じさせる物言いだった。気になるが、無理に聞き出すのは難しそうだった。
「リオル、怒ってない?」
「うん?」
「私、ダメって言われてたのに勝手に戦場に出て行っちゃったから」
「ああ、そのことか……」
後悔はしていないし、間違っていたとも思わない。あの時塔から飛び出さなければ、リオルは死んでいたかもしれない。
嫌われたり失望されたり、あらゆる覚悟をしていたが、その心配はなさそうだった。
「怒れるはずねぇだろ。お前のおかげで俺も、他の大勢の人間も助かったんだから。ありがとうな。結局、お前に頼っちまって、反省してる」
「ううん、もっと頼ってほしい。私だって役に立ちたい」
「そうだよな。でも俺は、お前に戦場の空気を知ってほしくなかったんだ……甘かったな」
リオルは苦しげに笑って、レンフィの頬に優しく触れた。
「怖かっただろ?」
「……リオルを喪う方が怖い」
彼の手を包み込むように握り締め、頬を寄せる。
「もう離れたくない。やっぱりずっと一緒がいい」
リオルは息を呑んだ。
「すげー嬉しいこと言ってくれるんだな。……分かった。俺も同じ気持ちだ。戦場から離れていたって安全とは限らないもんな。もうお前を置き去りにはしない」
「本当?」
じっと見つめると、リオルはからかうように笑った。
「ああ。つーか、空の精霊術を使えば、離れてたって一瞬で近くに来られるんだろ?」
「そうだけど、便利すぎるから簡単に使わないようにしようと思う……ダメな子になっちゃう」
「良い心がけだな。でも、いざという時には迷わず使えよ?」
「うん」
再びぎゅっと抱き寄せられ、リオルが耳元で囁いた。
「実は、さっきまで親父の様子を見に行ってたんだ」
「……え? リオルのお父さん? この国にいるの?」
簡単に事の経緯を聞いた。
武器を買いに行ったときにすれ違ったこと、戦場で自分を庇って父親が重傷を負ったこと、王都で治療を受けさせてもらえるようミスルトに頼んだこと。
なんとか一命を取り留めたが、義足での生活を余儀なくされること。傭兵業は引退するしかないそうだ。
「そうだったんだ……私、役に立てないかな?」
「無理だな。さすがに足は生えてこないだろ。……ああ、気にするなよ。お前が戦場全体に治癒の雨を降らせてくれなかったら、そのまま死んでただろうって。親父は運が良い方だし、お前には感謝しかない。意外と塞ぎ込んでなかったし」
「…………」
分かっている。全てを救おうなんて、それこそ傲慢だ。
それでも悔いが残った。もう少し早く塔を出れば、リオルの父親が負傷することはなく、犠牲者ももっと少なかったかもしれない。
レンフィはそれ以上言葉にできなかった。このような想いをさせたくなくて、リオルは戦場に自分を連れて行きたくなかったのだろう。考えが甘かったのは自分も同じだ。
「えっと……お父さんとお話はできた?」
「ああ、少しだけ。でもやっぱり気まずくてさ……もし嫌じゃなかったら、今度レンフィも一緒に見舞いに行かないか?」
「え、いいの?」
リオルは言う。
既にリッシュア王には、ウツロギを交えてこれまでの経緯を説明した。今は臣下とともに協議している最中だという。
レンフィとリオルへの処遇も、三国同盟についても、今後の白亜教国への対応も、それ以外の問題にも、すぐには答えが出ないだろう。
まだムドーラに帰れそうになかった。リッシュア王の判断を待つ間、父親を見舞う時間は十分にある。
「来てくれると助かる。せっかくだからちゃんと親父に紹介したいし」
「紹介……」
「おう。最高の恋人だって自慢してやる」
レンフィは小さく悲鳴を上げた。
「なんだよ、嫌なのか」
「ううん。緊張しちゃって……あ、でも、すごく嬉しい、かも」
足のことで落ち込んでいるだろうし、どのように挨拶をすれば良いか分からない。仲良くしてもらえるだろうか。交際を反対されたらどうしよう。
そのような不安はあるが、リオルの家族に会わせてもらえることを単純に喜んだ。ものすごく特別なことのように思える。
「よし。そうと決まれば、今日はもう休め」
「もう? まだいろいろお話したい。プルメリス様とスグリさんは――」
「ダメだ。二人とも生きてる。大丈夫だからな。それよりレンフィ、体に力が入ってないだろ?」
「う」
「無理は良くないぜ。今度目が覚めたらたくさん喋ろうな」
リオルはベッドにレンフィを寝かせ、そっと布団をかぶせた。渋々レンフィは従う。
「寝過ぎだと思ったら起こしてね」
「ああ。……おやすみ」
「おやすみなさい」
素直に目を閉じて、呼吸を整える。指摘された通りまだ体が辛かった。すぐに眠気が押し寄せてくる。
「……渡さないからな。絶対に。これからずっと一緒にいるのは、俺だ」
リオルの切実な声が聞こえた気がした。
しかし微睡みに抗えず、今度は夢も見ずにレンフィは眠りの中に落ちていった。
第五章・完
後日、幕間を投稿いたします。
申し訳ありませんが、その後はまた書き溜めの時間をいただきます。
よろしくお願いいたします。




